公爵家のお嬢様
リリアーナが奉公に入って数日後。
婦長から言われた通り、本館の掃除を中心に働いていた。彼女は家でも小屋でもよく働いていたので掃除は得意だ。雑巾がけも、埃取りも、並の大人顔負けの手際で仕上げてしまう。
「……おや、もう終わったの?」
驚く女中の声に、リリアーナは小さく微笑んで答える。
「はい。あとは隅を確認するだけです」
婦長にリュートを持っていること、練習したい事を告げた。「休憩時間に余った時間は奥の庭で練習しても良いでしょう…。ただし迷惑にならないように」と許しを得た。
リリアーナは、奥の庭の片隅に腰を下ろし、持参したリュートを取り出す。
指先をそっと弦にのせると、静かな旋律が流れた。
優しく、時には悲しく。声に魔力が入る。
その音色に――気づけば一人の少女が立っていた。
綺麗なドレスに身を包み、青白い顔をしている。
リリアーナと同じくらいの年頃だろうか。涙を頬に伝わせ、ただじっと音を聴いていた。
「……!」
リリアーナは慌てて立ち上がる。
「失礼しました。お休みのところ、騒がしかったでしょうか」
けれど、少女は小さく首を横に振った。
「……違うの。とても、きれい」
震える声でそう言うと、また涙をこぼした。
少女は、公爵のお嬢様だった。
婦長からは「お嬢様は体調を崩されており、普段は別館で療養されている」とだけ聞いていた。だが、実際には――彼女は心を病んでいた。
◇◇◇
三か月前の嵐の日。
お嬢様は、乳母の子であり友人でもある男の子と、窓辺から外を眺めていた。
「雨がすごいね!」と無邪気に窓に近づいた瞬間、強風に煽られた木の枝が窓ガラスを突き破った。
――鋭い破片が飛ぶ中、男の子はお嬢様を庇った。
彼はその目に傷を負い、失明した。
その後、大好きだった乳母と共に、少年は屋敷を去っていった。「田舎の実家に帰ります。ここでは、静かに過ごせません。また、迷惑をかけるばかりです……。」乳母は言った。
突然奪われた日常。
深い喪失感と罪悪感に、幼いお嬢様の心は耐えきれず、塞ぎ込んでしまったのだった。
事件の後から、お嬢様はすっかり変わってしまった。
それまで好奇心旺盛で、刺繍も読み書きも、歌や舞も誰より楽しみにしていたのに。
今では、習い事に呼ばれても机に座ったままぼんやりと時を過ごし、食事の席に並んでも、手を止めて皿を前に虚ろな目をしている。
誰かが声をかけても、応じることはほとんどない。
「……あの子に今は無理をさせれないだろう」
「ええ、時間が必要です」
父親も、母親も、口をそろえてそう言った。
屋敷の人々は皆、お嬢様が壊れてしまわぬよう、ただ“そっとしておく”ことしかできずにいたのだ。
リリアーナが奥の庭でリュートを奏でていたとき――その音に導かれるようにして、お嬢様は現れた。
淡いドレスの裾を引きずり、光のない瞳で。
それでも、リリアーナの音色を聞いたとき、初めて感情の色が宿った。
「また、聞ける…?」
「私の休み時間だけですが…」
そうして、二人の少女が共に過ごす時が始まった。




