宴③
セレナは、深く息を吸い込むようにして願った。
――ごめんなさい、ごめんなさい。
お願い、現れて……。
目を開けることが怖かった。
現実が、自分の罪を突きつけてくるのが、怖かった。
それでも、必死に祈り続ける。
世界の音が消えていた。
焚き火の音も、人々のざわめきも、何ひとつ聞こえない。
ただ自分の鼓動だけが、胸の奥で響く。
……どれくらい、祈っていたのだろう。
時間の感覚が消え、祈りだけが世界を満たしていた。
「もう、いいぞ」
ラディンの低く、穏やかな声が耳に届く。
その声に導かれるように、セレナはゆっくりと目を開けた。
――世界が、光に満ちていた。
そこには、力強く、確かな存在感を放つ精霊たちの姿があった。
鮮やかな色の火が、幾重にも揺らめき、広場を満たしていた。
その光景は、夢でも幻でもなく、現実だった。
セレナは、茫然と見つめていた。
セレナの様子を確認した後、ラディンは短く息を整え、すぐに声を張った。
「セラフィーネを清めて、寝かせろ。リリアーナは別室に運べ。セレナ……お前はセラフィーネの傍にいてやれ」
人々がようやく動き出す。
指示に従い、手当てのための布や水が慌ただしく運ばれていく。
焚き火の光が揺れ、沈黙と焦燥が交じる中、ラディンの声だけが確かに響いていた。
「血を流しすぎている。……声を、かけてやれ」
セレナは頷き、震える手で姉の手を握った。
その横顔には、涙がまだ乾かずに光っている。
リリアーナは、目を開ける事はなかった。
その時、大柄な男がラディンの近くへ歩み寄ってきた。
顔には疲労と安堵が入り混じっている。
「……ありがとうございます」
男は深く頭を下げた。
ラディンは首を振り、低い声で言った。
「礼は、セラフィーネと、リリアーナと……セレナに言うんだな」
男は言葉を失い、静かに頷く。
ラディンは一度セラフィーネの方へ視線をやり、
「……俺は、リリアーナを見てる」
そう短く告げて、その場を後にした。
焚き火の光の中、ラディンの背がゆっくりと闇に溶けていった。
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ナイフを振りかざした少年は、座り込み、泣いていた。
嗚咽が喉の奥から漏れ、肩が小刻みに震えている。
――少年の母は、長いあいだ病に伏せっていた。
あの襲撃の夜も、外へ出る力がなく、家の中で寝ていた。
それが、彼女が生き延びた理由だった。
だが、襲撃の後――島には何も残っていなかった。
食料は尽き、薬も手に入らず、母の身体は少しずつ痩せ細っていった。
少年は祈った。
出来ることは、何でもやった。
母の看病をし、海に出て魚を獲り、畑を耕した。
食べ物を手に入れれば、自分の分を母に譲った。
それでも、母の顔色は日ごとに青白くなり、息は弱くなっていった。
ある夜、母はかすれた声で言った。
「精霊が……いたら、違っていたのかも……ごめんね」
それが、最後の言葉だった。
少年の父は、襲撃のときにすでに命を落としていた。
母を失い、少年は完全に一人になった。
それでも、生きねばならなかった。
飢えと孤独に耐え、祈ることをやめなかった。
――そして今。
かつて失われたはずの精霊たちが、再び姿を現した。
人々は、精霊たちの姿に涙していた。
失われたものは、もう戻らない。
けれど――新たに生み出すことはできる。
その夜、誰もが胸の奥で、自分の「出来ること」「すべきこと」を見つめ直していた。
沈黙の中で、焚き火の炎が静かに揺れ、光がそれぞれの顔を照らしていた。
少年のことは、島の誰もが知っていた。
母を失った孤独な子であることも、必死に生きてきたことも。
だが、皆、自分のことで精一杯だった。
気にかけながらも、誰も手を差し伸べられなかった。
宴の終わった広場は、やがて静まり返り、
人々の影がひとつ、またひとつと消えていった。
そこに残ったのは――少年ただ一人。
少年は、静まりかえった広場を見ていた。
責める者もいない。
慰める声もない。
……ただ、一人を除いて。
暗くなった広場で声をかけた男は――あのとき、少年を殴った男だった。
男は肩で息をしながら、少年の前に立った。
夜風に乱れた髪が、焚き火の残り火に照らされて揺れる。
「打ち身の薬だ。……あと、食料」
男は小さな包みを差し出した。
少年は目を見開き、驚きに声を失った。
「どうして……」
その問いに、男は短く息を吐き、少し目をそらした。
「あそこまで、飛ぶとは思ってなかった……」
苦笑にもならない声だった。
男は背を向け、広場の外を見やった。
「俺は、戻る。……こんなところで寝るなよ」
それだけ言うと、男は走り去っていった。
足音が土を蹴り、やがて夜の闇に消える。
少年はしばらく、男の去った闇を見ていた。
手の中の包みの温もりが、じんと指に残る。
やがて、のろのろと立ち上がり、
重い足を引きずるようにして、家路へと歩き出した。




