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本編(登場人物一覧含む)

【登場人物読み仮名集】


赤中あかなか 敬司けいじ

赤中あかなか 紀華のりか

永沢ながさわ 雅樹まさき

永沢ながさわ 彩美あやみ

赤中あかなか 千尋ちひろ

赤中あかなか 愛斗まなと




【本編】

敬司は、妻から言われた言葉が何度も頭の中で反響していた。


「ねぇ、私、妊娠した」


 反響を聞きながら、敬司は返答をした。


「そうか!俺も親になるんだな!」


 その敬司の返答に、妻の紀華は、多少の緊張感を伴った微笑みを返してくれた。テーブルの上に積まれた病院などからの書類が敬司の目に映った。エコー写真に目を細めていたが、とある文字列に一瞬眉をひそめた。しかし、夕飯の支度を始めなければならない時間だと気づき、夫婦で台所に向かった。


「紀華、無理するなよ?」

「ありがとう」


 赤中家の台所にて、夫婦2人の手で自ら達の夕飯が作り上げられている光景を敬司は見ていたが、心の中の声が止まらなかった。「何で、あの書類の日付、先々週の物だったんだ?」と。しかし、疑問を振り切り、敬司は再び口を開いた。


「将来、3人で夕飯作りも出来るかもな?」

「そうだね!」


 心なしか紀華の声が震える。敬司は言った。


「具合、悪いのか?それとも疲れたのか?」

「え?な、何でもないよ?大丈夫!」

「そうか」


 その後、敬司と紀華は夕飯を摂り始めた。


 紀華は、食事を進めながら思った。あの言葉を言うのは、2回目だと。1回目に言った時の記憶が頭の中で流れ始めた。


「ねぇ、私、妊娠した」


 その時、喫茶店にいた紀華は、その言葉を永沢雅樹に言っていた。雅樹はテーブル越しに見えない紀華のお腹を凝視した。


「も、もしかしたら、ううん、絶対にこの子、雅樹の赤ちゃん。生理止まった時に、旦那と一応したけど、絶対、『あの時』の子だよ。どうしよう?内緒で堕ろす?」

「いや、産んでよ。知ってるだろう?僕の嫁さん、彩美さ、不妊だって。僕、子供が欲しい。そっちの家の子供でもいい。僕の子供がこの世にいるってだけで生きていけそうだからさ」

「そう」

「ああ、妊娠してくれてありがとう。紀華!」

「じゃあ、なんとか誤魔化して産むね?」


 その後、紀華は雅樹と熱い口づけをして別れた。


 紀華の思考は、現実に戻る。


「やっぱり、紀華、具合悪いだろう?ぼーっとして。食べたら先に寝ろよ」


 そんな言葉が、敬司からかけられた。紀華は、泳ぐ目をこらえ、こう返答する。


「そうするよ。ありがとう、敬司」


 食事が終わると紀華は、そそくさとベッドに行き、横になった。


「こんなんじゃ、ばれちゃう。明日はしっかりしなきゃ」


 翌朝から紀華は、「いつも通りの自分」を取り戻していた。


「いってらっしゃい!敬司!!」

「いってくる」


 敬司は、元気になった妻に安心し、職場へと向かった。いつものように社屋へと入ると、後ろから朝の挨拶をされた。


「おはよう、赤中」

「ああ、おはよう、永沢」


 同僚の雅樹に挨拶を返すと、敬司の心に自慢したい心がわずかに沸いた。


「ああ、そうだ。俺、父親になるんだ」

「へっ!へー!よかったなぁ!!」


 雅樹の上ずった祝福の声が敬司に届いた。雅樹は、多少きょろきょろした後、こう言って立ち去った。


「あ、そうだ。午後の打合せの資料、昨日チェック終わらなかったんだよなぁ」


 見送った敬司も自らのデスクへと向かった。


 一方、雅樹も自らのデスクに着いた。作業に入る前に小声で呟いた。


「紀華、遂に言ったのかぁ。しかも、ばれてない。よしよし、早く産まれないかな?僕の子」


 雅樹は薄ら笑いをした後、この日の業務を始めた。勿論、昨日の残りの仕事ではなかった。


 それから、敬司は紀華を気遣いながらも、仕事に邁進していた。そんなある日、紀華のスマホが自宅にて鳴る。紀華は、スマホから離れて家事をしていたが、そのスマホの近くに敬司がいた。


「紀華?電話」


 そう言いながら、ディスプレイを見ると。「まぁくん」と表示されていた。その下に表示されていた番号は、見覚えがあった。考え込んでいると、スマホは鳴り止んでしまった。


「まぁ、戻ってから言えばいいよな」


 すると、スマホに通知が来る。今度は、チャットの通知であった。相手は再び「まぁくん」。そのまぁくんは、「のりのり、電話ちょ」というメッセージを寄越したようだ。


「のりのり?まぁくん?なんだこれ?」


 そう敬司が呟くと、スマホの画面は真っ暗になった。そのスマホを敬司は持ち、紀華の元へと行った。


「紀華?電話鳴ってたぞ。折り返した方がいいんじゃないか?なんかメッセージも来てたみたいだし、急ぎかもな」

「ありがとう」


 紀華は、着信履歴を確認しようと、スマホの画面をオンにする。その瞬間、紀華の目がこぼれそうなくらい見開かれた。


「どうした?」

「あ、あの、チャットで大丈夫」

「そうか」


 敬司は、紀華の元から離れ、自らのスマホを握る。


「あの番号、俺の連絡先にあったような?」


 連絡先をスクロールしながら1個1個確認していくと、「その番号」に辿り着いた。


「永沢?確か、名前は雅樹。『まぁくん』と呼ばれても、違和感はない。もしや?」


 急速に心を支配し始める疑念は、もはや振りきれなかった。


「そんな、馬鹿な」


 その日の夕飯時。膨らみ始めた紀華のお腹を見た敬司は、吐き気を覚えた。


「悪い、食欲ない」

「え?大丈夫?」


 紀華は、立ち上がり敬司を労ろうとするが、敬司は、逃げるように立ち上がり、部屋へと行った。


「敬司?」


 取り残された紀華は、そう呟き、1人で夕飯を摂った。一方、敬司はベッドに潜り込み、まるで念仏のように同じ言葉を繰り返した。


「そんなわけがない。そんなわけがない。産まれてみなきゃわからないが、あの子は俺の子。あの子は俺の子だ」


 それが効いたのか、翌日には紀華のお腹を見ても異変は起こらなかった。


「いってくる」


 敬司は、仕事をし始めたが、仕事場では、雅樹の姿を否が応でも見てしまう。その度に、どす黒い疑念が心を染めた。


「駄目だ。こんな事を仕事中考えたら、駄目だ」


 しかし、敬司は昼休みに疑念に負ける。スマホでとある調べ物をし始めた。


「念の為だ。あの子が産まれたらDNA検査をしよう。それまで、この事は忘れよう」


 それから何ヶ月も経ったある日。紀華に陣痛が訪れる。そして、難産ではあったが、元気な女児が産まれた。紀華は涙を流しこう言った。


「赤ちゃん、やっと会えた」


 敬司は、一抹の不安を抱えながら新たな命を精一杯の笑顔で迎えた。


 翌日、敬司は出勤。そして、所属部署や関連部署の関係者に妻の出産の事を伝えた。すると、雅樹が寄ってきた。


「おめでとう。男の子?女の子?」


 敬司は、千尋の事を「とある可能性」の張本人には伝えたくなかった。しかし、あまりに不自然とこう答えた。


「女の子」

「本当?やった」

「『やった』?」

「あ、いや、やったな!赤中!!」

「ありがとう、永沢」


 約1週間後、千尋と名付けられた女児は、紀華と共に退院。赤中家の玄関を初めてくぐった。


 それからというものの、敬司と紀華は千尋の子育てに奔走した。そんなある日、敬司は仕事中、後輩の女性社員に声をかけられた。


「赤中さん、荷物、届いてました」

「ありがとう」


 その荷物は、私用で使う物ではあったが、自宅には届けたくない物であった。


 やがて夜になる。敬司は退勤した。そして、帰宅するなり紀華にこう言った。


「な、なぁ、千尋の子守、大変だろう?今夜は俺だけで面倒見るから、先に休んでろよ」

「ありがとう」


 少し疲労感が感じられる声で紀華はそう返答し、早めに眠りに就いた。


 夜中、千尋のミルクの時間が来た。敬司は、ミルクを準備しつつ、昼間会社で受け取った荷物を開封する。そこから綿棒を取り出し、ミルクを与える前に千尋の口内に差し込んだ。千尋は違和感に表情が歪むが、すかさずミルクを飲ませると、それは穏やかになった。


「いい子だ、千尋。どうか、俺の子って言ってくれ」


 ミルクの時間が終わり、千尋を再び寝かしつけると、敬司は、もう1本の綿棒を荷物から取り出す。それを敬司自身の口内に差し込み、適切な処置を施した。そして、再び荷物は仕事場に持っていくバッグの中にしまい込んだ。


「失敗してないよな?こんな事2回も3回も出来ないからな」


 翌日、寝不足ではあったが、敬司は出勤。仕事で発送する郵便物に2本の綿棒を入れた荷物を紛れ込ませ、検査機関に送った。


「3万は痛い出費だが、安心を買いたい」


 敬司は、呟いた。


 数日後。敬司は再び後輩の女性社員から郵便物を受け取る。敬司は息を呑んだ。


 その日の仕事が終わり、会社から一歩出た敬司は、近くの公園に走り、急いで昼間受け取った郵便物を開封した。


「千尋、俺が父親だよな?」


 無情な事に、開いた紙には、「父子否定率99.999%」と書いてあった。


「嘘だ、嘘だ、嘘だ!嘘だ!嘘だ!!嘘だ!!」


 誰もいない公園に延々とそんな敬司の叫びが響いた。


 それから、敬司は検査結果と共に帰宅する。千尋を抱っこした紀華が迎えてくれた。


「おかえり」

「ただいま」


 いつもの挨拶。しかし、敬司の目には、妻、紀華ではなく、紀華の形をした肉の塊が映っていた。その後、空虚な気持ちの中、「家族」で夕飯を摂った敬司。やがて就寝の時間になり、ベッドに入るが、何と名付けていいかわからない気持ちで敬司は寝付く事が出来なかった。


「もう、紀華を抱けない」


 静かに寝息を立てる紀華を隣に、敬司は呟いた。


 その日から、敬司はこれからの事を考えた。考え続けた。


 妊娠を告げられた時、病院の資料の日付が先々週の物だったのは、紀華が千尋の本当の父親に、妊娠した事を相談していたのだろう。その時間が、2週間程度かかったのだろう。あの時、疑問を口にしておけば、こんな気持ちにならなくて済んだのだろうかと、自問自答した。


 検査結果を叩きつけ、離婚する手もあるが、離婚した後、自分に何が残るのだろうか?全ての女性が紀華のような女ではないのであろうが、もう女性を信じられない。再婚など出来ない。バツイチで死ぬまで独身というのも、自分の人生設計にはそぐわない気がした。


 そして、こんな呟きがある日敬司の口から溢れた。


「ああ、俺も子供が欲しかった」


 それから数ヶ月後、敬司は雅樹に声をかけた。


「近いうちに、飲みに行かないか?」

「え?えー。というか、赤中さ、子供、嫁さんに押し付けて飲むの?」

「いや、紀華と千尋も連れていく。子連れでも大丈夫な所探したからな」

「あ、うーん、じゃ、行く」

「永沢も、嫁さん連れて来いよ。仲間外れにしたくないから」

「えー、あー、わかった」


 更に、おおよそ1週間後の休みの日。夕方居酒屋に敬司達5人が集まった。


 雅樹の妻、彩美は、紀華に抱っこされている千尋を見て、目を伏せたが、気を取り直して敬司に声をかける。


「主人が、いつもお世話になっております」

「いいえ、こちらこそ」


 一方、紀華と雅樹は、お互いを見る目が泳いでいた。しかし、紀華は彩美に倣い、雅樹に声をかけた。


「主人が、いつもお世話になってます」

「こちらこそ、お世話になってます。あー、赤ちゃん、かわいいですね」

「あ、ありがとうございます」

「名前は?」

「千尋です」

「千尋、ちゃん、かー」


 そのやり取りを、敬司は冷ややかな目で見ていた。そして、「千尋の本当の父親として一番疑わしいのは、永沢、お前だ。今夜は酔わせてぼろを出させてやる」と心の中で言った。


 しかし、2家族間の飲み会は、当たり障りの無いものになっていく。紀華と雅樹は、多少ぎこちない形ではあったが、あくまで他人行儀で会話を続ける。そのうち、千尋がぐずり始めた。紀華は気まずそうに外に千尋を連れ出した。しかし、なかなか千尋は機嫌がよくならなかった。


「ごめん、私、千尋と先に帰る」

「ああ、そうしろ」


 そんな敬司と紀華のやり取りを彩美は見て、こう言った。


「同僚同士、積もる話もあると思うので、私もここでお暇します」

「じゃ、後で」


 雅樹はそう言って妻を送り出そうとした。そこで敬司が口をはさむ。


「今日は楽しかったです。また、こういうことしましょう!」


 敬司の提案に、一同拒否できずに頷いた。その後、残された敬司と雅樹は仕切り直し、飲み続けた。自然と仕事の話になってしまう2人の話。敬司は、「今夜は無理かもな」と思いつつも雅樹に声をかけた。


「嫁さん、礼儀正しくていい人だな」

「あー、合コンで結婚した赤中と違って僕は、幼馴染同士の結婚だったけど、正直、後悔してるよ」

「え?」

「子供産めない体だったなんて、結婚した後に知ってさ、本気で興ざめしたし、不妊治療に付き合ってんのも本気で疲れたから、嫁さんとの子供、諦めたんだよ」

「そうか」


 敬司のグラスを持つ手が震えた。それに気づかず雅樹は話を続けた。


「今から別の女探して再婚すんのも面倒だし、幼馴染ほっぽり出すなんて、世間的には僕、『最悪の男』じゃん?ま、仕方ないからよぼよぼの夫婦になるまで面倒見るつもりだよ」


 敬司は、気分が悪くなるのを自覚した。そして、こう言った。


「そろそろ、帰ろうか」

「ん、そうだね」


 そして、その夜は更けていった。


 それから、頻度は低いものの2つの家族の交流は続いた。しかし、敬司の望むような言質を得ることが出来なかった。


 そうしているうちに、千尋は幼稚園に通うようになった。ある日、紀華は千尋が寝静まった頃、敬司にこんな事を言った。


「ねぇ、もう千尋も幼稚園行くようになったから、2人目作ろう?」

「いや、千尋を育てるので手一杯だ」

「もう何年も、私達してないよね?」

「そうだな」

「もう、私の体は大丈夫だから、ねぇ」

「それでも、子供は千尋だけでいい」

「敬司」

「もうこの話は終わりだ」

「やだ!2人目作りたいよ!!」


 この時、紀華の心には、ちゃんとした敬司との子供を産んでおかなければならないという義務感が溢れていた。必死に食い下がる紀華に、敬司は声を荒らげた。


「しつこい!!」


 敬司と紀華の大声に、千尋が起きてきた。


「パパ?ママ?」


 敬司は、千尋に歩み寄った。


「ああ、起こしてしまったな。ベッドに戻ろう」


 そして、敬司は千尋を部屋に連れて行きながらこう言った。


「なぁ、千尋、世の中の男はな、みーんな悪い男なんだ。だからな?今の幼稚園ても、これから行く学校でも、男の子と仲良くしちゃ駄目だからな」


 この言葉は、ここ最近、敬司が千尋と2人きりになった時にしつこく言うようになった言葉だ。


「わかった、パパ。もう、ママと喧嘩しない?」

「今日はもうやめよう。だから、もう寝るんだ」

「うん」


 そして、千尋は就寝した。


 それから、千尋は小学、中学、高校と進学していった。紀華は、千尋に浮いた話がないことに心配を募らせていたが、敬司は、そんな千尋を「色恋沙汰にうつつを抜かさず、学業に専念するいい娘」と褒めたたえた。永沢夫妻との交流は、年々少なくなってはいたが、年に数回顔を合わせる日々を過ごしていた。


 そして、千尋は18歳となり、法的に成人を迎えた。敬司は、こう提案した。


「千尋の成人と高校卒業を祝う旅行を企画したんだが、付き合ってくれるよな?永沢」


 雅樹は即答した。


「いいね」


 そして、千尋は高校を卒業した。その月内に赤中家と永沢夫妻の5人で旅行に繰り出した。敬司の荷物には、「父子否定率99.999%」と書いてある書類がしっかり入っていた。


「パパ、ママ、雅樹おじさん、彩美おばさん、高校卒業と、私の成人を祝ってくれてありがとう。そして、この旅行、楽しかった。明日帰りたくないくらいだよ」


 旅行最終日の夜、宴会の席にて千尋は言った。敬司、紀華、雅樹、彩美はそれぞれ拍手しながら微笑んだ。拍手が鳴り止むと、敬司はやおら立ち上がり、自らの荷物の中から古びた封筒を取り出した。敬司以外の一同が首を傾げる中、こんな言葉が宴会会場に響いた。


「千尋、今日をもって、俺はお前のパパを終わりにする」

「え?パパ?」

「『パパ』じゃない。敬司さん、もしくは、敬司でもいい。もう、パパと呼ぶな」


 千尋が戸惑う中、敬司は封筒の中から忌々しい書類、「父子否定率99.999%」と書いてある書類を取り出した。


「千尋、俺は、お前を育てたが、父親じゃない」


 その敬司の言葉に、紀華と雅樹は同時に立ち上がった。敬司は、その様子に短く鼻で笑う。


「やっと、『ぼろ』を出したな、永沢。最近は、俺の勘違いなのかもしれないと思っていたが、その様子じゃ、『そう』なんだろう。なぁ?紀華」


 千尋、紀華、雅樹、彩美の順で「父子否定率99.999%」と書いてある書類を敬司は見せに回った。


「彩美さん、あなたの旦那はな?俺の嫁に手を出した。そして、千尋を産ませたんだ」


 もはや言葉を失う面々。敬司は再び千尋の横に行き、こう言った。


「千尋、俺と『結婚』しろ。俺は、お前と家庭を作り直す。まぁ、お前の中に流れる永沢の血は心底邪魔だけどな。お前の中の紀華の血と俺は結婚し直す。拒否なんかさせない。ここまでお前を育てた恩を、お前自身で返せ」

「え、パパ、嘘」

「パパじゃないと言ってるだろう!!」


 千尋の頬が、敬司によってはたかれた。千尋はその場に崩れ落ちる。紀華は駆け寄ろうとするが、敬司が立ちはだかる。


「永沢に汚れた汚い手で、千尋を二度と触るな。千尋は男で汚れていない綺麗な女だ。明日、俺と千尋は新居に『帰る』。そして、二度と紀華と永沢には会わせない。永沢、紀華にまだ手を出したければ、これから存分に手を出していいぞ?俺は千尋と消えるからな」


 戦慄が会場内を支配する。それ以降の会話は全くなかった。


 翌日の早朝、敬司は紀華、雅樹、彩美を置き去りにして千尋を連れ去った。宿のほど近くには、敬司が新しく借りた家があった。


「千尋、ここで永遠に暮らそうな?愛している」


 その後、彩美は夫の裏切りに心を閉ざした。雅樹はそれでも世間体を保とうと奔走した。紀華は敬司に恐怖し千尋を探す事を放棄した。


 そうして3年が経った。とある日の夜中。千尋は産まれたばかりの男児を抱っこしていた。敬司は2階で寝ていたが、家中灯油のにおいが充満していた。そんな中、千尋のか細い声が響く。


「愛斗、今から天国に行こうね」


 ライターのカチッという音が、炎に消えていった。


 翌日の夕方、火災のニュースが全国に流れた。性別不明の遺体3体が見つかり、連絡の取れない赤中敬司、赤中千尋、赤中愛斗とみて確認を進めているという報道であった。


 後日、この火災は、放火と断定。状況から千尋が容疑者となる。借家を燃やされた事から、千尋の関係者である赤中紀華に多額の賠償金が課せられた。紀華は、雅樹からの支援を受けたが、天命を全うするまでみじめな暮らしをしたという。

(完)


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