ラニアの手の中
次の日――。
ラディンは夜明けとともに城を発つつもりで、静かな廊下を歩いていた。窓から差し込む朝の光が床に長い影を落とし、足音だけが控えめに響く。
「ちょっと、待って」
背後から声がして、ラディンは足を止めた。振り返ると、そこにはラニアが立っている。
「これ、知ってる?」
ラニアはそう言って、そっと手のひらを開いた。
そこにあったのは、小さな金属のバッジだった。深い青の石が中央にはめ込まれ、その周囲を波紋のような紋様が円形に囲んでいる。銀の表面には細かな刻印が施され、見る角度によって水面の揺らめきのように光を返していた――とある部族の象徴。
ラディンは眉をひそめ、無言のままそのバッジを見つめる。わずかに表情が硬くなった。
「僕が、ここにいる間に見た記憶はない」
ラニアが静かに言った。
「だから、オルフェウスたちは知らないと思って」
そう続けながら、ラニアは探るような視線をラディンへ向ける。わずかな緊張と、確かめたいという意思が、その瞳の奥に揺れていた。
ラディンはしばらく答えず、ただ彼女の手のひらに乗った印を見つめ続けていた。朝の光が二人の間に落ち、廊下の空気だけが静かに張りつめていく。
「……これ、どうしたんだ」
ラディンは低く、抑えた声で言った。視線は、ラニアの手のひらに乗る紋章から逸れない。
「拾った。ある場所で」
ラニアは簡潔に答える。その声音は穏やかだが、どこか試すようでもあった。
「……本物、か?」
疑うというより、確かめる響きだった。
「多分。ねぇ、知ってるの?」
ラニアが問い返す。
ラディンは一瞬だけ目を伏せ、それから小さく息を吐いた。
「言い伝えだ。この紋様の部族には、逆らうな、と」
わずかに間を置き、続ける。
「魔獣を使役する、と」
朝の光が廊下に差し込み、銀の紋様が淡く光を返す。ラニアの瞳が、静かに揺れた。
「この辺りなの?」
「詳しくは知らない。常に移動しているらしい。実態が掴めない」
事実だけを告げる声。だが、その奥には警戒が滲んでいる。
「そっか」
ラニアは小さく頷いた。そして、バッジをそっと握りしめる。
「待て。何を考えてる?」
ラディンはとっさにラニアの肩を掴む。その指先に、わずかな焦りが込められている。
ラニアは彼を見上げた。
「……内緒」
いたずらめいた笑みを浮かべながらも、その瞳は冗談ではなかった。
「ねぇ、もし言ったら。協力してくれるかな?」
ラニアは、いたずらを思いついた子どものような顔で、そう言った。
……嫌な予感しかしない。ラディンは胸の奥に引っかかるものを覚えながら、慎重に言葉を選ぶ。
「……協力の約束は、できない」
即答はしない。否定も肯定もしない。その曖昧さが、彼なりの防御だった。
そのときだった。軽やかな足音が芝を蹴る。ラニアの方へ、一匹の影が駆け寄ってきた。
しなやかな四肢、陽光を弾く毛並み。人懐こい仕草とは裏腹に、纏う気配は明らかに異質。
「そいつは?」
ラディンは低く問う。
「ロキ、だよ」
ラニアは何でもないことのように答える。
「いや、そうじゃない。魔獣だろ?」
ぴたり、と空気が止まった。
ラニアは一瞬だけ目を見開き、それから小さく笑う。
「ラディンは、わかるんだ」
「まあ、狩人だからな。それに、よく知ってる」
ロキはラディンを見上げる。敵意はない。だが、ただの獣でもない。森で幾度も相対してきた“あちら側”の存在だと、肌が告げていた。
「……怖くないの?」
「それは、賢い」
ラディンはロキの動きを観察しながら続ける。
「危害を加える気なら、とうにしてるだろ」
ラニアは小さく頷いた。
「なるほど」
短い沈黙が落ちる。ラディンは周囲を一瞥し、声を落とした。
「……関係してるのか?」
問いは鋭い。核心を射る。ラニアは視線を逸らさず、しかし答えは曖昧に濁す。
「少しね」
それで十分だった。ここで立ち話を続けるべき話題ではない。ラディンは踵を返す。
「……場所を変えよう」
ラニアは軽く肩をすくめ、ロキを伴ってその後に続いた。
三人と一匹は、人目を避けるように裏庭へと向かった。
その一部始終を、柱の陰からローデンが見ていた。二人の距離。ラディンの手が触れるラニアの肩。低く交わされる声。
胸の奥に、言いようのないざわめきが広がる。
――どうして、あんなに距離が近いんだ。おかしいだろう?ここは廊下だぞ。しかも、もう触れるばかりじゃないか。
ローデンは、瞬きすら忘れてその光景を見つめていた。心臓の鼓動が耳にまで響くようで、息をするのも忘れそうだった。
――なんで、ラニアの肩を掴むんだ。なんで、ラニアは笑っているんだよ。
問いは胸の中で渦巻くだけで、答えはどこにもない。ローデンは、自分の思考を律することができなかった。感情が理性を押しのけ、ただ目の前の二人の距離と仕草に支配されていく。
身体は動かない。言葉も出ない。ただ、影の中で、じっと見つめ続けるしかなかった。




