男爵領の調合の師匠
王妃はリリアーナに問いかけた。
「冬の間、王都に滞在してもらうのだけど、私の実家か、公爵家、騎士団長の家、新しく家を借り入れる、もしくは城の客室──どれが良いかしら?」
リリアーナにとって、公爵家は顔なじみの人々が多く、懐かしさと安心を感じさせる魅力的な提案だった。
だが、城の外に住めば、治癒を行うために城へ通わねばならず、その間は護衛が必ず付き添うというそれを聞いて、リリアーナには少し面倒に感じられた。
王妃は続けて、少し表情を曇らせながら言った。
「不本意だけれど、騎士見習いか、使用人見習いという立場で城に暮らす方法もあるの。ただ、その場合は待遇が悪くなるわ」
しかし、リリアーナにとっては、そのほうがよほど気楽に思えた。身分に縛られず自由に動けるという点で、むしろ悪くない選択だった。
王妃は今度は、リリアーナ自身について確かめるように問いを重ねた。
「多才だと聞いているのだけど……薬草の調合、剣、リュート、治癒で合っているかしら? どうやって身につけたの?」
リリアーナは姿勢を正して答えた。
「男爵領で調合と剣とリュートを。治癒は北の領地に行ってからです」
「……教えてもらったのは、どんな人たちだったの?」
王妃はさらに踏み込む。
リリアーナは少し考えてから答えた。
「調合は、男爵領に住むアグネッタという年配の女性に。リュートはセラフィーネという弾き語りの方です。剣は、冒険者に教わりました」
その名を聞いた瞬間、王妃はわずかに動きを止めた。
「……そう」
短い返事のあと、何か思案しているように目を伏せる。王妃はアグネッタについて、更に詳しくリリアーナに聞いた。リリアーナは素直に答える。質問が終わると、王妃は整理するように静かに言った。
「暮らし方については……もう少し考えさせて」
そう告げると、王妃はリリアーナと別れ、自らの思考の海へと戻っていった。
王妃は、アグネッタという名をよく知っていた。かつて王都で名を馳せ、調合師として右に出る者のいないほどの実力者。
彼女の薬を求めて、王侯貴族が高額の金を積んだこともあるほどだ。
しかしアグネッタは、謀反を起こした伯爵の叔母でもあった。伯爵の罪と苛烈な刑罰を知った彼女は、誰にも告げず王都から姿を消した。
高名な彼女には、罪を問われることはなかったというのに。
それでも彼女は自らの意思で王都を去り、やがて、その名が語られることもなくなった。
──まさか、こんな形で再び耳にするとは。
王妃は驚きと同時に、素早く思考を巡らせた。そしてすぐに筆を取り、アグネッタ宛に手紙を書く。
内容は、リリアーナと共に冬の間だけ王都に滞在してほしいという依頼だった。
王妃が導き出した策──
それは「アグネッタの付き人」としてリリアーナを城に滞在させるというものだった。
アグネッタほどの実力者が城に滞在するとあれば、誰も反論できない。そして何より、リリアーナの存在を必要以上に目立たせずに済む。
リリアーナの治癒と、アグネッタの調合。
この二つを併用すれば、患者には驚くほどの効果を与えられるのでは?
上手く出来れば、周囲からはアグネッタの功績として扱われ、リリアーナはその補助として影に回れる。
王妃はそこまで考えたうえで、最後に条件を添えた。
──リリアーナには、顔出し・声出しを禁じること。
その決断には、リリアーナを守るための強い意志が込められていた。
数日後、アグネッタは、リリアーナと向かい合うと同時に深いため息をついた。
「……はあ。どうしてこんな年寄りを引っ張り出したんだい。ここまでの道中で、身体がガタガタさ。」
その声音には、文句よりも呆れと疲労が混じっていた。
リリアーナは慌てて頭を下げた。
「……申し訳ございません。まさか王妃様が手紙を書くとは思っていなかったのです。」
「全く…。リリアーナの名前が無ければ無視したものを」
アグネッタはぼやいた。
そのとき、部屋の扉がノックされた。
「どうぞ」リリアーナが答えると、静かに扉が開く。
「アグネッタ、リリアーナを責めないでほしいわ。」
王妃が優雅に姿を現し、落ち着いた声で言った。
アグネッタは、少しだけ王妃を睨むように見やった。そして、背筋を真っ直ぐに伸ばした。
「王妃様、私はとうに引退しました。もう静かに暮らすと、あの時に決めたのです。
王都には二度と戻らないつもりでした。……まさか、あの事件を忘れたわけではありませんよね?」
その言葉には、隠せない苦味と重さがあった。
リリアーナは、その口調と姿勢に大きく目を見開いた。男爵領では、ただ薬草を調合して過ごす博識な年配の女性──それがアグネッタだと思っていた。
だが今、王妃を前に背筋を伸ばし、毅然と向き合うその姿は、まるでどこかの高位貴族のような気迫を帯びていた。
王妃は、すべてを承知しているというように軽やかに応じた。
「勿論、覚えているわ。でもね、リリアーナの安全のために、あなたの力が必要だと思ったの。」
そして、ほんのわずか柔らかく微笑む。
「それにアグネッタ。あなたほどの腕を男爵領に埋もれさせるのは、あまりに惜しいわ。」
そのやり取りを聞きながら、リリアーナはただ驚きに息をのんでいた。アグネッタの過去、王妃との因縁、そして二人の間に流れる緊張感──
自分の知らなかった世界が、目の前で静かに開けていくのを感じていた。
アグネッタは、王妃に向き直りながら眉をひそめた。
「しかし、手紙を持って来た使者に、そのまま王都に来るよう同行させるだなんて……。
あまりにも強行なのではありませんか?」
問い質す声音には、年寄り特有の穏やかさの奥に、しっかりとした抗議があった。
だが王妃は、まるで悪びれる様子もなく微笑んだ。
「でも、そうでもしないと──逃げるかと思ったのよ。」
あまりに率直な言い草に、リリアーナは目をぱちぱちさせてしまう。
恐る恐る手を上げ、控えめに口を開いた。
「あ、あの……王妃様とアグネッタ様は、お知り合いなのですか?」
二人が醸し出す親しげな空気が、不思議で仕方なかった。王妃は懐かしむように目を細めて言った。
「私の母とアグネッタは友人だったのよ。
それでね、私もほんの少しだけ薬草を教わったわ。……まあ、全く身につかなかったけれど。」
アグネッタは肩をすくめ、小さくため息をついた。
「昔のことです。……王妃様は薬草より、策略を巡らせる本のほうが好きでしたからね。」
その言葉に王妃はくすりと笑い、すぐさま身を乗り出して言った。
「それで。王都に滞在してくれるわよね?」
急ぎすぎて断られる隙を与えない口調だった。アグネッタは苦笑し、王妃を見ながら言った。
「急いで来たおかげで、薬草をほとんど持ってくることはできませんでしたよ。」
その声には、わずかな不満と、しかし逃げる気などもうないという諦観が混じっていた。
その返答がすでに“肯定”であることを、王妃はもちろん、リリアーナにもはっきりと伝わった。




