雪苺
外の空気は、頬を刺すように冷たかった。吐く息が白く立ちのぼり、すぐに空へ溶けていく。行き先など決めてはいなかったが、胸の奥で小さく声が囁く。……南へ行こう。確か、町があったはずだ。そこならば人目を避けて身を隠せるかもしれない。
重たい足を、一歩ずつ前へ運ぶ。力が入らない身体はすぐに悲鳴を上げるが、立ち止まるわけにはいかない。振り返ってしまえば、すべてが崩れてしまう。あの城に、あの人に、すがりたくなってしまう。だから、決して振り返ってはいけない。
喉の奥までこみ上げてくる涙を必死に噛み殺し、唇を強く結ぶ。崩れそうになる心をただ意志で押しとどめ、リリアーナは歩き続けた。冷たい風にさらされながらも、その背中は確かな決意を宿して、南へと向かっていった。
リリアーナは、どれほど歩いただろうか。重たい足を前へ運びながら、ふと顔を上げた。その視線の先に、思いがけない光景が広がっていた。
……雪苺?
北国の早春にだけ実ると聞いたことのある、小さな果実。半分は白く、半分は赤く色づき、雪解けの大地にひっそりと顔を覗かせている。その実が、あちらこちらに、まるで星屑をばら撒いたように群れていた。
「……すごい」
リリアーナは呟きながら、ひとつを手に取った。指先に伝わるのは冷たさ。まだ冬の余韻を残した大気が、そのまま宿っているかのようだった。ためらいなく口へ運び、ぱくりと噛む。
――甘い。
小さな果汁が舌に広がり、乾いていた喉と心を同時に潤していく。ひとつ、またひとつ。リリアーナは夢中で雪苺を摘み、口に運んだ。そのたびに胸の奥まで染み渡るような優しい甘さが広がった。
城では、エドモンドがリリアーナの姿が見えないことに気づいた。毎朝の日課のように、彼女のもとへ挨拶に向かうのが常であったのに、その部屋はもぬけの殻だった。
「……いない?」
信じがたい思いで室内を見回す。整えられた寝具、静まり返った空気。まるで、そこに最初から誰もいなかったかのようだ。胸に冷たい不安が走る。
一体、いつから?どうやって?ずっと寝ていた彼女が、自らの足で……?エドモンドの焦りは募るばかりだった。彼は兵士や侍女たちを呼び集め、リリアーナの目撃情報を求めた。
「誰か、見ていないか?昨夜、今朝、どんな些細なことでもいい!」
やがて兵士の一人が、恐る恐る口を開いた。
「……南へ歩いていく、小柄な影を見ました。背丈は……リリアーナ様ほどに見えました」
その言葉に、エドモンドの心臓が大きく脈打った。考えるより先に、彼は命じていた。
「馬を出せ!」
焦燥と決意に突き動かされ、エドモンドは鞍に飛び乗る。リリアーナを追わねばならない。彼女がどこまで行こうとも、必ず見つけ出す。その思いだけを胸に、エドモンドは城を駆け出していった。
エドモンドは馬を走らせ、風を切って南の道を駆け抜けた。やがて視界の先に、小さな影が見える。赤い実の茂みの前に、膝を抱えてしゃがみ込む少女――リリアーナだった。
「見つけたっ!」
声に、リリアーナの肩がびくりと震える。振り返ったその顔は青ざめていた。
「……何を、しているんだ」
エドモンドは険しい表情で馬から飛び降り、彼女に詰め寄る。リリアーナは怯えたように瞬きを繰り返し、やがて小さな掌を差し出した。そこには、半分赤く、半分白い実がのっている。
「……この実を食べたのか?」
リリアーナは頷く。
しかし、次の瞬間、リリアーナの身体が力を失い、地面に崩れ落ちた。エドモンドが慌てて抱きとめる。
「リリアーナ!」
エドモンドの叫びは、冷たい早春の空に鋭く響いた。
……リリアーナは知らなかった。北国には「雪苺」にそっくりな「偽雪苺」があり、しかもそれは猛毒だ、ということを。
北国の子どもたちは、小さい頃から雪苺と偽雪苺の見分け方…ヘタが反っているか、否か…を学び、それが常識になっていることを。
雪苺は実るとすぐに人や獣に食べられてしまうので、残っているのはほとんど偽雪苺ばかりだ、ということを。
……北国にでは、あまりにも常識すぎて、リリアーナの読んだ本には載っていなかった。
………エドモンドは、リリアーナが猛毒の実を自ら食べた、という事実に直面したのだった。




