《1》黎明
――――例えば、辛い酒で苦悩をごまかすように。
――――例えば、身に負った痛みをより大きな傷で忘れるように。
――――例えば、憎いはずの炎で奪われた日々と全ての禍根を無に返すように。
とある国のとある僻地のそのまた奥に、ひとつの館があった。周りは深い霧と森林に囲まれ、館の存在を示すものといえば燦然と輝く月明かりだけ。館を飾り立てる塔たちはその光を背負い、優雅な曲線美をこれでもかと見せつけている。
そして今宵はなんとも珍しい。この辺鄙な地に沢山の御客が来ているようだ。紳士・淑女らは
豪勢な衣服でその身をつつみ、誰も彼も宝飾で飾り立てるものだから、降り注ぐ月光がそれらに反射して新たな光を生みだしている。
俺はその目に痛いくらいの光を薄汚れた石壁から眺めていた。
かなしいかな、これが現実だ。俺は招待客でもなければ館に仕える給仕でもない。ましてや、主催だなんてのは有り得るはずがない。俺に与えられた役目は――
「次、17番だ!とっとと出せ!!」
酒に焼かれた汚い男の声が乱暴に囃し立てる。俺たちは肉の無い肩を掴まれ、不釣り合いなほど立派な鳥籠に押し込められた。底に敷かれた赤い絨毯。その長く、柔らかいはずの毛が脚中に広まったあらゆる傷に刺さって痛みが走る。それは横にいる弟もそうらしく、小さくしゃくりを上げながら俺にすがりついてきた。
そうしているうちに俺たちの入った籠は周りの人間どもによって眩しい舞台上へと押し出された。暗闇から照明の元に連れ出され、その急激な変化に眉をひそめる。すると目にしたのは俺たちの前に連れ出された若い女が贅肉を蓄えた男に首を掴まれているところだった。
痩せこけ、恐怖に震える女の首に男の肥えた指が絡みつく。そうして手が離れた時、女の首には黒黒とした首輪がつけられていた。その重みを理解したらしい女は美しいはずの顔を歪め、髪を振り乱して泣き叫んだ。
俺たちの目の前で、一人の女が人としての価値を失った瞬間だった。
「さぁ、皆様!次は我らがご用意させていただいた中でも格別の珍品!亡国の流星狼です!!」
「流星狼だと?!本当に生き残りがいたのか… ?」
観客のざわめきの中に、そんな声が混じった。
遠く北の果て、かつての狼たちの楽園は理不尽に侵入してきた人間たちによって踏み荒らされた。同胞たちのほとんどは殺され、生き残っても奴隷に落とされた。……その末路に値札をつけられるだなんて、知りたくもなかった。
会場中の下卑た視線が一極に集中する。俺はその視線から目をそらすことも声を上げることもせず、ただ真っ直ぐに睨みつけていた。……弟の肩を抱き寄せる手が震えているのは気が付かないフリをして。
気持ち悪い熱狂に会場が盛り上がるのを肌で感じる。見たことも、聞いたこともないような額がどんどん叫ばれていって目眩がしそうになった。それでも隣の弟の声が俺を現実に引き戻してくれる。
「兄ちゃん…俺たち、離れ離れになっちゃうの……?」
そう、弟はいつも俺のやるべきことを思い出させてくれる。
金の瞳から溢れた涙が頬をつたって流れていく。それを優しく拭いながら俺は弟の問いかけに答えた。
「……大丈夫。俺たちが離れることなんて絶対にない。兄ちゃんはいつでもお前と一緒にいるって約束する。だから――」
「今だけは、その目も耳も閉じていてくれるか?」
弟の子供にしては痩せすぎな頬を撫で、大きい耳を両手で閉じさせる。最後にまぁるい瞳をそっと手のひらで撫でれば、物分りのいいこの子は素直に従ってくれた。
いつの間にか、馬鹿の一つ覚えのように金額を叫んでいた観客の声は止み、一人の女がこちらに歩いてきた。洗練された佇まいのその女は周りの奴らとはどこか違った匂いがする。豪華さもなければ、鬱陶しいくらいの宝飾もない。よくいえば上品、悪く言えば地味な女は、なんの躊躇いもなく俺たちの前に立つ。
そばに居た主催側の男に籠を開けるように指示したかと思えば、あろうことかその女は俺たちが外に出る前にこちらへ手を伸ばしてきた。それは支配の手でも、暴力の手でもなく、ただ純粋にこちらにさしのべられた手だった。
その違和感に思考が止まる。しかし、焦れた男が籠を蹴り上げたことでそれも一瞬だった。
忘れてはならない。
ここにいる奴らが俺たちに何をしたか。
臆してはならない。
今ここで終わらせなければ――!
蹴られた籠がたてた音に男自身も、観客も、そしてあの女も気を取られた。その隙に、俺はあるものを取り出す。
それは白と紅が斑に混ざりあった、不格好な蝋燭であった。
ずっと、この機会を待っていた。
驟雨のように降り注ぐ照明に、金属製の籠は熱を帯びる。ほんの少し、そのほんの少しの熱でも俺には十分だ。
左手を重厚な金属に添わせ、右手の蝋燭を反対側の柵に押し付ける。左手を中心に一気にその温度を上げていけば、熱はやがて右手の蝋にたどり着いた。心の底で燃えている怒りの脈動がそのまま吹き出す。
そしてわずかに弾けた小さな花火。
それを右手に捕らえた時、俺は女に向かってこう言ってやったよ。
「死ねよ……クソったれ共!!!」
弾けた火花は業火へと姿を変えた。赤黒い炎がうねるように広がって、全てを燃やし尽くしていく。
肩に入っていた力をどうにか抜く。熱の中心だった左手は爛れてしまったし、右手も蝋に塗れてろくに動かせない。こんな有様になってでも果たしたかった復讐は終わった。けれど、心はどこか冷えきっている。
人も、それ以外も関係なく灰と化して行く姿に俺はかつての故郷を見た。
(あの日の故郷もこんな姿だったな……)
憎くてたまらなかった炎が、今の俺たちを取り巻く全ての禍根を燃やしていく。その姿を呆然と眺めながら、いつの間にか背に縋りついていた弟を撫でていた。
「ふふ……お話する前に燃やされたのは初めてよ」
豪炎の中から女の声がする。それを理解した時、今度こそ思考が止まった。それでもその働かない頭で咄嗟に弟を背に隠し、声のした方に振り返る。
瞬間、あれだけ猛威を奮っていた炎が晴れ渡る。そこに現れたのは思わず目を見開いてしまうぐらい美しい清流を纏い、業火をものともせずに立つ、一人の女であった。
「な、んで……」
驚愕に目を見開く俺をよそに女はこちらへと足を踏み出す。一歩、また一歩と進むうちに炎はまるで女を彩る装飾のように道を開いた。
「なんでって?それは私が――」
極めて穏やかな声で呟く女の姿が瞬く間に変化していく。上品な紺碧のドレスからは黒い鱗が艷めく長い尾が。先を海のような青に彩られた黒髪が揺れる頭には黄金の角が。そうして、右腕を緩く持ち上げて横に泣いだ瞬間、周りで燻っていた炎すら吹き飛ばし、美しすぎるくらいの両翼が現れた。
「――人間じゃないから、よ」
「さて、子狼ちゃん」
目の前にあの瞬間と同じ手が差し出される。
「今度は、この手を取ってくれるかしら?」
傷一つ無い、玉のような肌にそっと、手を重ねる。その手は2つ。俺たち兄弟が離れることはないのだから。
瞬いた彼女の瞳、そして嬉しそうに細められた瞳のその鮮烈な青を俺が忘れることはないだろう。




