リリアーナの馬車の旅
リリアーナは、馬車の中でひとりきりだった。馬車は絶え間なく揺れていた。
乗り込む前、影は彼女の両手を取って、冷たい鉄の手錠を掛けながら言った。
「もしも、があったらいけませんからね」
「こんなことしなくても、逃げたりはしないわ」
リリアーナが静かに抗議すると、影は肩をすくめ、作ったような口調で答えた。
「完璧主義なんですよ。……ああ、この喋り方も疲れたな」
そして本来の声音に戻り、ぞんざいに言い放つ。
「リリアーナ、さっさと王都に行くぞ。これ以上、面倒にするな」
手錠の小さな鍵を自分の首にぶら下げると、影はにやりと笑った。
「王に会う直前になったら、外してやるよ」
リリアーナはその笑みをじっと見返し、低く問いかけた。
「こんなことをして、楽しいの?」
「楽しいも何も、仕事さ」
影はそう言うと、リリアーナを突き飛ばすようにして馬車へ押し込み、扉を勢いよく閉めた。
乾いた金属音とともに鍵がかかり、馬車の中には静寂だけが残った。
リリアーナは、揺れる馬車の中で自分にできることを必死に考えていた。
逃げる?——無理だ。逃げればオルフェウス様たちに迷惑がかかる。
素直に王に申し出る?——王が何を考えているのかもわからないのに。
どうせ、何か言い含めてくるに違いない。
そう思うと胸が重く、リリアーナは小さくため息をついた。身体も思うように動かない。馬車の揺れが、頭の中でぐらぐらと響き続ける。彼女はそっと目を閉じた。
やがて、馬車が休憩のために止まった。
「おい、出ろ」
影は外から慎重に鍵を開けたが、返事がない。
「出ろと言ってるんだ」
声に脅しの気配が混じる。それでも中からは何の反応もない。不審に思った影は馬車の中を覗き込んだ。リリアーナは目を閉じ、ぐったりと項垂れていた。
「……仮病はやめろ」
疑いの声で言うが、リリアーナは微動だにしない。
「チッ」
影は苛立ち混じりに舌打ちし、彼女に近づいた。触れた瞬間、手が止まる。
——熱い。
昨日まで泉に沈んだまま眠っていたことで体力が落ちていたうえ、極度の緊張が重なり、朝はたまたま一晩寝て少し持ち直しただけだったのだ。
「……熱か。冗談だろ?」
影が呟いても、リリアーナの返事はない。仕方なく影は近くの町へ行き、秘密裏に泊まれる場所を確保した。リリアーナは三日三晩、意識もなく眠り続けた。
影は苛立ちを募らせる。——もうすぐ、なのに。疲労による発熱だと医者が言ったが、舌打ちが止まらなかった。
やがて熱が引いた頃、影はぶっきらぼうに言った。
「食事と睡眠はきちんと取れ。これ以上の遅れは許さん」
リリアーナは、味のしない食事を淡々と口に運び、眠れずとも目を閉じ、影の言葉に一切返さないまま従った。
そして、まるで売られていく子牛のように静かに、ついに王都へと辿り着いた。
影はリリアーナの姿を見て、鼻で笑うように言った。
「ずいぶん、小汚ないな」
無理もない。北の領地を出てから、彼女は一度も風呂に入っていなかった。逃亡防止の為だ。髪は乱れ、服は薄汚れ、肌は汗と皮脂がこびりついていた。
影はため息をつき、リリアーナの身支度は自分の女の部下に任せた。監視も兼ねているし、王に会う以上、それなりの恰好は必要だ。
「これ、経費で全部落ちるんだろうな……」
ぼやく影を横目に、リリアーナは浴室の前で言った。
「身体は、自分で洗います」
人に洗われるなど恥ずかしくて無理だった。
女の部下は監視のため外で待ち、リリアーナはひとりで湯に身を沈めた。
湯の温かさに少し緊張がほぐれるかと思えば、逆だった。――とうとう、国王に会う。
そう思うほど、心臓は早鐘を打った。
さらに、用意された服は見ただけで高価だとわかる品だった。靴も、北では履いたことのないような見事な作り。
(汚したらどうしよう……)
緊張の上に、別の恐怖まで積み重なっていく。
やがて身支度が整い、影とその部下に挟まれるようにして歩かされ、リリアーナはついに、国王の待つ扉の前へと連れてこられた。
その瞬間が、とうとう訪れたのだ。
影は扉の前で立ち止まり、リリアーナの両手に掛けられた手錠の鍵を外した。着替えの時以外、ずっとつけていた手錠…。金属が外れる小さな音に紛れるように、影は低く、彼女にだけ聞こえる声で囁く。
「いいか。下手な動きはするなよ。王に歯向かうような発言も許さん。……オルフェウスたちは、まだ俺の手の内にあるのだからな」
脅しの気配を含んだ声音。リリアーナは久しぶりに自由になった両手を握りしめた。
だが、影の言葉には一切反応しなかった。
ただ、まっすぐに前だけを見つめ、開かれようとする扉を静かに待ち続けた。
……エドモンド様、もし、戻れなくなったらごめんなさい。オルフェウス様、マルグリット様、何があろうと必ず、自由にします。
リリアーナの決意は、既に固まっていた。




