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呪いのポストって知ってる?

作者: 冬至 柚
掲載日:2026/03/13

「呪いのポストって知ってる?」


 放課後の教室で、そう言い出したのは航太だった。

 十月の終わり、日が落ちるのがやけに早くなって、窓の外の校庭はもう薄い藍色に沈みかけていた。掃除のあとで机を戻す音も消え、教室には俺と航太、それからストーブの試運転みたいに唸る古いエアコンの音だけが残っていた。


「ポスト?」

「Xの投稿だよ。深夜二時ちょうどに流れてくるやつ」

「またそういうのかよ」


 俺が笑うと、航太は笑わなかった。

 机に頬杖をついたまま、スマホの画面を親指で軽く叩く。


「見たやつ、三日以内に“昔なくしたもの”が返ってくるんだって」

「なんだそれ。ちょっといい話っぽいじゃん」

「ただし、ひとつだけ余計なものも一緒に返ってくる」


 その言い方が妙に静かで、俺は少しだけ背筋を伸ばした。


 十七歳にもなって、そんな話を本気で信じるわけじゃない。けれど、夕方の教室というのは、それだけで昔から怪談の居場所にちょうどよかった。西日が消えたあとのガラス窓は鏡みたいで、こっちの顔をぼんやり映すくせに、向こう側に何か立っていても不思議じゃない気がする。


「お前、見たの?」

「……昨日」


 航太はそこで初めて、少しだけ困ったように笑った。


「で、何が返ってきたんだよ」

「小学校のころなくしたキーホルダー」

「マジで?」

「机の引き出しの奥に入ってた。絶対あそこにはなかったのに」


 見せられたのは、青いプラスチックのロボットのキーホルダーだった。塗装が剥げて、片腕が少し白くなっている。どこにでもありそうな景品なのに、古び方だけが妙に本物だった。


「余計なものは?」

「……まだ分かんない」


 チャイムが鳴って、遠くで運動部の掛け声がした。

 その瞬間、教室の空気がほどけた気がして、俺は鞄をつかんだ。


「気にしすぎだって。誰かの悪ふざけだろ」

「そうだといいけどな」


 航太はそう言ったが、スマホの画面を伏せる指先は、少し震えていた。


   *


 その夜、風呂上がりに俺は自室のベッドへ寝転がって、何となくXを開いた。

 昔はもっと、インターネットって広かった気がする。無駄に派手な個人サイトとか、意味のないカウンターとか、夜中にしか更新されない日記とか。いまは全部きれいに整って、スクロールすれば似たような話題が終わりなく流れていく。その中で怪談だけは、昔と同じ顔をして紛れ込んでくる。


 深夜一時五十七分。


 寝るつもりだったのに、航太の話が頭に残っていて、俺は画面を閉じられなかった。


 母親が廊下を歩く音。

 洗面所の戸が閉まる音。

 居間のテレビが消える音。


 二時ちょうどになった瞬間、タイムラインが一度だけ、妙に引っかかった。

 回線が遅いときみたいに、画面がすっと止まって、それから一件の投稿がいちばん上に現れた。


 投稿者名は空白。

 アイコンは灰色のまま。

 文章はたった一行だった。


『なくしたものを返してあげる』


 その下に、小さく続いている。


『だから、開けて』


 画像も動画もない。

 なのに、そこに“何か”がある気がした。見えない封筒が、画面の向こうに貼りついているみたいな感じだった。


 気づけば、指が投稿を開いていた。


 本文は変わらない。

 リプライも、引用も、いいねもゼロ。

 なのに閲覧数だけが、意味の分からない速さで増えていく。千、三千、一万。数字が跳ねるたび、胸の奥がざらついた。


 閉じようとした、そのときだった。


 画面が暗転して、自分の顔が映った。

 その後ろに、部屋のドアが見えた。


 ドアの向こう、廊下の暗がりに、誰か立っていた。


 俺は反射的に振り返った。

 もちろん誰もいない。廊下は静かで、階段の小窓から街灯の薄い光が差しているだけだった。


 なのに、スマホの画面へ視線を戻すと、そこにはまだいた。

 白っぽい輪郭だけの、背の低い誰か。

 顔は見えない。けれど、こっちを見ているのだけは分かった。


 思わず電源ボタンを連打して画面を落とし、そのまま布団を頭までかぶった。

 心臓の音がうるさかった。


 ばかばかしい。

 見間違いだ。疲れてるだけだ。

 そう言い聞かせながら、俺はいつの間にか眠っていた。


   *


 翌朝、机の引き出しを開けたとき、喉の奥が冷たくなった。


 中に、古いミニカーが入っていた。


 銀色の、手のひらサイズの消防車。

 タイヤの片方が少し歪んでいて、屋根のはしごが取れている。


 小学生のころ、近所の用水路に落としてなくしたやつだ。


「……なんで」


 口に出すと、本当にそこにあることが確定してしまう気がして、声がやけに小さくなった。

 何度見ても、それは俺の消防車だった。

 夏休みの夕方、祖父の家の帰り道、泣きそうになりながら用水路を覗き込んだ記憶まで、一緒に戻ってきた。


 昔なくしたものが返ってくる。


 航太の言葉がよみがえった。

 それから、もうひとつ。


 余計なものも一緒に返ってくる。


 学校へ行く道すがら、俺は何度も後ろを振り返った。

 朝の住宅街は静かで、金木犀の匂いが少し残っていた。小さいころ、この季節になると、友達と公園の裏で秘密基地を作っていたのを思い出す。あのころの夕方はもっと長くて、家に帰るチャイムはもっと遠かった気がする。


 教室に着くと、航太はもう来ていた。

 俺の顔を見るなり、すぐに分かったみたいに眉をひそめる。


「返ってきた?」

「消防車」

「やっぱりか」


 俺は昨日見た投稿のことを話した。

 航太は黙って聞いていたが、最後にひとつだけ言った。


「最近、お前、夢見てない?」

「夢?」

「昔の夢。小学校とか、中学のころの」


 言われてみると、見ていた。

 ここ数日、妙に昔の夢ばかりだった。校舎裏の飼育小屋。夕焼けのプール。夏祭りの帰り道。もう顔も思い出せないはずの同級生が、はっきりした声で名前を呼ぶ。


「それ、俺もなんだよ」

 航太は机に視線を落とした。

「返ってきたものって、“物”だけじゃないのかもしれない」


 その日の帰り、俺たちは一緒に下校した。

 川沿いの道は風が冷たくて、ススキが白く揺れていた。制服のポケットに手を突っ込みながら、航太がぽつりと話した。


「最初に見たのは、兄貴のアカウントだったんだ」

「お兄さん?」

「三年前に家出した」


 俺は足を止めかけた。

 航太の兄がいなくなったことは、クラスでも何となく知られていた。詳しく聞ける空気じゃなくて、みんなその話題を避けていたけど。


「昨日の夜、その兄貴からDMが来た」

「え」

「“見つけて”ってだけ」


 川面が夕焼けを映して、鈍いオレンジ色になっていた。

 自転車で通り過ぎる小学生たちの笑い声が、妙に遠く聞こえた。


「場所は?」

「貼られてなかった。でも、アイコンが昔のままだった」

「それ本人なのか?」

「分かんない。でも、兄貴のアカウント、もうとっくに消えてたはずなんだ」


 それから航太は言いにくそうに続けた。


「あと……兄貴がいなくなった日から、俺んちのポスト、たまに変な音するんだよ」


「ポスト?」


「郵便受けのほうのポスト」


 ぞくりとした。

 言葉遊びみたいで笑えるはずなのに、全然笑えなかった。Xのポストと、家のポスト。投函するものと、流れてくるもの。どっちも“届く”ための箱だと思った瞬間、何かが急につながってしまった気がした。


   *


 その夜、俺は航太の家にいた。


 古い団地の四階。

 階段の踊り場には昔ながらの曇った窓があって、外の街灯が黄色く滲んで見えた。航太の家は静かで、母親は夜勤だという。居間には古いカレンダーと、少しへこんだソファ、それから小学生のころの賞状がそのまま額に入って飾ってあった。


 兄の部屋は、時間だけが抜け落ちたみたいに残っていた。

 机の上にはゲーム機の空箱、棚には焼けた漫画、壁には剥がれかけた映画のポスター。ほんの少し埃っぽい匂いがして、懐かしいというより、記憶の裏側に入り込んだみたいな気分になる。


「二時になったら、また来ると思う」

 航太が言った。


 俺たちは机の前に並んで座り、スマホの画面を見つめた。

 外では風が鳴っていた。団地のどこかで風呂の栓を抜く音がして、水が長く流れていく。


 一時五十九分。

 秒だけがやけに大きく感じる。


 二時ちょうど。


 通知音は鳴らなかった。

 けれど、画面がひとりでに明るくなり、あのアカウントが表示された。


『もう返したよ』


 新しい投稿。

 それだけ。


 次の瞬間、玄関のほうで、こん、と音がした。


 郵便受けだ。


 俺たちは顔を見合わせ、無言で立ち上がった。

 廊下は暗い。足音を忍ばせるたび、床が小さく軋む。


 玄関のドアには、古い金属の郵便受けがついていた。

 内側の受け口が、わずかに揺れている。

 こん、こん。

 誰かが外から指先で叩いているみたいに、規則正しい音が続く。


 航太が息を呑んだのが分かった。

 俺は喉を湿らせるために唾を飲み込んだが、全然足りなかった。


 やがて、郵便受けの口が、ゆっくりと内側へ開いた。


 そこから白い紙が一枚、するりと落ちた。


 風もないのに、紙は玄関のたたきに滑るように広がる。


 俺が拾い上げると、それは写真だった。


 画質の粗い、古いスマホで撮ったみたいな写真。

 夕方の公園が写っている。ブランコと、錆びたジャングルジム。

 そして画面の端に、二人の男子中学生がいた。


 俺と、航太だった。


「これ……」

「中二のときの……」


 写真の裏には、ボールペンで住所が書かれていた。

 見覚えのある町名。今はもう使われていない、小学校裏の集会所の住所だった。


 そのとき、スマホが震えた。

 航太の端末にDMが届いている。


『あのとき、置いていかないで』


 送り主は、消えたはずの兄のアカウントだった。


   *


 集会所は、もう何年も使われていなかった。

 小学校の裏手、雑木林のそばにある古い木造の建物で、俺たちが小さいころは夏祭りの準備や町内会で使われていた。いまは窓ガラスの何枚かが曇って、掲示板の紙も茶色く丸まっている。


 そこへ向かう道が、ひどく懐かしかった。

 小学生のころ、日が暮れるまで走った坂道。途中にある自販機。潰れた駄菓子屋。

 思い出はどれもやわらかい色をしているのに、夜の中で見ると全部が違うものに見えた。


「……俺たち、ここで何かあったっけ」

 俺が訊くと、航太は答えなかった。


 代わりに、集会所の前で立ち止まる。


 玄関は半開きだった。

 中は真っ暗で、湿った木の匂いがした。


 スマホのライトをつけて中へ入ると、板張りの床に足跡みたいな汚れが続いていた。奥の和室まで、細く、黒く。


 そこで俺は思い出した。


 中学二年の夏。

 俺と航太と、航太の兄の智樹さん。

 三人で肝試しみたいなことをして、この集会所に入ったのだ。


 そして、途中で俺たちは逃げた。


 何を怖がったのかまでは思い出せない。

 ただ、暗い和室の前で、何かがいて、俺と航太だけ先に飛び出した。

 後ろから智樹さんが何か叫んでいた気がするのに、俺たちは振り返らなかった。


「俺……思い出した」

 俺が言うと、航太は小さくうなずいた。

「兄貴、あのとき転んだんだ。俺たち、笑って先に行った」


 和室の襖は半分開いていた。

 その隙間から、冷たい空気が漏れている。


 航太が震える声で呼んだ。


「兄貴?」


 返事はなかった。

 けれど襖の向こうで、スマホの通知音が鳴った。


 短く、乾いた音。


 そっと襖を開ける。


 誰もいない。

 畳は古びて波打ち、隅に壊れた座布団が積まれているだけだった。


 その中央に、一台のスマホが置いてあった。


 ひび割れた画面。

 古い機種。

 航太が膝をついて拾い上げた瞬間、ロック画面が点いた。


 そこには、あのアカウントの投稿画面が開かれていた。


『返してほしかったのは、ものじゃない』


 送信時刻は、たった今。


 そして、画面がふっと暗くなり、かわりにインカメラが起動した。

 そこに映ったのは、俺たち二人と、その後ろに立つ、もう一人の影だった。


 制服ではない。

 少し大きいTシャツに、細い腕。

 濡れたみたいに黒い前髪が顔に貼りついて、表情は見えない。

 それでも、航太が息を詰めたことで分かった。


 兄だ。


「……ごめん」


 航太が、泣きそうな声で言った。


 その影は、怒っているようには見えなかった。

 ただ、ひどく寂しそうだった。

 置き去りにされた夜が、そのままずっとそこに立っていたみたいに。


 次の瞬間、スマホの画面いっぱいに文字が流れた。


『見つけてくれてありがとう』


 風が吹いた。

 閉まっていたはずの窓が一斉に鳴って、和室の埃が舞い上がる。俺は思わず目を閉じた。


 それが収まったとき、後ろの影は消えていた。


 残っていたのは、航太のすすり泣きと、畳の上に落ちた一枚の紙だけだった。


 拾ってみると、古い新聞の切り抜きだった。

 三年前、この集会所の裏手で行方不明者が保護されたという短い記事。衰弱していたが命に別状はなく、その後施設に保護、とだけ書かれている。名前は出ていない。


「……生きてる」

 航太が呟いた。

「兄貴、生きてる」


 記事の日付は、失踪した翌週だった。


 たぶん智樹さんは、生きて帰っていたのだ。

 けれど家には戻らなかった。

 戻れなかったのかもしれない。

 あの夜、置いていかれた記憶だけを抱えたまま、どこか別の場所で時間を止めてしまったのかもしれない。


   *


 それから数日後、あのアカウントは消えた。

 検索しても出てこない。投稿の履歴も残っていない。まるで最初から存在しなかったみたいに。


 でも、返ってきた消防車はまだ机の引き出しにある。

 航太のロボットのキーホルダーも、本物のままだ。


 航太は家族と一緒に、新聞記事の手がかりを追っているらしい。

 まだ会えたわけじゃない。でも、前よりずっとましな顔で学校に来るようになった。


 俺はといえば、たまに夜中にXを開くたび、少しだけ指が止まる。

 二時ちょうど。

 タイムラインの隅に、見覚えのない投稿が紛れ込んでいないか、つい探してしまう。


 昔なくしたものが返ってくるなら、いいことのように思える。

 でも本当は、なくしたものって、なくしたままのほうが優しいこともある。

 放課後の匂いとか、夕焼けの色とか、もう会わなくなった友達の声とか。そういうものは、手元に戻った瞬間に、二度とあのころには戻れないってことまで一緒に突きつけてくるから。


 昨夜、机を片づけていたら、古いクラス写真が出てきた。

 みんな笑っていて、俺も航太も、今よりずっと子どもの顔をしていた。


 写真を引き出しにしまおうとして、手が止まった。


 いちばん端。

 教室の後ろの窓に、知らない顔が映っていたからだ。


 黒い前髪の隙間から、じっとこちらを見ている。

 中学の制服を着た、見覚えのない男子生徒。


 裏返すと、写真の裏には俺の字で、こう書いてあった。


『転校してきた初日の記念』


 なのに、俺はそいつの名前を思い出せない。


 その夜の二時ちょうど。

 スマホが一度だけ震えた。


 通知欄には、送信者のない一文だけが浮かんでいた。


『まだ、ひとつ返し忘れてる』


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