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第11話 ギャル 余計なこと



「本日も、御広座敷にございます」


 朝。


 紬が、整えた衣の襟元をそっと直しながら告げる。


 めいは半分閉じた目のまま、深く息を吐いた。


「……またあそこ」


「はい」


「空気が重すぎるんだけど」


「そのような場にございます」


「朝から行きたくない」


「行かねばなりませぬ」


 ぴしゃりと返され、めいは口を尖らせる。


「今から熱とか出ないかな」


「出ませぬ」


「言い切るんだ」


「はい」


 あまりにも迷いがなくて、めいは逆に少し笑いそうになる。


 でも、笑っていられるのもここまでだった。


――


 御広座敷の前に立った瞬間、胸の奥が少しだけ詰まる。


 障子の向こうにあるのは、今日も変わらぬ静けさだ。


 私語はなく、布の擦れる音と、器の触れ合うかすかな音だけが漂っている。


(……やだなあ)


 心の中だけでつぶやく。


 そのとき。


「春宮めい様」


 低い声に、背筋がぴんとした。


 小萩だった。


「……はい」


 反射で返した声が、少しだけ固くなる。


 また何か言われるのかと思った。

 昨日、少しだけ認められたようなことを言われたところで、小萩が甘くなるはずもない。


 けれど今日の言葉は、予想と違った。


「本日は、三席分を見ていただきます」


 めいは目を瞬かせた。


「……三席分?」


「茶器、布、下げる順まで。一連の流れを」


「え、いや、なんで私」


「見えておるなら、動けるでしょう」


 淡々と落ちる声。


 その横で、紬がわずかに目を見開いたのが見えた。


 めいはそれを見て、逆に嫌な予感しかしなかった。


(え、なにその反応。怖いんだけど)


「まだ早いのでは」


 静かな声が入る。


 千代だった。


 視線は小萩に向けたままだが、言葉の先にあるものははっきりしている。


「作法も、すべて身についているとは」


「不足があれば見えるでしょう」


 小萩は千代の言葉を遮らなかった。

 ただ、短くそう返しただけだった。


「動きなさい」


「……はい」


 めいは素直に返しながらも、心の中では盛大にうんざりしていた。


(いや私もそう思うけど。まだ早くない?)


――


 三席分。


 言葉にすると、それだけのことだ。


 けれど実際には、気を配る場所が一気に増えた。


 どの器を先に出すか。

 布を替える間。

 人の前を横切らぬ角度。

 下げられたものをどこへ通すか。


 めいは心の中で何度も「多い」とつぶやきながら動く。


 それでも、昨日までの自分とは少し違っていた。


 目が、前より回る。


 何をどこに置くか。

 誰が次に動くか。

 どこで詰まりそうか。


 全部を分かっているわけじゃない。

 でも、流れの輪郭くらいは見えるようになっていた。


「そこは私が」


 横から、千代の声が入る。


 めいが手を伸ばしかけた布を、先に取られる。


「……どうぞ」


 言い返しかけてやめる。


 千代はちらりとも笑わない。


「その位置では、次の動きの妨げにございます」


「はいはい」


「返事は短く」


「……はい」


 小萩じゃなくても言うんだ、と思いながら、めいは少しだけ眉を寄せた。


(感じ悪)


 でもたぶん、仕事はちゃんとしている人なんだろう。

 だから余計にやりづらい。


 鈴は少し離れたところで盆を持っていた。

 まだ緊張が抜けないのか、指先が固い。


 お雪は相変わらず表情が薄い。

 黙って動いているけれど、昨日より少しだけ、周りを見ている感じがした。


 そのときだった。


 座敷の空気が、ほんのわずかに変わった。


 声はない。

 誰かが慌てたわけでもない。

 けれど流れだけが、ひとつ前へずれた。


 予定より早く、上座側に人が入る。


 そのせいで、次に出すはずの席順が一つ繰り上がった。


(あ)


 めいは目を上げる。


 布がまだ替わっていない。

 茶器の位置も一手遅い。

 千代は別の席へ回っている。

 鈴は、盆を持ったまま止まりかけていた。


 ほんの一拍。


 その一拍が、この場では重い。


「……っ」


 鈴の指先が揺れる。


 めいは考えるより先に動いていた。


「鈴、そっちじゃない。先こっち」


 小声で言って、盆の向きをさっと変える。


 空いた手で布を引き、ずれを直す。

 そのまま通り道をあけ、お雪の方へ器をひとつ回した。


「これ、先」


 お雪が目を上げる。


 言葉はない。

 でもすぐに受け取る。


 めいはさらに半歩ずれた。


 その順だけは、なぜか迷わなかった。


 知らないはずなのに。

 誰にも教わっていないのに。


 まるで、最初からそこにある形をなぞるみたいに、体が動いた。


(……なんで)


 一瞬だけ、胸の奥にひやりとしたものが走る。


 けれど考える暇はない。


 鈴が持ち直す。

 お雪が器を通す。

 遅れて戻ってきた千代が、布の位置と流れを見て、一瞬だけ目を見開いた。


 何も言わないまま、千代はその続きを継いだ。


 誰も大きく乱さずに済んだ。


 ほんのわずかな遅れも、結局、表には出なかった。


 だからこそ。


 収まったあとに、その場だけが妙に静かだった。


(……あ、これ怒られるやつ)


 めいは心の中でそっと天を仰いだ。


――


「春宮めい様」


 きた。


 めいは腹の底でそう思いながら、小萩の方へ向き直る。


「……はい」


「今の動き、誰の指図にございます」


「……誰のでもない、です」


 答えた瞬間、空気がひとつ張った。


 鈴が青ざめた顔になる。

 千代は口を結んだまま、黙っている。

 お雪だけが、静かにめいを見ていた。


 小萩の声は、相変わらず淡々としている。


「本来なら、差し出がましい振る舞いにございます」


「……はい」


 刺さる。


 正論すぎて、何も返せない。


「余計なことをいたしましたね」


「……はい」


 めいがうつむきかけた、そのとき。


「ですが」


 その一言に、めいは顔を上げた。


 小萩はまっすぐ前を見たまま、言う。


「遅れは出ませんでした」


 静かな声だった。


 褒める響きではない。

 許す響きでもない。


 ただ事実だけを置くような、冷たい声だ。


 けれどその事実ひとつで、めいの胸の奥に詰まっていたものが、少しだけほどけた。


「以後は、勝手に目立とうとなさらぬことです」


「……してないです」


「口答えをしてよいとは申しておりませぬ」


「はい」


 言い直すと、小萩はそれ以上は何も言わなかった。


 くるりと向きを変え、また別の場へ視線を向ける。


 めいはその背中を見ながら、ちいさく息を吐いた。


 横で、千代がわずかにめいを見る。


「……勝手なことは、困ります」


 声は固い。

 でも前より、棘が少なかった。


「いや、うん」


 めいも強くは返さない。


「でも、止まってたらもっと困ったでしょ」


 千代は一瞬だけ眉を寄せた。


 何か言い返しかけて、結局やめる。


 代わりに、鈴が小さな声で言った。


「……ありがとう、ございました」


 めいはそちらを見る。


「別に」


 そう言ったものの、鈴の顔が少しだけほどけたのを見て、なんとなく悪い気はしなかった。


 お雪は何も言わない。

 けれど器を持つ手を止めぬまま、ほんの一瞬だけ目を伏せた。


 その仕草の意味は分からなかった。


 ただ。


 その場の空気が、さっきまでとは少しだけ違っていた。


 そして、そのとき。


 少し離れた上座の奥、簾の向こうから、静かな声が落ちた。


「今の者は、誰です」


 その一言で、座敷の空気が変わる。


 誰も顔を上げない。

 けれど、張りつめ方が違った。


 めいは息を止める。


 誰の声かは分からない。

 ただ、それがここにいる誰よりも上の者の声なのだと、それだけは分かった。


 小萩が、わずかに膝を折る。


「春宮めいにございます」


 めいの喉が、ひどく乾いた。


 簾の向こうは静かだった。


 姿は見えない。

 気配だけがある。


 やがて、声はもう何も告げなかった。


 それでも、その沈黙のほうが、よほど重かった。


 めいはうつむいたまま、胸の奥がざわつくのを抑えられなかった。


(……なに今)


 答えなど、分かるはずもない。


 ただひとつだけ。


 今日が、昨日までと同じ日ではなかったことだけは、はっきりしていた。

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