影の提案
リリアーナとエドモンドが執務室へ入った瞬間、空気が凍りついた。部屋の中央には、既に拘束されたオルフェウスとマルグリットが座らされていた。
「ようやくお会いできましたね、リリアーナ殿」
影が、ゆっくりとした足取りで前に出る。黒い外套が床を滑るように揺れた。
「……これは、どういうことなのですか」
リリアーナは震える声で問い詰めた。
影は、あたかも愉快そうに口元を歪めた。
「以前、王の使者がリリアーナ殿に面会を求めました。しかし、ここにいる者たちは『リリアーナはいない』と言って断ったのですよ。だが――現実には、あなたはここにいる。間違いありませんよね?」
エドモンドが一歩踏み出そうとするが、兵士に押さえつけられたままだ。
「リリアーナは昨日戻ったんだ。それまでは本当にいなかった!」
「聞きましたよ、“精霊に捕らわれていた”と。……にわかには信じ難い話ですね」
影は淡々と言い放つ。
「私は事実に基づいて行動しています。あなた方の言い訳には興味がありません」
リリアーナの胸が締め付けられる。
「……何が、望みなのですか」
影はその言葉に満足したように、ゆっくりとリリアーナを見据えた。
「リリアーナ殿」
影の声は、丁寧でありながら底知れぬ冷たさを帯びていた。
「これから私と共に王都へ行き、王に忠誠を誓っていただけませんか?」
リリアーナの瞳が揺れる。
「そうすれば、ここにいる三人――オルフェウス、マルグリット、エドモンドの疑いを“無かったこと”にして差し上げましょう。
私なら、何とでも繕えますよ。……ですが」
影はゆっくり首を傾ける。
「あなたが同行してくれない限り、彼らの疑いは晴れません」
突きつけられた事実。
それはもはや“提案”ではなく、“脅迫”だった。
リリアーナは唇を噛みしめ、拳を固く握りしめる。その震える指先が、彼女の胸の内を雄弁に物語っていた。
リリアーナは静かに息を吸い、影を真正面から見据えた。
「……わかりました。あなたと共に王都へ行けば良いのですね」
その声音には、決意とわずかな震えが同居していた。
「そうですとも。簡単なことでしょう?」
影は薄く笑い、勝利を確信したような態度で言う。
「その代わり――今すぐ、彼らを放してください」
リリアーナは一歩踏み出し、強い声で告げた。
しかし影は首を横に振った。
「今はできません。リリアーナ殿が王に忠誠を誓うのを確認してからなら……約束しましょう。」
リリアーナは拘束されたエドモンド、オルフェウス、マルグリットを見た。言葉はなくとも、その表情は雄弁に語っていた――「行くな」と。
彼らの想いを胸に抱きながら、リリアーナは唇を強く結んだ。
「……必ず、解放してくれますね?」
影は満足げに頷く。
「ええ。約束しますとも。」
リリアーナは影と数名の兵士に囲まれ、王都へ向かう馬車へと乗せられた。
身支度の時間すら与えられない。
「いつ、消えるかわかりませんからね」
影の冷たい一言が背中に刺さる。
拘束されたままのオルフェウス、エドモンド、マルグリットは、ただ無力にその後ろ姿を見送るしかなかった。
――その頃。
泉へ向かったセラフィーネと技術者たちは、厳しい寒気と濃密な魔力の気配に息を呑んでいた。
「泉に入ります」
セラフィーネはきっぱりと言った。
「いけません、危険です」
技術者が即座に反対する。
「心配なら命綱をつけて行くわ。……おそらく何もできないけれど、様子をこの目で確かめたいの。着替えも持ってきてる」
強い意志を見せる彼女に、技術者はついに折れた。
セラフィーネは冷たい泉へと潜った。
水は刃のように体温を奪い、深みへ行くほど圧力が強くなる。
――深い。
――重い。
やがて視界の底に、ラディンの姿が揺らめいた。
隣には、紫の髪の少女……ラニアだろう。
しかしその先へ進もうとした瞬間、見えない壁が彼女を拒んだ。身体はどうしてもそこから先に沈まない。息も続かない。
セラフィーネは苦悶の末、泉の水面へ浮上した。しばらく荒い呼吸を整えた後、震える声で言う。
「……ラディンと、ラニアらしき子がいたわ。でも、やっぱりそれ以上は行けなかった。」
技術者はすぐに火を焚き、冷え切ったセラフィーネを温めた。その間、魔力溜まりの調査も試みたが――
「……ここまで魔力が濃いと、もう居られません」
限界を悟る。
セラフィーネも同じだった。二人は後ろ髪を引かれつつ、城へ戻るしかない。
だが、戻ったときにはすでにリリアーナたちの姿はなく、影の兵たちによってオルフェウスたちは監禁されていた。
兵士は冷ややかに告げる。
「あなた方にもリリアーナ殿の秘匿の疑いがかけられています。城から出ないでください。」
「馬鹿らしいわ」
セラフィーネが吐き捨てる。
「下手な動きをすれば、リリアーナ殿の保証はできませんよ」
「……汚い手口ね」
「私は命令に従っているだけです」
その言葉で、セラフィーネと技術者までもが城の中に拘束される形となった。
そして――泉の底。
深い眠りの中で、ラニアはゆらゆらと意識を漂わせていた。
ぼんやりとした思考の中に、ひとつの思いが浮かぶ。
ラディン。
ぼくからリリーを奪った罪は、大きいよ。
冷たく、幼い声が心の奥で響く。
寂しかったから、捕まえたけど……
ぼくと一緒に眠るだけじゃ、…終わらせない。
その思念は、静かな水の底に沈みながら、どこか不穏に揺れていた。




