ラディンは、ラニアを訪ねる
ラディンは、あの裏庭での密談の後、自らの部族のもとへ帰っていった。季節はさらに巡り、冬は深まる。
例年であれば、魔獣の襲来に備える時期だった。
城では対策のための人員が配置され、見張り台には昼夜を問わず兵が立つ。薪が積み上げられ、矢羽の補充が進み、緊張が静かに張りつめていく。
オルフェウスは、ラニアの言葉を思い出していた。
「魔獣はもう、来ない」
あの時の、妙に確信に満ちた声。だが、万が一があってはならない。彼は例年通りの対応策を命じた。油断はしない。それが領主としての責務だった。
しかし——
魔獣は、なかなか現れなかった。
雪を踏みしめる音は風のものばかりで、森の奥も静まり返っている。偵察隊が戻るたび、報告は同じだった。
「異常なし」
そんな束の間の平穏の中、城門に見慣れた影が現れた。毛皮を纏い、雪を払う男。
ラディンだった。
「ラニア、いるか?」
低く通る声が中庭に響く。その声を聞いた瞬間、廊下の窓辺で外を眺めていたローデンは、静かに思った。
……来たな。
予感は、外れない。次の瞬間、扉が勢いよく開く。ラニアが小走りで駆けていくのが見えた。冬の冷気も気にせず、一直線に。
「どうだった? ねぇ?」
まるで何かをねだる子どものような声音。期待を隠そうともしていない。
ラディンは肩をすくめる。
「待て。落ち着いてからだ」
容易くあしらうその態度。慣れている。距離の取り方を知っている。
ラニアはむっとしながらも、結局はその隣に並ぶ。
その光景を遠目に見つめながら、ローデンは理由のわからない感情に胸を締めつけられた。
言い合いでもない。触れ合ってもいない。
ただ、自然に並んでいるだけ。
それなのに。
なぜか、敗北したような気がした。
まだ何も始まっていないはずなのに。
ローデンは視線を逸らし、拳を握る。
束の間の平和は、どうやら彼の心には訪れていなかった。
「裏庭だと、寒いな」
吐く息を白くしながら、ラディンが言った。
確かに、冬の裏庭は冷えきっている。立ち話をするには向かない。
「暖かいのは、暖炉の部屋かな?」
ラニアは指先をこすり合わせながら答える。軽い調子だが、目は真剣だった。
ラディンは横目でラニアを見る。
「他の人が聞いてもいいのか?」
低い問い。ラニアは少しだけ視線を落とした。
「うーん。リリアーナに、隠し事はしないって約束したから」
その声は小さいが、迷いはない。ラディンは一瞬だけ黙り、それから肩をすくめた。
「まあ、噂だけだしな」
深刻に構えるほどの確証はない、という含み。二人は並んで廊下を歩き出す。
石の床に靴音が響く。窓から差し込む冬の日差しが、長い影を作る。
距離は自然に保たれているはずなのに、どこか近い。
城の奥、暖の入った部屋へと向かいながら、二人の足取りは静かに揃っていた。
暖炉の部屋は、外の凍てつく空気とは別世界のようだった。北の領地の冬は長い。吹雪に閉ざされる日も多い。
だからこそ、この季節は“内”を整える時期でもある。
マルグリットは、帳簿と羊皮紙を広げていた。
春に備えた備蓄の確認、織物工房の進捗、塩漬け肉の在庫、燃料の配分——領主不在時の城を回すのは、彼女の役目でもある。
リリアーナはその隣で、籠いっぱいの薬草を広げていた。
北方では冬の間、女たちは手を止めない。
雪に閉ざされる前に摘み、干しておいた薬草を選別し、葉と茎を分け、傷んだものを取り除き、効き目ごとに束ねていく。
兵の凍傷に使う軟膏用の葉。咳止めに煎じる細かな花。熱を下げるための根。
乾いた葉が擦れるかすかな音が、暖炉の火の弾ける音に混じる。
そこへ、扉が叩かれた。
「ラディンとラニアじゃない? どうしたの」
顔を上げたリリアーナが、驚き半分、興味半分で言う。ラディンは一礼し、言葉を選ぶように口を開いた。
「いや、ちょっと良くない噂を聞いて。忠告に来たんだ」
慎重な声音。暖炉の火がぱちりと弾ける。
「良くない、噂?」
リリアーナの手が止まる。
「そうだ。俺たちの部族は、お前たちとは違う。情報網もな」
森を渡る狩人たちの噂は、城の伝令より早いこともある。
「それで、どんな話なの?」
ラニアが身を乗り出す。期待を隠さない目。
ラディンは一瞬、彼女を見る。それから視線を戻した。
「とある部族は、魔獣を使役している。しかし、最近……命令に逆らうことがあるとか」
リリアーナは小さく息をのんだ。
初めて耳にする話だ。
「ふうん、それで?」
ラニアは思いのほか落ち着いている。
「魔獣を従える方法を、必死に探してるとさ」
ラディンはそこで言葉を切った。部屋に、わずかな緊張が落ちる。
「それは、何か関係してくるの?」
リリアーナが静かに問う。その問いは、領主家の嫁としてのものだ。脅威か否か、それだけが重要。
ラディンは首を横に振った。
「今のところ、接点はない。お前たちの領地とは離れている。だが——」
言葉を飲み込む。
「魔獣を無理に従わせる方法が見つかれば、何が起こるかわからない」
暖炉の火が揺れる。マルグリットは静かに帳簿を閉じた。
「つまり、火種はまだ遠いけれど、風向きは読んでおけ、ということね」
その声音は落ち着いている。北の冬を幾度も越えてきた女の強さが、そこにあった。
ラニアはロキを抱き寄せる。
小さな鼓動が、腕に伝わる。
暖炉の火が揺れる中、ラディンはわずかに視線を彷徨わせた。言うべきか、迷っている顔だった。
だが、結局は口を開く。
「それが……どうしてか、ラニアが魔獣使い、ロキが魔獣だっていう噂が流れているらしい」
一瞬、部屋の空気が止まった。
「……はい?」
リリアーナの声が、素で裏返る。
どうしてラニアが魔獣使いになるのか。
——いや、ロキが魔獣なのは、まあ、そうなのだけれど。
マルグリットは眉をわずかに上げただけだった。
「おかしな噂ね」
静かな評価。ラディンは肩をすくめる。
「何も起こらなければいい。だから、噂だけ伝えに来たんだ」
表向きは、それが理由。
だが——真実は、違う。
あの裏庭で。
ラニアは、まるで思いつきを口にするような顔で言ったのだ。
「もし、魔獣の制御が弱くなっていたら、噂を流して。魔獣使いがいる、って」
「何だと……?」
ラディンは眉をひそめた。ラニアはにこりと笑う。
「僕が魔獣使い。ロキが魔獣。そうすれば、彼らは来る、でしょ?」
まるで、かくれんぼの鬼を誘い出すような言い方だった。
「真実だろうが、嘘しか見えんな……」
ラディンは額を押さえ、深いため息をつく。
危険だ。だが理屈は通っている。
魔獣の制御に困っている部族がいるのなら、“新たな魔獣使い”の存在は無視できない。
「よろしく」
軽い声。
「どうして、俺がするんだ」
ラディンは即座に返す。
「だって、魔獣の使役。周りは誰も望んでない……違う?」
その言葉は、静かに突き刺さった。
他の部族も、誰も魔獣を縛る未来を、望んではいない。
ラディンはもう一度、ため息をついた。
断る理由は、ある。だが、否定できる理屈は、なかった。
暖炉の前。
何も知らないリリアーナが、まだ首を傾げている。ラニアは、ロキを抱いたまま、どこか楽しそうに火を見つめていた。
噂は、ただの噂ではない。それは、撒かれた餌だ。本当に、食いつくのか。
それを待っているのは——おそらく、ラニアだけだった。




