ある島国の過去
少し、過去の話。大陸との貿易を閉ざしたまま、独自の文化を育んできた島国があった。
人々は精霊を身近に感じ、その加護を受けながら魔道具を生み出し、豊かな暮らしを享受していた。天候は常に穏やかで、大地は肥沃にして作物を実らせ、魔道具は人々の生活を格段に高めていた。
ある日、その静かな島の浜辺に、一人の男が流れ着いた。
男はひどく傷を負い、息も絶え絶えであった。彼はこう語った。
「……船が、海獣に襲われて沈んだのだ。俺は木の板にしがみつき、潮に流され、ここまで漂い着いた……」
島の民は思った。潮目が変われば、異国の者が辿り着くこともあるだろう――と。
不審を抱く者もいたが、漁師の家に拾われ、介抱されることとなった。
その家には、一人、娘がいた。
娘は懸命に男の世話をし、男は寡黙ながら誠実さを漂わせた。やがて三年が過ぎ、二人は夫婦となり、子を授かるに至った。男は妻と子を心から慈しみ、島の人々も次第に警戒を解き、もはや彼を疑う者は誰もいなくなっていた。
――そして、その日は訪れた。
年に一度、島をあげて精霊を讃える大祭の日である。
大人には国から酒と食事が振る舞われ、子供たちは集められ、甘い菓子や果汁を楽しむ。島の誰もが働きを忘れ、ただ精霊に感謝を捧げる、特別な一日だった。
広場に立った王は、杯を掲げて高らかに告げた。
「精霊に感謝を――今年も幸多からんことを。乾杯!」
人々は一斉に杯を傾けた。
次の瞬間、地面に膝をつき、呻き、倒れていく姿が広場を覆った。苦しみの声が重なり、あちこちで杯が落ち、酒が土を濡らした。
異変を察した隊長が鋭く声を放った。
「待て――飲むな!」
その言葉に反応し、口をつける前に手を止めた兵士たちと、杯を唇から離したわずかな者だけが、命を繋ぎとめることができた。
酒には、無味無臭の毒が仕込まれていたのだ。
「毒だ……!」
「一体、誰が――!」
騒然とした広場に、影が動いた。人々が息を呑む中、隠れていた賊どもが姿を現したのだ。
そして、誰もが信じられぬ思いで見た。三年前に海から流れ着き、島の一員として受け入れられ、妻を持ち、子を抱いていたあの男――彼こそが、賊の一味であった。
島民たちの警戒心が解けたのを見計らい、彼らは襲撃の時を待っていたのだ。精霊の恵みと共に育まれた財宝や魔道具を奪うために。
「やめろ! やめてくれ!」
「返せ、それは我らの……!」
抵抗する者たちは、容赦なく斬り伏せられた。血と悲鳴が広場を覆い、祭りの灯りは地獄の炎のように揺れた。
しかし兵士たちは立ち上がった。死を覚悟し、剣を抜き、必死の抵抗を繰り広げた。
隊長は声を張り上げる。
「子供たちを守れ! 子供たちは広場に集められている――一人も死なせるな!」
兵士たちは血を流しながらも戦い続けた。
やがて賊たちは、さらなる消耗を恐れ、財宝、魔道具を抱えて撤退していった。
……戦いの後に残ったのは、無残な光景だった。
王も、その周りに仕えていた者も皆、倒れ果てていた。生き残ったのは、深く傷ついた兵士、隊長、病に苦しむ者、ほんの僅かな大人たち、そして震えながら集まる子供たちだけだった。
漁師は呆然と立ち尽くしていた。あの男を浜辺で助け、家に迎え入れたのは自分だ。その手で差し出した食事と居場所が、この島を滅ぼすことに繋がった。
漁師とその娘には、なぜか違う酒が渡されていた。だからこそ生き残った。だが、それは救いではなかった。……男が最後に示した情なのか。
真実は、もはや誰にも分からない。
賊と共にその男は去っていった。
残された漁師は、島の人々に顔向けできなかった。
「……すまぬ、すまぬ……」
泣きながら、漁師は自らの手で娘を殺し、孫をも手にかけ、そして己の命を絶った。
島は、深い悲しみと苦しみに包まれた。
気がつけば、長く寄り添ってきた精霊たちの姿も、どこにも見えなくなっていた。
精霊の姿を失った島は、次第に荒れ果てていった。
かつて穏やかであった空は、嵐と高波に覆われるようになり、肥沃だった大地は痩せ細り、作物は育ててもわずかばかり。精霊の力を借りてこそ生み出されていた魔道具も、今や二度と作ることは叶わなかった。
人々は涙ながらに、精霊の帰還を願った。だが、いかに願おうとも精霊は二度と姿を現さなかった。
残された子供たちの中に、年の離れた二人の姉妹がいた。亡き王の娘――王女である。
姉は心に炎を宿し、妹の手を取り、こう言った。
「……敵討ちは、したい。……けれど、その前に精霊をどうにかしなければ、この島は滅びるわ……」
幼き妹はただ頷き、姉の瞳を見上げた。姉の瞳には、失った家族と国のために立ち上がる決意があった。
姉は過酷な鍛錬を自らに課した。剣を握り、弓を引き、魔力の理を学び、暗殺術を、リュートを身につけた。どれほど辛くとも歯を食いしばり耐え抜いた。……リュートは、旅に出る時の、偽装の手段だった。
やがて隊長はその覚悟を、能力を認めた。彼は王女に託した。
……精霊を再びこの地に呼び戻すことができる者を、探す旅に出ることを。
こうして、若き王女は島を後にした。
その背に、島の未来、消えた精霊を再び呼び戻すという重き使命を負って――。