表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
12/17

第12話  ギャル 覚えのない



 御広座敷を下がってからも、めいの胸のざわつきは消えなかった。


 廊を歩いているのに、気持ちだけがまだ簾の向こうに引っかかっている。


(……何あれ)


 今の者は、誰です。


 たったそれだけだ。


 それだけなのに、あの場の空気は一気に変わった。

 小萩でさえ膝を折るほどの相手。

 静かな声だったのに、逆らえない重さだけがあった。


「春宮めい」


 低い声に、めいはびくりとして顔を上げた。


 前に立っていたのは紬ではない。


 御園だった。


「……はい」


 反射で背筋が伸びる。

 でも、嫌な予感しかしない。


 御園はめいをひと目見て、静かに言った。


「お前はいつも、波を立てずにおれぬのかえ」


 いきなりそれだった。


 めいはちょっと眉を寄せる。


「立てたくて立ててるわけじゃないです」


「口の利きよう」


「……失礼しました」


 訂正はした。

 したけど、内心では全然納得していない。


 だってあの場、止まっていたら絶対まずかった。

 めいにだってそれくらいは分かった。


 御園はそんな顔を見て取ったように、少しだけ目を細めた。


「得心がいかぬような顔をしておりますね」


「別に」


「しております」


「……ちょっとだけ」


 完全に黙るのも癪だった。


「此度のこと、本来なら咎められてもいたしかたありませぬ」


「それはまあ、はい」


「勝手な真似にございました」


「それも、はい」


 そこまでは認める。

 けれど、全部引っ込める気にもなれない。


「でも、あのままだと止まってたと思います」


 つい出た。


 言ったあとで、やばいかな、とは思う。

 でも引っ込められない。


 御園はすぐには叱らなかった。


「……言い訳をするのですか」


「言い訳っていうか」

「いや、勝手だったのはそうなんですけど」


 めいは自分でも何を弁明したいのか少し分からなくなりながら、それでも口を止められなかった。


「止まったら、もっとまずかったかなって」


 御園はしばらく黙っていた。


 その沈黙が長くて、めいはやっぱ余計なこと言ったかも、と思う。


 やがて御園が口を開いた。


「……そうでしょうね」


 めいは思わず顔を上げた。


「え」


「止まれば、場は乱れたやもしれませぬ」


 あっさり認められて、逆に拍子抜けする。


 でも次の言葉はやっぱり御園だった。


「だからといって、何をしてもよいわけではありませぬ」


「それは、はい」


「分かったような顔をしなさるな」


「難しいな……」


「何か申しましたか」


「いえ何も」


 御園の前だと、口がちょいちょい勝手に滑る。

 ほんとよくない。


 その御園が、ほんの一拍置いてから言った。


「その波を、上がご覧になった」


 めいはまばたきを止めた。


「……上?」


「お目通りにございます」


 その一言で、喉がからりと乾く。


「え、今から?」


「今にございます」


「急すぎない?」


「急でなければ、お前は逃げるでしょう」


「……否定できない」


 御園は呆れたように小さく息をついた。


「紬」


「は」


 控えていた紬が、すぐに一礼する。


「支度を」


「承知いたしました」


 めいは御園と紬を見比べた。


「待って、ちょっと」

「私、何で呼ばれるんですか。怒るならここで怒ればよくない?」


「上のお心を、下が勝手に量るものではありませぬ」


「それ便利な言い方だなあ」


「春宮めい」


「……はい」


 名前だけで黙らされる。

 それが御園だ。


 でも御園は、そのまま冷たく切り捨てるだけではなかった。


「呼ばれるのは珍しきこと」


「うれしくない珍しさだよね」


「そうでありましょうね」


 否定しないのが余計に怖い。


――


 部屋へ戻ると、空気が少し違っていた。


 鈴も千代も、お雪も、めいを見た瞬間にほんのわずかに手を止める。


 さっきまでと視線の温度が違う。


(やだなあ、もう)


 紬が打掛を持ってくる。


「こちらをお召しくださいませ」


「うわ、やっぱり着替えるんだ」


「お目通りにございますゆえ」


「その“ゆえ”で全部押し切らないでほしい」


「押し切ってはおりませぬ。事実を申し上げております」


「強い」


 紬は淡々とめいの襟を直し、髪を整えていく。


 鏡の中の自分は、ずいぶんこの場所らしい姿になっていた。

 でも、中身は全然だ。


「紬」


「はい」


「私、今すごく嫌な予感しかしないんだけど」


「そのようなものでございましょう」


「励ます気ある?」


「無責任な慰めはいたしませぬ」


「それはそう」


 妙に筋が通っていて、ぐうの音も出ない。


 紬が袖口を整えようとして、ふと手を止めた。


「……爪の色が、薄れておりますね」


 めいは自分の指先を見て、すぐに顔をしかめた。


「あー……やっぱり?」


 うっすら残っていた色は、ところどころ欠けていた。

 ここへ来たばかりのころより、明らかに薄い。

 水仕事や細かな作業のせいだろう。つやももう、ほとんどない。


「以前拝見した折は、もう少し鮮やかでございました」


「やだ最悪」


 思わず本音が漏れる。


「中途半端がいちばんだるいんだよね……」


 紬がわずかに首をかしげる。


「だるい、にございますか」


「よくないってこと」


 めいは指先を見つめたまま、小さく息を吐く。


「こういうの、ちゃんとしてると気分上がるのに」

「今めっちゃ半端。気になる」


「それほど気にかかるものにございますか」


「気になるでしょ、普通に」


「普通、にございますか」


 紬はまだ不思議そうだったが、めいにはそれが当然だった。

 爪がきれいだと、ちょっと気分がましになる。

 逆にぼろいと、地味にへこむ。

 そういう感覚だけは、ここへ来ても変わらない。


「……塗り直したい」


「ぬり、なおす?」


「うん。まあ、無理なんだけど」


 言ってから、めいは少しだけ口をつぐんだ。


 やり方は知っている。

 たぶん、手つきも覚えている。

 けれど今は、あの小さな瓶も、甘い匂いも、どこにもない。


 思い出せないことはあるのに、こういうどうでもいい感覚だけは妙に残っている。

 それが少し、おかしかった。


「変なこと言わないほうがいいよね」


 ごまかすように、めいは言った。


「言わぬほうがよろしいかと」


「でも、聞かれたら?」


「偽らぬことにございます」


「いや、だから」

「自分でも分かってないこと聞かれたらどうするの」


 紬の手が、ほんのわずかに止まった。


「……そのときは、分からぬと申すほかございますまい」


「それで済むかな」


「済ませるしかございませぬ」


 きっぱりしている。


 めいは鏡の中の自分と目が合って、なんだか変な気分になった。


 見た目だけなら、もう最初のころほど浮いていない。

 でも、自分が何者なのかと問われたら、答えなんて全然持っていない。


――


 案内された廊は、いつも通る場所より静かだった。


 人の姿は少ない。

 なのに、見えないところに目だけがあるような気がする。


 紬は一定の歩幅で進んでいく。

 その背を追ううち、めいの心臓は嫌なくらい律儀に速くなっていった。


 やがて紬が足を止める。


「こちらにて、お待ちを」


「え、紬は?」


「ここまでにございます」


「うそでしょ」


「ほんとうにございます」


 めいは顔をしかめる。


「急に一人はずるくない?」


「ずるいかどうかは存じませぬ」


「冷たいなあ」


「めい様」


 紬が珍しく、少しだけやわらいだ声を出した。


「どうか、顔をお上げになって」


 めいは一瞬、言葉に詰まる。


 励ましというより、たぶん作法の話だ。

 でも、それだけでもなかった気がした。


「……がんばる」


「はい」


 紬は一礼して下がっていく。


 一人になると、廊の静けさが一気に重くなった。


(帰りたい)


 でも帰れない。

 帰ったらたぶんもっと面倒だ。


 やがて障子の向こうから、落ち着いた声がした。


「入りなさい」


 あの声だった。


 御広座敷の簾の向こうで聞いた声。


 めいは息をひとつ飲み、そっと中へ入る。


――


 部屋は広くはなかった。


 けれど、狭さより先に、張りつめた静けさがあった。


 正面に座す女は、派手な装いではない。

 だが、そこにいるだけで空気が整うような、そんな気配をまとっていた。


 年の頃は四十代後半ほどか。

 端正な顔立ちに、静かな目。

 静かであるのに、少しもやさしくは見えない。


 この人だ、とすぐに分かる。


 めいは深く頭を下げた。


「……春宮めいにございます」


「顔を上げなさい」


 言われて、おそるおそる顔を上げる。


 女はまっすぐにめいを見ていた。

 値踏みというより、もっと奥まで見ようとする目だった。


「そなたが、春宮めい」


「……はい」


「恐れておりますね」


 めいは一瞬だけ口をつぐむ。


 そういうこと、初手で言うんだ。


「そりゃ、まあ……はい」


 しまった、と思った。

 でももう遅い。


 女はほんのわずかに目を細めた。


「正直でよろしい」


 助かったのかどうか、よく分からない。


「わたくしは鷹司たかつかさ


 その名を聞いた瞬間、めいの背に冷たいものが走る。


 詳しくは知らない。

 でも、知らなくても分かる。

 軽々しくふるまっていい相手じゃない。


「御広座敷でのこと、見ておりました」


 めいの喉が詰まる。


「申し開きはあるか」と来るのかと思った。

 でも鷹司の声音は、責めるでも庇うでもなく、ただ静かだった。


「……怒られるとは思ってました」


 気づけばそんな言葉が出ていた。


 鷹司はわずかに眉を動かす。


「怒られるようなことをした覚えはあるのですね」


「あります」

「勝手だったのはそうです」


 そこは認める。

 認めるけど、全部引っ込めるのも違う気がした。


「でも、止まったらもっとまずい気がして」


「気がして」


「はい」


「助けたかったのですか」


 めいは少し迷う。


「……それもあります」


「“それも”」


 静かな復唱だった。


 めいは自分で言って、自分で引っかかった。


 それ“も”って何だ。

 じゃあ他は何なんだ。


「なんか」

 めいは眉を寄せる。


「そのままだと、ひとつ遅れるって分かったんです」


「何が」


「布と、器と、人の動きが」

「鈴が止まって、お雪さんに渡るのも遅れて、そこからたぶん全体が少しずつずれるって」


 話しながら、だんだん自分の声が遠くなる。


 なぜ分かった。

 見えたからだ。

 でも、どうして見えた。


 鷹司はじっとめいを見ている。


「乱れたあとではなく、乱れる前が見えていたようですね」


 その言葉に、めいの指先がぴくりと震えた。


 まるで、自分でもうまく触れられなかったところを、そのまま言い当てられたみたいだった。


「……そう、かもしれません」


「かもしれぬ」


「いや、だって」

「私も何で分かったのか分かんないので」


 少しだけ早口になる。

 取り繕いたいのに、うまくできない。


「説明できたらしてます」


 言ってから、ちょっと失礼だったかもと青くなる。


 けれど鷹司は怒らなかった。


「できぬのでしょうね」


 それだけだった。


 責めるでも、嘲るでもない。

 事実として置かれたその言葉のほうが、妙に胸に刺さる。


「そなた、ここへ来る前のことをどこまで覚えております」


 めいの息が止まる。


「……前のこと」


「そう」


 白い天井。


 規則正しく並ぶ、四角い光。


 つんと鼻に刺さる匂い。


 乾いた足音。


『――さん、意識が』


 頭の奥が、ちり、と痛んだ。


 めいは思わずこめかみを押さえる。


「……っ」


「どうしました」


「いや」

「なんか、今……」


 呼吸が浅くなる。

 目の前の部屋はちゃんと見えているのに、一瞬だけ別の場所が重なった気がした。


「白い、天井みたいなのが」


 自分で言いながら、意味が分からないと思う。


「あと、光と、匂いと……誰かの声」

「でも変なんです。ここじゃないし、夢みたいだし」

「ていうか、こういうの急に来るの普通にやなんですけど」


 最後のひと言は、半分くらい本音だった。


 鷹司は黙って聞いていた。


「夢、ではないかもしれませぬね」


 その言葉に、めいは顔を上げる。


「え」


「そう怯えなさるな」


「いや、怯えますよ」

「今の流れで怯えないほうが無理じゃないですか」


 また出た、と思った。

 やばい。

 絶対やばい。


 けれど鷹司は、ほんのわずかに口元をやわらげた。


「なるほど。御園が手を焼くはずです」


「……そんなにですか」


「そんなに、でございましょう」


 軽く言われたのに、逃げ道はない。


 鷹司はめいを見たまま、静かに続ける。


「そなたは、おかしな娘ですね」


 めいはちょっとだけむっとする。


「自分でもそう思いますけど、人に言われると微妙です」


 言ってから、ほんとに何を言ってるんだ自分は、となる。


 だが鷹司はそのまま話を進めた。


「礼はまだ浅い。作法も足りぬ。恐れも隠しきれぬ」

「それなのに、場の綻びには先んじて手を打つ」

「知らぬはずのものに、ふと足を取られる」


 めいは黙る。


 その並べ方をされると、ほんとうに自分が何かおかしなものみたいだった。


「欠けておるようでいて、混じっている」


 その言葉が、胸の奥にまっすぐ落ちる。


 欠けている。

 混じっている。


 責められているのか、見抜かれているのか、よく分からない。


「……私、自分のこと、よく分からないんです」


 今度は少しだけ素直に出た。


 鷹司はうなずきもしない。

 ただ静かに言う。


「でしょうね」


 あっさりしすぎていて、逆に少し力が抜けた。


「分からぬままでよろしい」


 めいは目を上げる。


「いいんですか」


「分からぬことを、分かったふうに申す者よりましです」


 その言い方は厳しいのに、妙に救われる。


 鷹司は少しだけ視線を細めた。


「しばらく、そなたを見ます」


 めいの背筋がまた伸びる。


「見ます、って」

「それ、いい意味ですか。悪い意味ですか」


「どちらにもなりえましょう」


「いちばん怖いやつだ……」


 ぽろっと漏れた。


 鷹司は咎めず、そのまま続ける。


「御園のもとで学びなさい。小萩の場でも怠らぬこと」

「勝手は慎むこと。ですが、己の見たものまで捨てるには及びませぬ」


 めいは息をのむ。


 勝手はするな。

 でも、自分の見たものは捨てるな。


 奇妙な命だった。


「……分かりました」


 さっきみたいに素直すぎる返事ではない。

 でも、軽くも返せなかった。


 鷹司はわずかにうなずく。


「下がってよろしい」


 それで終わりだった。


 怒鳴られもしない。

 褒められもしない。

 なのに、めいの胸はさっきよりずっと重い。


 深く頭を下げ、そっと部屋を辞す。


 障子の外へ出た瞬間、詰めていた息がようやくこぼれた。


「……無理」


 小さく漏れた声は、思ったより情けなかった。


 廊の先には紬が控えていた。

 めいの顔を見るなり、静かに一礼する。


「お戻りにございますね」


「戻ったよ……なんとか」


「ようございました」


「よくないよ。心臓が今すごい」


「それでも、お戻りになりました」


 紬らしい返しに、めいは半分笑いそうになって、半分げんなりする。


「紬」


「はい」


「私、自分のこと、ほんとにちゃんと覚えてないのかもしれない」


 紬はすぐには答えなかった。

 ただ静かに、めいの顔を見る。


「……左様にございますか」


「うん。変な光景が浮かんだ」

「白い場所。光。匂い。誰かの声」

「でも全然つながんないし、何それって感じ」


 紬の目がほんのわずかに細められる。

 だが、それ以上は問わなかった。


「今は、お休みになるのがよろしいかと」


「そうする」


 めいは歩き出しながら、小さく息を吐く。


 でも本当に休める気はしなかった。


 今日、確かになったことがある。


 自分はまだ、この場所に慣れていない。

 でも、ただ流されるだけの存在でもなくなりつつある。


 そしてもうひとつ。


 自分がここへ来た理由は、思っていたよりずっと単純じゃないのかもしれない。


 廊を戻りながら、めいはそっと自分の手を見る。


 あのとき勝手に動いた手。

 知らないはずの流れをなぞった手。

 そして、少しずつ色を失っていく指先。


 そのどれもが自分のもののはずなのに、まだ少しだけ遠い。


 遠いくせに、放っておいてはくれない。


(……ほんと何なの)


 答えは、まだどこにもなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ