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第13話  ギャル 見られる者へ



 翌朝、目が覚めた瞬間から、めいはもう帰りたかった。


「……だる」


 布団の中で小さくつぶやく。

 まだ起き上がってもいないのに、もうだるい。

 昨日のことを思い出しただけで、胸のあたりが微妙に重かった。


 簾の向こう。

 静かな声。

 場の空気を一言で変えるような、あの気配。


 鷹司。


 ただ名を呼ばれただけなのに、なんでこんなに消耗してるのか分からない。


(いや、見なくていいんだけど)


 心の中でだけ、こっそり言い返す。


「めい様、お目覚めにございますか」


 障子の向こうから、紬の声がした。


「……起きてる」


「お入りしてもよろしいですか」


「どーぞ」


 障子が開き、紬がいつものように入ってくる。

 きっちり整った所作も、静かな声も、今日は妙にまぶしく見えた。


「お顔色が優れませぬね」


「昨日あんなのあったあとで元気だったら逆に怖いでしょ」


「左様にございますか」


「紬、たまに共感が遠いんだよね」


「恐れ入ります」


「褒めてない」


 言いながら起き上がる。

 寝起きの髪を整えられ、衣を重ねられ、帯を締められる。

 ここへ来たばかりの頃は、そのひとつひとつがひたすら面倒だった。

 今も面倒ではある。

 でも、体はもう流れだけなら覚え始めていた。


 それが少しだけ気に入らない。


 紬が袖口を整えながら、ふとめいの指先に目を落とした。


「……まあ」


「なに」


「お爪にございます」


 めいも自分の指先を見る。


 ネイルはもう、最初の頃よりずいぶん傷んでいた。

 先は少し欠け、つやも薄れている。

 渋谷にいた頃なら、こんなの即テンション下がるやつだ。


「あー……まあ、そりゃそうか」


「以前に拝見したときとは、違って見えます」


 紬の声は静かだったが、そこにほんのわずかに不思議そうな色が混じっていた。


「前はもうちょいマシだったってこと?」


「はい」

「この場の仕事は、思うた以上に細やかにございますね」


「ね。普通に爪死ぬ」


「つめ、しぬ」


「いや、そういう意味じゃなくて」


 思わず笑いそうになる。

 でもその笑いも、指先を見ているうちに少しだけ薄れた。


 ここに来た時間の分だけ、前の自分の痕跡が削れていくみたいだった。


 紬はそれ以上は言わず、静かに手を引く。


「今日は、御園様のお部屋へ先に」


「え、やだ」


「やだ、ではございませぬ」


「今日はちょっと顔見たくないなーとか、そういうやわらかい拒否も通らない感じ?」


「通りませぬ」


「だよね」


 知ってる。

 知ってるから嫌なのだ。


――


 御園の部屋は、朝から空気が張っていた。


 めいが座ると、御園は間を置かずに口を開いた。


「昨日のこと、忘れたわけではありますまいね」


「忘れる余裕なかったです」


「口の利きよう」


「……失礼しました」


 朝からこれである。

 めいは早くもげんなりした。


 御園はその顔を見ても、まったく動じない。


「鷹司様のお目に留まったからとて、浮つくことなきよう」


「浮ついてはないです」

「むしろ沈んでるまである」


「軽口を慎みなさい」


「はい」


 慎めていない気もするが、もうこれ以上はやめておく。


 御園は静かに、しかし昨日までとは少し違う重さで言った。


「お前は、見られる者となりました」


 めいは眉をひそめた。


「……見られる者って、何それ」

「嫌なんだけど、その響き」


「好む好まざるの話ではありませぬ」

「上が一度気に留めた者は、良くも悪くも目に入る」


「最悪じゃん」


「その最悪を招いたのは、お前にございます」


「はいはい」


「返事は一度」


「……はい」


 言い直しながら、めいは内心で盛大にため息をつく。


 御園は一枚の紙をめいの前に置いた。

 細かな手順が、びっしりと記されている。


 茶器を出す順。

 下がる位置。

 声をかける間。

 視線の落とし方まで。


 めいは見た瞬間に顔をしかめた。


「多くない?」


「少のうございます」


「うそでしょ」


「嘘ではありませぬ」


 ぴしゃりと言い切られ、めいは黙った。


「昨日は、たまたま流れを戻したにすぎませぬ」

「されど、次も同じようにできるとは限らぬ」

「上に見られる以上、粗はこれまで以上に通りません」


「……分かってますよ」


 めいが小さく言うと、御園はわずかに目を細めた。


「本当に?」


「分かってる」

「昨日だって、あとでめっちゃ怖くなったし」


 言ってから、少しだけ気まずくなる。

 御園の前で、そんな本音を落とすつもりはなかった。


 けれど御園は笑わなかった。

 ただ静かに告げる。


「怖いと思うなら、その怖さを捨てぬことです」


 めいは目を上げた。


「え」


「怖さを失う者ほど、無作法にございます」


 それは珍しく、ただ叱るだけの言葉ではなかった。


 めいは少しだけ黙る。

 御園も、それ以上は繰り返さなかった。


「参りなさい」

「本日は小萩の場に加え、夕刻には奥書院へ品を届けてもらいます」


「奥書院?」


「上に近い場にございます」


「やだなあ……」


「やりなさい」


「はい」


 もう、そう返すしかない。


――


 その日、廊を歩くだけで空気が違った。


 昨日までも見られていた。

 珍しいものを見る目、警戒する目、よそ者を見る目。

 でも今日は違う。


 “あの者か”という視線だった。


(やりづら……)


 めいは心の中で顔をしかめる。


 部屋へ入ると、鈴がすっと背筋を伸ばした。

 千代は相変わらず固い顔をしているが、前みたいに露骨にはねのける感じではない。

 お雪は無言のまま、いつもよりめいを見る回数が多かった。


「……おはよ」


 めいが言うと、鈴が少し慌てて頭を下げる。


「お、おはようございます」


 前より声が固い。

 気を遣われているのが分かる。


「いやそんな緊張しなくてよくない?」


「そ、その……」


 鈴が言葉に詰まる。

 代わりに千代が口を開いた。


「緊張もいたします」

「昨日のこと、もう広まっておりますゆえ」


「広まるの早くない?」


「この場では早くございません」


 千代は淡々としていた。

 でも前のような棘だけではなく、事実を伝えている響きが強い。


「春宮様は、もう昨日までと同じではないのでしょう」


「やめて」

「その言い方、なんかこわい」


「わたくしに申されても」


「冷たいなあ」


「事実にございます」


 そこへ、鈴が小さく口を開いた。


「でも……わたくしは、昨日、助かりました」


 めいはそちらを見る。


「別に、たいしたことしてないけど」


「それでも、にございます」


 鈴はそう言って、少しだけ笑った。

 控えめな笑いだったけれど、そのやわらかさは昨日までより近い。


 お雪は無言のまま、ほんの少し目を伏せた。


 その空気の変化を感じながらも、めいは居心地の悪さを拭えなかった。


(見られる者って、こういうことかよ)


 全然うれしくない。

 むしろ面倒しか増えていない。


――


 小萩の場は、今日も容赦がなかった。


「遅い」


「はい」


「音を立てぬ」


「はい」


「視線を上げぬ」


「はい」


「返事だけは良いのですね」


「そこだけはって言いたいんですか」


「口を慎みなさい」


「はい」


 めいは心の中で全力で理不尽と書いた札を振っていた。

 でも小萩にそれが届くはずもない。


 それでも今日は、ただ叩かれて終わりではなかった。


 布の持ち方。

 一歩引く間。

 器を置く前の呼吸。

 下がるときに邪魔をせぬ角度。


 小萩は厳しく見ている。

 だが昨日までより、細かく“仕込んで”いた。


(え、なに)

(今日ちょっと本気で教育されてない?)


 ありがたいより先に、逃げたさが来る。

 でも逃げられない。


 昼に近くなったころ、奥書院へ運ぶ品の支度が始まった。


 漆の箱に収められた香と文箱。

 軽くはないが、一人で持てる重さだ。


「春宮めい」


「……はい」


「お前が運びなさい」


「私?」


「不満でも」


「あるけど、言っても無駄そうなので持ちます」


 言いながら受け取る。

 小萩はその返しを咎めなかった。

 その無言が逆に怖い。


 千代が横から小さく言った。


「奥書院は、粗相の許されぬ場にございます」


「今日ずっとそれ聞いてる気がする」


「それだけの場ということです」


「はいはい……はい」


 持ち直す。

 深呼吸ひとつ。


 紬がそっと近づき、箱の端を整えた。


「足元にお気をつけて」


「うん」


「あと」


「なに」


「何かあっても、すぐに飛び出しませぬよう」


「それ昨日の私に言ってる?」


「はい」


「ですよね」


 苦い顔のまま、めいは歩き出した。


――


 奥書院へ続く廊は、人通りが少ない。


 磨かれた板の床。

 差し込む光。

 遠くで鳴る衣擦れの音。


 静かだ。

 静かなのに、妙に息が詰まる。


 箱を抱えて進みながら、めいはふと足を止めた。


 足音が近い。


 まだ見えない。

 でも、角を曲がった先から誰かが速く来る。

 しかも、前を見ていない。


(……え)


 次の瞬間、角の向こうから小女房が飛び出してきた。

 顔は青ざめ、両手には盆。

 案の定、まっすぐこちらへ突っ込んでくる。


「きゃっ――」


 ぶつかる。

 そう思うより先に、めいの体が半歩引いていた。


 箱を抱え直し、肩をひねり、ぎりぎりで道を外す。


 小女房の盆が大きく揺れる。

 乗っていた小さな器がひとつ、滑りかけた。


「うわっ」


 めいは反射で肘を伸ばし、落ちかけた器を下から受ける。


 かた、と小さく鳴る。


 落ちていない。

 割れてもいない。


 小女房は真っ青なまま、その場で崩れそうになった。


「も、申し訳……っ」


「いや、平気」

「てか走ったら危ないでしょ」


 言ってから、ここではこういう言い方まずいかな、と思う。

 でも遅い。


 小女房はがたがた震えている。

 めいは器を盆へ戻しながら、胸の奥にまたあのざわつきを覚えた。


(……まただ)


 ぶつかる前に分かった。

 見えた、というほどはっきりじゃない。

 でも、来ると思った瞬間には、もう体が動いていた。


 昨日と同じだ。

 いや、昨日より速い。


「何事です」


 後ろから、静かな声が落ちた。


 めいの肩がびくりと揺れる。


 振り向くと、そこには年嵩の女が立っていた。

 すらりとした立ち姿。

 薄い色の打掛。

 その後ろに、二人の女房が控えている。


 小女房が息を呑み、額づいた。


「も、申し訳ございませぬ……!」


 めいもあわてて頭を下げる。

 ただ、箱を抱えているせいでちょっと中途半端になった。


「……春宮めいにございます」


 名乗りながら、嫌な予感がした。


 女はめいを見て、ほんのわずかに目を細める。


「あなたが」


 その三文字だけで、知ってる側だと分かった。


「昨日、鷹司様のお目に留まったとか」


 やっぱり広まってる。

 めいは心の中で頭を抱えた。


「……たぶん、はい」


「たぶん?」


「えっと、見られたのはたしかなので」


 我ながらひどい返しだと思う。

 でも相手は、ふっと口元をゆるめた。


「変わった娘ね」


 笑っているのに、どこまで本気か分からない。

 こういう人、たぶんいちばん怖い。


 女は足元の器を見る。

 小女房の青ざめた顔を見る。

 そして最後に、めいの抱える箱へ視線を移した。


「落とさなかったのですね」


「はい」

「たまたまです」


「たまたまで、それだけ動けるものかしら」


 めいは答えに詰まった。


 説明できない。

 自分でも、なんでか分からない。


 女はわずかに口元を上げた。


「名は?」


「え」


「わたくしの名です」

「聞いておきたいのでしょう」


 見透かされたみたいで、めいは少しむっとする。


「……はい」


「藤波にございます」


 やわらかな響きの名だった。

 けれど、その目は少しもやわらかくない。


「春宮めい」

「目立つというのは、良いことばかりではなくてよ」


「それ、今日めっちゃ実感してます」


 思わず返すと、藤波はまた小さく笑った。


「正直なこと」

「ですが嫌いではありません」


 何が正解なのか全然分からない。

 味方なのか、違うのか。

 判断がつかないまま、藤波は小女房へ目を向けた。


「下がりなさい」

「次は走らぬこと」


「は、はい……っ」


 小女房は何度も頭を下げて去っていった。


 藤波は、もう一度だけめいを見る。


「あなたも」

「先を読む目があるなら、使いどころを違えぬことです」


 その言葉に、めいの喉がつまる。


 先を読む目。


 鷹司とは違う。

 でも、同じものを見ている。


「……失礼します」


 それだけ言うのが精いっぱいだった。


 藤波は軽く顎を引き、通り過ぎていく。

 残された香の匂いが、ふっと鼻をかすめた。


 その瞬間。


 白い壁。


 冷えた空気。


 規則正しく鳴る、電子音みたいなもの。


「……っ」


 頭の奥で、何かが弾けた。


 めいは思わず足を止める。

 視界が一瞬だけ揺れた。

 箱を抱える腕に、ぐっと力が入る。


「めい様?」


 いつの間にか追いついていた紬の声が、少し遠くに聞こえた。


「だいじょうぶ」


 即答したけど、全然大丈夫じゃない。


 今の匂いで、何かが引っかかった。

 思い出しかけた、というより、向こうから急に刺さってきたみたいだった。


「お顔の色が」


「平気」

「ちょっと、くらっとしただけ」


 紬はそれ以上問い詰めなかった。

 でも、その目だけはしっかりめいを見ている。


 めいは息を整え、箱を抱え直した。


(電子音ってなに)

(白い壁って何)

(ここじゃない)


 分からない。

 分からないのに、妙に生々しい。


 忘れているというより、どこかに押し込められていたものが、少しだけ滲んだ感じだった。


――


 品を無事に届けて戻るころには、さすがに足が重かった。


 部屋へ戻ると、鈴がそっと湯呑を差し出した。


「お疲れではありませんか」


「疲れた」

「今日ずっと疲れてる」


 受け取ると、鈴は少し困ったように笑う。


「やはり、見られるのは違うのですね」


「違うよ」

「めっちゃ違う」

「なんかもう、みんなの目が“あの人?”みたいな感じで来るし」


 鈴は苦笑し、千代は針仕事の手を止めぬまま言った。


「実際、そのようなものかと」


「千代さん、たまに正論で刺してくるよね」


「事実を申しているだけです」


「冷たい」


「冷たくはありませぬ」


 そのやりとりに、お雪がふっと目を上げた。


「……でも」


 三人の視線が向く。

 お雪は少しだけ間を置いてから言った。


「今日のあれ、見事でした」


 めいは瞬いた。


「え」


「奥書院の廊でのこと」

「もう広まっています」


「また!?」

「早すぎない!?」


「早うございますね」


 千代が淡々と添える。

 そこは否定しないんだ、と思う。


 お雪は表情をほとんど動かさないまま続けた。


「助けられた者は、忘れませぬ」


 その一言は短かった。

 でも、思ったより胸に残った。


 めいは湯呑を見つめる。


「……助けるつもりで動いてるわけじゃないんだけど」


「それでも、にございます」


 鈴がやわらかく言う。


 めいは返事をしなかった。


 昨日、鷹司に問われた。

 助けたかったのか、と。


 本当はまだ、自分でも分からない。


 ただ、まずいと思った。

 遅れると思った。

 落ちると思った。


 そうしたら、体が勝手に動いていた。


 それが誰かのためなのか、自分のためなのか、まだうまく言えない。


――


 夜。


 一人になってから、めいはそっと指先を見た。


 欠けた爪。

 薄れた色。

 それはみっともないというより、なんだか妙にさびしかった。


 前の自分の痕跡が、少しずつ削れていく。

 でも、なくなったわけじゃない。


 紬は、前と違うと言った。

 たしかに違う。

 でも全部が消えたわけじゃない。


 今日も匂いで思い出した。


 白い壁。

 冷たい空気。

 規則正しい、あの音。


 それは渋谷でも、大奥でもない。


「……どこだよ」


 小さくつぶやく。


 答える者はいない。


 でも、今までとは違った。

 ただ“分からない”だけじゃない。

 分からないものが、向こうから少しずつこちらへ滲んできている。


 しかも最悪なことに、それは鷹司だけじゃない。

 藤波とかいう人にまで見抜かれはじめている。


「ほんとやなんだけど」


 布団に倒れ込みながら、めいは天井を見る。


 この世界で目立つのは面倒だ。

 見られるのも面倒だ。

 でも、その面倒の先に何かがある気がしてしまう。


 自分の知らないところで。

 自分の知らない理由で。


 それがじわじわ近づいてくる気配だけが、胸の奥に残っていた。


 めいは目を閉じる。


 眠りたいのに、白い壁がちらつく。


 遠くで、誰かが自分の名を呼んだ気がした。

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