リリアーナ、都に行く
出立の日。
リリアーナは、これまで森に入り、調合をし、リュートを奏で、剣を習い……積み上げてきたすべての思いを胸に、荷をまとめた。
ほとんどの貯えは家の食料に消えた。だが、それでもわずかに残ったお金で、どうしても欲しいものを買った。
――薬をしまうための頑丈な革の鞄。
――大人が扱うような、重みのある小さな狩猟用のナイフ。
鞄には自分で調合した薬を詰め込んだ。
旅の道中で役立つように、そして努力の証を手放さないために。
リュートも欠かさず抱えた。音色は、彼女の心そのものだったから。
馬車に乗り込む前、リリアーナは一人ひとりに別れを告げた。
調剤師の老人は、深い皺の刻まれた顔で彼女を見つめ、短くつぶやいた。
「……お前の成長を、もっと見ていたかったのだけどね」
その声に胸が締めつけられる。老人に、彼女は小さな布袋を渡した。
中には、彼女が採取した中で最も珍しい薬草が大事に仕舞われていた。
弾き語りの放浪詩人は、いつもの柔らかな笑みを浮かべながらも目だけは真剣だった。
「練習は続けなさい。都に行ったからといって、言い訳はないから」
その言葉にリリアーナは深く頷き、喉に優しい薬草を調合した薬を彼女に手渡した。
そして――少年。
剣を教わった友であり、いつも森で一緒に走り回った存在。
彼は不器用に目を逸らしながら、短く告げた。
「……頑張れよ」
ほんの一言なのに、寂しさと悔しさが滲んでいた。
リリアーナは、彼の手に自分で作った怪我止めの薬を握らせた。
「ありがとう。元気でね…」
何かが喉に詰まって言葉が続かなかった。
ゴトゴトと揺れる荷馬車。
見慣れた森や町が、ゆっくりと遠ざかっていく。
窓から差し込む光の中で、リリアーナは鞄を抱きしめた。
中には薬、ナイフ、そしてリュート。
これまでの自分と、これからの自分を繋ぐ、大切なすべて。
馬車に揺られて一週間。
リリアーナの目の前に広がったのは、これまでに見たことのない景色だった。
都は活気に満ちていた。
行き交う人の数は、故郷の町の十倍、いやそれ以上。商人たちが声を張り上げ、露店では香辛料や布が山のように並び、道端では大道芸人が人を集めていた。馬車の車輪の音、呼び込みの声、笑い声に混じって、遠くの鐘楼の音までが響いてくる。
――喧騒。
リリアーナは圧倒され、息を呑んだ。
けれど、馬車が石畳の大通りを抜け、公爵邸の正門に近づくにつれ、ざわめきは遠ざかっていく。
高い石塀に囲まれた邸宅。鉄の門の向こうには手入れの行き届いた庭園と、白い石造りの館が広がっていた。
まるで、別の世界に入ってしまったようだった。
門をくぐると、玄関前にはすでに出迎えの人々が並んでいた。
――公爵家の家長は、三十歳ほどの落ち着いた青年だった。黒髪に鋭い瞳を持ち、威厳に満ちている。
その隣には、まだ二十代後半ながら堂々とした気品を漂わせる婦人。やわらかい栗色の髪を結い上げ、笑みは優しげであった。
そして、屋敷を取り仕切る家令と、女中頭である婦長。
リリアーナは馬車から降り、深く礼をした。
「――本日よりお世話になります、男爵家の六女、リリアーナ・フォン、にございます」
家長は厳しい目で一瞬彼女を見た後、短くうなずいた。
「ようこそ。我が家に入る以上、身分を問わず規律を守ってもらう」
婦人は柔らかく笑みを添える。
「まだ幼いのに遠方からよく来てくださいましたね。無理のないように、少しずつ慣れていってくださいな」
その言葉に、緊張で固くなっていたリリアーナの肩が少しだけ緩んだ。
続いて、婦長が前に進み出た。
年配の女性で、きびきびとした口調に隙がない。
「では、リリアーナ様。これから私が屋敷のことをお教えいたします。まずは館内の案内をいたしましょう」
広い廊下、きらびやかな絵画、磨き抜かれた床。リリアーナは思わず目を見張ったが、婦長の言葉に気を引き締めた。
「初めから多くを任せることはいたしません。まずは掃除から覚えていただきます」
「はい!」
声を張り、リリアーナは深く頭を下げた。
こうして、公爵家での見習いとしての第一歩――掃除から始まる日々が幕を開けた。




