第14話 ギャル 噂の娘
第14話 噂の娘
人の口というのは、閉じているようでいて、少し目を離せばすぐに開く。
朝の支度の最中、めいはそんなことをぼんやり思った。
思った、というより――思わされていた。
廊下を歩けば、声が止む。
桶を運べば、視線が寄る。
部屋へ入れば、今までよりわずかに空気が張る。
昨日までと同じようにしているつもりなのに、同じではいられない。
それがめいには、ひどく居心地が悪かった。
(やだなあ……こういうの、いちばんだるい)
露骨に何かを言われるほうが、まだましだ。
陰でひそひそされるのは、聞こえないぶんだけ勝手に想像がふくらむ。
しかも、たいてい想像はろくでもない方向へ育つ。
手にした布を絞りながら、めいはなるべく気にしていない顔を作った。
気にしていると見せれば、それだけで負けたような気がする。
けれど、完全に無視できるほど、めいはもう鈍くなかった。
「聞きました? あの娘のこと」
「聞かぬわけがないでしょう」
「まさか、あの場で」
「でも、出すぎた真似とも申しますし」
少し離れたところで交わされる声。
小さく抑えているつもりでも、耳に入るものは入る。
あの娘。
たぶん、自分のことだ。
めいは顔を上げず、雑巾を桶の縁にかけた。
振り向いて確かめるほど素直でもないし、そんなことをして当たりだったら余計にしんどい。
(いや、もう絶対あたしのことじゃん)
確信だけはあった。
そのとき、すぐ横を通った紬が、何事もない調子で言った。
「手が止まっています」
「……止まってないし」
「止まっていました」
すぱん、と切られて、めいは小さく口をへの字にする。
紬はいつもの落ち着いた顔のまま、めいのそばに膝をついた。
「今日は、いつにも増して目が多いですね」
「他人事みたいに言うじゃん」
「他人事ではありません。あなたが変なことをすると、近くにいる者まで見られます」
「それ、地味に責めてる?」
「事実を申しております」
言い方がやわらかいだけで、中身はわりと刺してくる。
だが、紬のそういうところには少し助けられてもいた。
遠回しに庇われるより、こうして普通に話されるほうが、今のめいには楽だった。
「……そんなに?」
「そんなに、です」
短い返事に、めいは天井を仰ぎたくなった。
昨日のことが広まっているのだろう。
上に近い場で、余計なことをして、結果として流れを止めなかった。
よく思う者もいれば、出すぎたと見る者もいる。
それくらい、めいにもわかる。
わかるのが、また面倒だった。
しばらくして、下の控えの間では案の定、めいの噂で空気がざわついていた。
「無礼な娘よ。身の程をわきまえぬ」
「でも、あのとき止まらなかったのでしょう?」
「結果が良ければ何でもよいわけではありません」
「けれど、あのまま遅れていたら、それはそれで……」
ひそひそ、というには少しだけ熱のある声が交わされる。
誰もが大っぴらには言わない。けれど、みな少しずつ自分の見立てを持っている。
めいは障子の影に立ったまま、うへえ、と思った。
人ってほんと、噂好きだな。
いや、自分だって渋谷では人の恋バナだの修羅場だので盛り上がったことがないわけじゃない。ないけど、今それをこっちに返されると、全然笑えない。
「春宮殿」
呼ばれて振り向くと、鈴が遠慮がちに立っていた。
相変わらず少しおどおどしているが、前よりはめいの前で強張らなくなっている。
「なに?」
「あの……あまり、お気になさらぬほうが」
「いや無理でしょ、これで気にすんなは」
「そ、それは……そうかもしれませんけれど……」
鈴は困ったように視線を泳がせ、それから小さな声で続けた。
「でも、助かったと思っている者もおります」
「……誰が?」
「わ、わたしが」
思ってもいなかった返答に、めいは目を瞬かせた。
「あと……声には出さぬだけで、ほかにも」
鈴はそこで言葉を切った。
言い切ってしまうには勇気が要るのだろう。けれど、その途中まででも、めいには十分だった。
「ありがと」
そう返すと、鈴は少しだけほっとしたように笑った。
そこへ、すっと影が差した。
「ずいぶんとやさしいこと」
千代だった。
背筋をきっちり伸ばしたまま立つ姿は、今日も隙がない。声色にもいつもの固さがある。
鈴はびくりとして、少し下がった。
「ち、千代殿……」
「庇うのは勝手です。ですが、ひとつ間違えば大事だったこともお忘れなく」
正論だ。
正論だからこそ、刺さる。
めいはちょっとだけむっとして、千代を見た。
「別に、好きでやったわけじゃないし」
「なお悪いです。考えなしに動いたということでしょう」
「はあ?」
「ですが」
千代はそこで一度言葉を切った。
めいも鈴も、ついその先を待ってしまう。
「あの場で遅れが出なかったこと自体は、事実です」
言いにくそうでもなく、かといって素直でもなく、千代はただそう言った。
認めたくはない。だが、嘘はつけない。そんな声音だった。
めいは思わず、へえ、という顔になる。
「なにその顔は」
「いや、あんたがそういうこと言うんだって思って」
「事実を申したまでです」
「今日そのセリフ流行ってんの?」
千代は眉を寄せたが、言い返しはしなかった。
代わりに、ちらりとめいの指先へ視線を落とす。
「……その爪」
「ん?」
めいもつられて自分の手を見る。
傷んだネイルの名残が、もうほとんど剥げかけていた。
色はくすみ、先は欠け、前みたいなつやもない。
こっちへ来たばかりの頃は、もっとはっきり“前の世界のもの”だったのに、今は大奥の空気に削られて、半端に残る痕跡になっている。
「なんでもありません」
千代はそれだけ言って、すぐに視線を戻した。
だが、そのやり取りを少し離れたところから見ていたお雪は、何も言わずに目だけを細めた。
いつもの無口な顔のまま、ただ静かに見ている。
それがかえって、めいには妙に気になった。
「……なに」
「別に」
お雪は短く返すと、手にしていた布を畳み直した。
「前より、少しだけ」
「少しだけ、なに」
「顔が、ここにある顔になってきた」
それだけ言って、お雪はもう黙ってしまった。
ここにある顔。
意味がわかるような、わからないような言い方だった。
でも、たぶん褒めてはいない。かといって、けなしているのでもない。
ただ見たままを置かれた感じがして、めいは返す言葉を失った。
昼の仕事が始まってからも、視線の多さは変わらなかった。
ひとつ頼まれごとをされるたび、これは本当にただの用事なのか、それとも何か見られているのかと勘ぐってしまう。
疲れる。
何をしていても、背中が落ち着かない。
それでも手を抜けば、ここではすぐに形になる。
めいは黙って動いた。
すると途中、紬がそっと近づいてきた。
「次、香炉の灰を替えるようにとのことです」
「了解」
受け取った包みを手にして、めいはふと眉をひそめた。
「……軽くない?」
「何がです」
「これ、灰。少なくない?」
紬はめいの手元を見て、わずかに目を細めた。
包みの大きさを見れば、たしかに足りない。全部の香炉を替えるには、どう考えても半端だ。
「渡したのは誰ですか」
「そこまでは知らない。置いてあったし」
「そうですか」
紬の声音は静かだったが、その静けさが逆に引っかかった。
めいは包みを持ったまま、小声で言う。
「……これ、わざと?」
「断言はできません」
「でも、ありえるんだ」
「ありえぬとは申せません」
めいは小さく息を吐いた。
あからさまに転ばせるような真似ではない。
けれど、こういう小さな不足は地味に困る。
知らずにそのまま動けば、最後に足りなくなって責められるのは、たぶん持っていった者だ。
(うわ、陰湿……)
思わずそう思ったが、声には出さない。
出せば負ける気がした。
「どうする」
「どうなさいますか」
「質問返しやめて」
紬は少しだけ息をついた。
呆れたのか、試しているのか、その両方かもしれない。
めいは包みを見て、それから行き先の並びを頭の中で思い出した。
どこから替えて、どこを後に回せば、途中で補充を頼んでも不自然にならないか。
前なら、足りないじゃん最悪、で終わっていた。
でも今日は、それだけで止まりたくなかった。
「最初の二つを済ませて、そのあと補充頼む」
「なぜ」
「いきなり足りませんって言うより、実際に使ってからのほうが角立たないし。あと、最初に使う場所は量が少なくて済むやつだから」
「……見ていましたね」
「まあ、一応?」
紬は一瞬だけ黙った。
それから、ほんの少しだけ口元をやわらげる。
「では、そのように」
その反応が、めいには少し意外だった。
褒められたわけではない。けれど、否定もされなかった。
それだけで、なぜか背筋が少し伸びる。
実際、そのやり方で事は大きく乱れずに済んだ。
途中で不足に気づいたふうを装って補充を頼み、香炉の支度そのものは止めなかった。
だが、終わったころには、めいの中でひとつだけはっきりしたことがあった。
(これ、ぜったい試されてる)
昨日の一件で目をつけられた。
よくも悪くも、見られる位置に置かれた。
だから、こういう小さな綻びをわざと混ぜる者が出てくる。
できるかどうか。
崩れるかどうか。
調子に乗るか、潰れるか。
たぶん、いろんな目がそれを見ている。
夕刻、部屋へ戻るころには、空がやわらかく暮れかけていた。
障子越しの光が薄まり、昼のざわつきもようやく遠くなる。
めいは座るなり、はあ、と長く息を吐いた。
「だる……」
ほんとうに、だるい。
体も疲れたが、それ以上に気疲れがひどい。
膝を抱えて手元を見れば、爪の先に残った色が、夕方の光の中で鈍く沈んでいた。
剥がれたネイル。
中途半端に残るつや。
渋谷にいた自分の名残みたいで、少しだけ胸が詰まる。
そのとき、不意に鼻の奥をつくような消毒めいた匂いがよぎった。
白い壁。
冷たい空気。
ぴ、……ぴ、……という規則正しい音。
「……っ」
息が止まる。
次の瞬間にはもう消えていた。
障子の向こうにあるのはいつもの大奥の夜で、白い壁なんてどこにもない。
なのに、いま確かに何かが触れた気がした。
「なんなの……」
小さくつぶやいても、答える者はいない。
怖い、とまではまだ言えなかった。
でも、わからないものが自分の中にある感じだけは、じわじわと広がっていく。
めいはぎゅっと指先を握りこんだ。
剥がれたネイルが掌に少し当たる。
ここに来ても、自分は自分のままのはずだった。
ギャルで、だるくて、でも見過ごせないときは勝手に体が動く、そういう自分。
なのに、最近はそこへ別の何かが混じる。
場の流れが見えること。
人の詰まりがわかること。
そして今みたいな、どこか別の記憶の断片。
それが全部つながっている気がして、つながっていない気もした。
昼間のことを思い出す。
視線。噂。足りない灰。
あれはたぶん、これから始まることの最初のひとつにすぎない。
めいは膝に額を乗せて、しばらくじっとしていた。
見られるのは、しんどい。
噂されるのは、もっとしんどい。
でも、その中で何もわからないまま立ち尽くすのは、たぶんもっと嫌だ。
だったら。
「……やれるだけ、やるしかないじゃん」
誰に聞かせるでもなく、ぽつりとこぼす。
強がりかもしれない。
けれど、それでも口にしたら少しだけほんとうになる気がした。
その夜、めいは知った。
噂になるというのは、ただ名前が広まることではない。
人の好き嫌いと、警戒と、興味が、自分のまわりに集まり始めるということだ。
そしてその中には、明らかな悪意ではなくとも、こちらを測る手つきが混ざっている。
めいはまだ知らない。
その小さな綻びが、明日からもっとはっきりした形で自分に向けられることを。
ただ、胸の奥でひとつだけ、確かなものがあった。
自分はもう、誰の目にも入らぬ娘ではいられない。
そうして静かに、大奥の夜は更けていった。




