湯気の向こうに、知らない空があった
「さあて、今日もラーメン炊くぞおおおおおっ!」
東京・下町。
駅から徒歩7分、住宅街の角にあるラーメン屋『麺処まこと』の朝は、テンションと鶏ガラから始まる。
「寸胴の火、ヨシ。ネギの青いところ、ヨシ。煮干しの旨味、ヨシ。オレの魂、全開ッ!」
そう叫ぶのは、本作の主人公・片桐マコト、38歳、独身、ラーメン狂。
元サラリーマン、現・町中華ラーメン店主、年間1000杯以上を食べ歩くガチの“麺の亡者”である。
今日も厨房は戦場だ。
塩、醤油、味噌、時折二郎風――
どんな注文もこなすマコトの手は止まらない。
湯切りの腕前は流派東方不敗。チャーシューの厚さは人情の厚み。
「はい、おまちどおさま。鶏塩ラーメン、スープは黄金、味は浄土」
「はっ……! これ、やばいっす。舌が、生まれ変わりました……」
「スープが……染み渡る……! これが……魂のコンソメか……!」
――ただの塩ラーメンです。
だが、マコトにとっては一杯一杯が真剣勝負。
「ラーメンは、“一期一麺”だからねぇ……」
などとイケボでつぶやいているが、こちとら汗だくだ。
その日の営業が終わる頃、マコトはふぅっとため息をつきながら、店内を見回した。
「よく食ったな、今日も……オレじゃなくて、お客さんが、な」
寸胴のスープもほぼ空。製麺機の音がまだ耳に残っている。
「今日は……俺がラーメンを作ったんじゃない。“ラーメンに俺が作らされた”って感じだったな……」
どっぷりとラーメン愛に浸りつつ、ふと思いつく。
「……そういや、王将の天津飯、しばらく食べてないな。たまには“他人の作ったメシ”ってやつを味わっておこう」
のれんを下ろし、仕込み道具を片付けて、マコトは夜風にあたりながら歩き出す。
目指すは、ラーメンの次に信頼できる味――『餃子の王将』!
店の前に立ち、懐かしいあの文字を見上げた。
「はぁ……こののれん、たまんないな。こう、心がじゅわっと湯気になる」
そう言いながら、のれんをくぐった――
その瞬間、空間がねじれた。
足元がぐにゃりと歪み、鼻先に漂っていた“あの餃子臭”が、やけに澄んだ出汁の香りへと変わる。
「……あれ?」
目の前に広がっていたのは、空。
しかも、日本の空じゃない。CGかってほどに青くて、雲が手描き風。
地面は草。風は清らか。周囲に建物など、一切なし。
「まさか……のれんくぐったら、異世界に……?」
しかし、マコトは取り乱さない。
背中には寸胴鍋、肩にラーメン丼。気づけば製麺機までお供してる。
「なるほど……これは、そういう展開か」
そして次の瞬間。
目の前に、湯気でできたような人物――いや、“神”が現れた。
ふわふわと浮かび、出汁の香りをまといながら、やけに物腰が柔らかい。
「ようこそ、片桐マコト様。“神界の厨房”へ」
「まさか……ラーメンの神様?」
「そう、お察しの通り。あなたは年間1000杯のラーメンを食し、創り、鍋を振るい続けた者。
ラーメンへの理解と情熱において、この世界でもっとも優れた“器の男”です」
「……褒められたの、久しぶりだな」
マコトが照れながら笑うと、ラーメン神は静かに手を振った。
「あなたに、お願いがあります。今からお見せします」
その言葉と共に、空間に無数の映像が浮かび上がった――
その映像は、マコトの胸をひやりと締めつけた。
無表情で灰色の粥をすする子どもたち。
まるで味覚が存在しないかのような、空っぽの目。
焦げたパン、炭のような肉、塩辛すぎる水。
どの食卓にも、笑顔がなかった。
「……これは……」
「この世界には、調理の文化はあります。素材も、火も、刃も。
しかし――“ラーメン”という発想が、一度も生まれなかった」
「つまり、“スープに愛を込めて麺を泳がせる”という哲学がない、と……!」
ラーメン神は頷いた。
「あなたの知識と味覚で、あらゆるラーメン文化を根付かせてほしいのです。
塩、味噌、醤油、豚骨、背脂、爆盛り、つけ麺、まぜそば、創作系――全てを」
「それ、けっこうな量ありますけど……?」
「全系統を制覇するまで――あなたは、帰ることができません」
一瞬、静寂。
だが次の瞬間、マコトはふっと笑った。
「それ、つまり……“帰らせたくないほど旨いラーメンを、俺に作れ”ってことですよね?」
「さすが、理解が早い」
「面白いじゃないですか……よし、やってやりましょう。世界の味覚、炊き直してやりますよ」
そう言ってマコトは拳を握った。
ラーメン神は満足そうにうなずき、スキルを授ける。
《スキル:麺識眼》
――視た素材の特性・組み合わせ・調理法・仕上がりを“味覚予知”できる至高のラーメン感覚。
「武器は寸胴鍋、製麺機、丼、調味料箱。――そして、貴方の舌です」
「よっしゃあ、異世界でも湯気を立ててやるぜ!」
そして光に包まれ、次にマコトが立っていたのは――森の中の、どこか懐かしくも見知らぬ場所だった。
草の香り。水の音。どこかで小さな子どもの笑い声。
寸胴を背負い、丼を片手に。
38歳独身ラーメンオタク、今ここに異世界へ“開店”――!