大正恋慕
大正浪漫の息吹が色濃く残る帝都の片隅、銀座の裏通り。
古き良き趣を残す小道にひっそりと佇む喫茶店「白百合」は、通りを行き交う人々の喧騒を忘れさせる、白亜の静寂に包まれていた。磨き上げられた硝子窓からは、やわらかな午後の陽光が差し込み、磨かれた真鍮の調度品をきらきらと輝かせている。
珈琲の香りが満ち、クラシック音楽が静かに流れるこの場所で、まだ言葉にならぬ恋心が、硝子越しにそっと育まれていた。
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「白百合」の女給を務める十八歳の女性は、今日も白いエプロンをきりりと締め、忙しなく店内を巡っていた。
彼女の働く店には、決まった時間に窓際の席に座る青年がいた。
二十歳ほどの書生だろうか。
彼はいつも分厚い専門書を傍らに置き、端正な顔を俯かせて、熱心にペンを走らせるか、静かに書物を紐解いている。理知的ながらもどこか憂いを帯びた表情は、彫りの深い顔立ちによく似合う。薄い銀縁の眼鏡の奥には、吸い込まれるような深い漆黒の瞳が宿り、その知的な輝きは、彼の聡明さを物語っていた。すらりと伸びた長身は、仕立ての良い洋装を一層際立たせ、彼が窓際の席に座る姿は、まるで一枚の絵画のようだった。節のある長い指は、ペンを握る姿も、本のページをめくる姿も、どこか優雅さを感じさせる。
女給は彼の注文を取りに行くたび、彼の指先が紡ぐ文字の美しさ、そして整った横顔に、胸が静かに波立っていた。
薄い眼鏡の奥に宿る知的な光と、時折見せる物憂げな表情が、女給の心に深く刻まれるのだ。
彼もまた、女給の存在を意識せずにはいられなかった。
白いエプロンをきりりと締め、ピンと伸びた背筋で立ち働く彼女の姿は、まるで一輪の白百合のようだった。彼女の透き通るような白い肌は、店内の柔らかな照明を受けてほんのりと輝き、丁寧に結い上げられた黒髪は、彼女の控えめな美しさを際立たせている。客に珈琲を運ぶ際の、しなやかな指の動きや、はにかむように微笑む表情が、書斎にこもりがちな彼の日常に、静かで美しい彩りを与えていた。
気づいたら彼は、彼女の働く姿を、まるで一枚の絵画を鑑賞するかのように、そっと見つめることが増えていた。
ある日のこと。女給が珈琲を彼のテーブルに運びに来た際、彼はいつものように女給に会釈をしたが、誤って手にしていた万年筆を取り落としてしまった。
カチャリと、万年筆は床に当たると、コロコロと女給の足元まで転がる。
「あっ」
書生が声を上げて、慌てて拾おうと身をかがめた。
女給もまた、反射的に手を伸ばし、彼の万年筆に触れようとする。
その刹那、二人の指先が、床に落ちた万年筆の上で微かに触れ合った。ひんやりとした金属の感触と、温かい肌の触れ合いが、ほんの一瞬、二人を包む。
互いに顔を上げると、彼の眼鏡の奥の深い漆黒の瞳と、女給の切れ長の瞳が、至近距離で絡み合った。彼は少し慌てたように万年筆を拾い上げ、
「すみません、不注意でした」
と、耳を赤くして呟く。女給も頬を少し染め、
「いえ、こちらこそ……」
とだけ返し、すぐに視線を逸らした。
熱のこもった指先を、書生は忘れようと珈琲を口に流し込み、女給は大事にもう片方の手で包んだ。
窓から差し込む午後の光が、彼らの淡い赤色の頬をそっと照らしていた。
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それからというもの、二人の間に、目に見えない糸が紡がれていくのを感じるようになった。
彼は女給が水差しや、カップを運ぶ音に、以前よりも注意を払うようになった。彼女が店の奥に消えると、無意識にそのすらりとした背中を追ってしまう。
女給もまた、彼が店に来るたびに、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。彼が注文する珈琲の香り、本のページをめくる音、そして時折、ペンを走らせる微かな音さえもが、女給の胸を高鳴らせる。
ある午後のこと。
彼が読んでいたのは、女給も最近読了したばかりの詩集だった。女給が珈琲を置いた際、彼は顔を上げて、いつも通り会釈を送る。
その時、女給は少しだけ勇気を出して、透き通るような声で小さく話しかけた。
「詩、好きなんですか?
私も最近、それを読みました。詩がとても、好きなんです。私」
書生は一瞬驚いたように瞳をわずかに見開いたが、すぐに微笑み、静かに頷いた。
「私も、好きです」
たったそれだけの会話だったが、二人の胸は、ドクドクと激しく高鳴っていた。
それ以来、彼が文芸雑誌を手にしている時、二人はほんの少しの雑談を交わすようになった。
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季節は巡り、秋の気配が濃くなってきた頃。彼は、いつものように「白百合」で読書に耽ていた。
彼が手にしていたのは、ある小説。女給は彼が注文した珈琲を運びながら、その小説の表紙に描かれた挿絵に目を留めた。それは以前、彼女が心を奪われた挿絵だったのだ。
「その小説の挿絵、とても素敵ですよね」
女給は、少しだけ声を弾ませて言った。彼女の切れ長の瞳が、喜びで微かに輝く。
「私、あまりにも好きで、切り取って手帳に挟んでいるんです」
彼の瞳が、一瞬大きく見開かれた。彼は早鐘を打つ鼓動を隠そうと、必死に微笑みを作る。
「そうなんですね。僕も、夢内雅俊の挿絵は好きですよ」
その後、また一言二言だけ交わし、二人は会話を終わらせた。
翌週、彼は「白百合」に訪れた時、女給に1冊の本を持参してきた。
それは先週、女給が「好きだ」と言った、夢内雅俊の画集だった。彼は女給が淹れた珈琲を一口飲むと、少し躊躇いながらも、画集を指し示す。
「その……もしよろしければ、これを」
彼は眼鏡を少しずらし、女給の目を見つめた。女給は突然の事で目を見開き、固まってしまう。
「書店にいた時に、貴女が好きだと言っていたのを思い出しまして…。
その、もちろん。嫌でしたら受け取らなくて、構いませんから。」
書生のその言葉に、女給の心は甘く震えた。自分の些細な言葉を覚えていてくれたこと、そして、そのためにわざわざ探してくれた彼の優しさに、胸がいっぱいになったのです。
「嫌だなんてそんな……。
ありがとうございます…大切にしますね」
女給は震える声で礼を言うと、画集をそっと胸に抱いた。
その日以来、二人の間には、より一層温かく、もどかしい空気が漂うように。
彼は女給が画集を大切にしているのを聞く度に、満たされた気持ちになった。
女給もまた、画集をめくるたびに、彼の優しさを思い出して、彼がいつしか自分にとってかけがえのないものになっていることを感じていた。
日を追うごとに、二人の心は、まるで互いに磁石のように強く引き寄せられていった。
彼が店に現れるたび、女給は彼の僅かな表情の変化を見逃さないようにしていた。彼が珈琲を飲む仕草、本のページをめくる音、全てが愛おしく感じられました。
彼もまた、彼女の優しい声を聞くと、日中の勉学の疲れが癒されるようだった。
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ある日の閉店間際。
磨き上げられた床には、午後の最後の陽光が細く伸び、店内は静寂に包まれていた。店内に残る客は彼一人だけだ。
女給がカウンターの拭き掃除をしていると、彼が会計のためにゆっくりと歩み寄ってきました。彼の背筋はいつも以上に伸び、その白い手が僅かに震えているのが見て取れた。
彼はいつものように珈琲の代金を支払いながら、少しだけ躊躇う様子を見せる。女給が代金を受け取ろうと手を差し出すと、彼の節のある長い指がほんのわずかに触れた。
会計を終わらせた彼は、眼鏡の奥の深い漆黒の瞳で女給の顔をじっと見つめた。その視線は、これまでになく真剣で、女給の心臓も激しく音を立て出す。
彼の彫りの深い頬は、うっすらと赤く染まっているように見えた。
「あの……」
彼は、絞り出すような声でそう切り出す。その声は、普段の落ち着いた声とは異なり、微かに震えていた。女給は固唾を飲んで、彼の次の言葉を待つ。
店の時計の針が、ゆっくりと時を刻む音が聞こえる。だが二人の耳には、自分の心臓の鼓動だけが、やけに大きく響いていた。
「隣町に、新しく開館した美術館があるのですが……」
彼の言葉は、まるで固い石が喉に詰まったかのように、途切れ途切れだった。一つ一つの言葉に、途方もない勇気が込められているのが伝わってくる。
彼の指先は、カウンターの縁をぎゅっと握りしめていた。力を入れすぎているのか。その指の付け根は白くなっている。
「もし、よろしければ…その…一緒に、いかがでしょうか」
そう言い切ると、彼の顔はさらに赤く染まり、瞳は不安げに、しかし必死に女給の返事を待っている。普段の冷静な彼からは想像できないほど、動揺しているのが見て取れた。彼の精一杯の勇気を前に、女給の心臓は更に激しく音を立てる。
この瞬間が、ずっと前から、心のどこかで求めていたものだと、女給ははっきりと理解していた。
女給は、ゆっくりと顔を上げる。彼の眼鏡の奥の瞳が、彼の頬はまだ赤いままだった。女給もまた、自分の頬が熱くなっているのを感じた。
言葉が喉の奥で引っかかって、なかなか出て来ない。しかし、その答えは女給の心の中で既に決まっている。
「はい……」
女給は、蚊の鳴くような、しかし喜びを帯びた声で答えた。彼の表情が、はっと明るくなる。
その輝きは、女給が今まで見たことのないほどに、純粋で、美しいものだった。
「……ぜひ、ご一緒させてください」
女給は、今度ははっきりと、そう答えた。彼女の切れ長の瞳が、かすかに潤んでいるように見える。安堵と、新たな始まりへの期待が、女給の胸を満たしていったのだ。
彼は、心底安心したように、ふっと息を吐くと、そっと笑みを浮かべた。眼鏡の奥の瞳が、歓びで細められる。
それは、お互いにまだ名前も知らぬ二人の、新しい何かを予感させる、奥ゆかしくも甘い微笑みだった。
初投稿です。緊張しますね。
今回は名前も知らぬ男女の恋の始まりを描いて見ました。まるで白百合のような純然な恋。
「純愛」って名付けたくなるような作品でした。
短編なので続きを書く予定は無いのですが、きっと、このふたりは上手く行く気がします。きっとね。




