公爵の思案
ある日の午後。
奥庭を巡回していた家令は、ふと足を止めた。
リリアーナが木陰に腰かけ、リュートを奏でている。
その隣には、公爵家の娘――アデライド。
いつもは虚ろな瞳で過ごしていた彼女が、静かに目を細めて音色を聴いていた。
時折、短く言葉を交わしてさえいる。
その光景に、家令は思わず胸を打たれた。
「……ということがございました」
夕刻、家令はその様子を公爵に報告した。
書斎で耳を傾けていた公爵は、眉をわずかに動かす。
「アデライドが……リリアーナと?」
「はい。驚いたことに、会話もなされておりました」
沈黙が流れる。
しばらくして、公爵は決意したように立ち上がった。
リリアーナは掃除を終えた後、呼び出されて緊張していた。
重厚な扉の奥、公爵が椅子に腰掛けている。
「リリアーナ」
「……はい」
「お前、アデライドと何をしていた?」
その声音は厳しさと興味を含んでいた。
リリアーナは一瞬戸惑いながらも、正直に答える。
「弾き語りの練習をしているところを、お嬢様が……聞いてくださっておりました。最近は……少しお話もしてくださるようになって」
その言葉を聞いた公爵は、長い間黙して思案する。
アデライドの笑顔が戻らず苦しんでいた日々が脳裏に去来した。
だが今――娘は小さくとも変化の兆しを見せている。
それは確かに、この少女の影響に違いない。
「……リリアーナ」
「はい」
「お前、礼儀の作法を学びたいと望んでいたな」
「はい、いずれ学院に入学したときに困らぬようにと……」
「ならば、こうしてはどうだ。アデライドと共に、その時間を過ごしてみよ」
リリアーナの瞳が驚きに見開かれる。
「お嬢様と……一緒に?」
「ああ。アデライドにとっても、誰かと共に学ぶことは良い刺激になるかもしれぬ。お前の存在は……あの子にとって悪いものではないようだ」
リリアーナは胸の奥が熱くなるのを感じた。
掃除の見習いとして来た自分が、まさかお嬢様と一緒に時間を過ごせるなんて――。
「……はい! 精一杯努めます!」
深々と頭を下げるリリアーナの声は、どこか弾んでいた。
そして公爵もまた、その素直さにわずかに頬を緩めるのだった。
数日後、広間に澄んだ空気が漂っていた。
婦長が前に立ち、二人の少女を見やる。
「本日は“おじぎ”を学びましょう。淑女の第一歩は、美しい礼から始まります」
リリアーナは胸を張って頷いた。
だが、隣のアデライドは椅子に腰かけたまま、無言で視線を落とす。
「……したくない」
ぽつりと落とされた声は、重たく空気を揺らす。
婦長が困った顔をする。だがリリアーナは一歩前に出た。
「では、私から始めます」
彼女は小さく吸い込むと、習ったばかりの仕草で、ぎこちなくおじぎをした。
背筋を伸ばし、両手を前に重ね、腰を折る。
――ぐらり。
均衡を失って、思わずよろめいてしまう。
「きゃっ」
その拍子に前髪がばさりと垂れ、顔が真っ赤になる。
婦長が思わず小さく笑いをもらした。
アデライドの唇が、ほんの少し動いた。
――笑った?
リリアーナは恥ずかしさを押し殺し、もう一度挑戦する。
「今度は……もう少し、きれいに」
そう言って深く息を整え、再びおじぎをした。
先ほどよりもずっと落ち着いた、丁寧な所作。
アデライドの目がじっとその姿を追った。
(どうして……そんなに一生懸命なの?)
しばしの沈黙のあと、アデライドは小さく立ち上がる。
「……やってみる」
婦長が目を見開き、ゆっくり頷く。
リリアーナは驚いた顔をし、すぐに笑顔を浮かべた。
アデライドは震える指先をぎゅっと握り、リリアーナの真似をして腰を折った。
まだ不器用で浅いおじぎだったが、その一歩は確かな変化だった。
リリアーナがそっと囁く。
「とても素敵でした、お嬢様」
アデライドの胸に、小さな温もりが広がった。
自分を見てくれる人がいる。
それだけで、少しだけ世界が明るく見えた。




