暑い時期は冷たいそうめんが食べたい転生令嬢
タイトルそのままのお話です。
イヴェットはいわゆる転生を経験した令嬢だった。ここではないどこかの誰かだった頃の記憶が自分の中にあるのだ。それを生まれた時から自覚していた。細かいことは思い出せないが、国民の大半が食べることに困らない生活をしていて、飲用に適した水は豊富にあり、各地の美食が集まると言われる場所に住んでいた。記憶にある世界に魔術はなかったが、かわりに科学技術というものが進んでいて、平民の一般家庭であっても、真夏の暑い時期に氷を作ることができる装置が普通に置いてあるような環境だった。
そういう、なんだかよくわからない知識がまとまりない感じであるのだが、乳幼児にはそれを的確に伝える術がない。そもそも積極的に伝えたいと思うほどはっきりした内容でもなかった。あまり気にすることなく過ごすうちに記憶はどんどん薄れていったので、いつしかそんな記憶があること自体も気にしなくなってゆき、イヴェットはこの国の貴族家の娘としてはごく普通の五歳児になっていた。
その年の首都の夏はことのほか暑かった。人が死ぬような暑さではなかったけれど、夜も涼しくなり切らない日がたまにあるのだ。それでずいぶん寝苦しい思いをしたので、まだ幼児の域を出ないイヴェットはちょっと夏バテ気味だった。
広い庭の木陰の東屋で、大人たちに扇がれながらくったりしていた彼女には、氷の入った果実風味の水が供されていた。この国において夏場の氷はそれなりに貴重で、山のきれいな水を冬の間に凍らせて、それを保存しておいたものが一般的だ。氷が溶けないように設計された施設はいるし、輸送にも気を使うしで、ある程度贅沢ができる貴族家や大きな商家、あとは仕事で火傷を負うことがある騎士団あたりでないと出てこない。イヴェットが生まれたグディエ家はこの国の貴族で、しかもかなり裕福な部類に入る。領地は国で一番の穀倉地帯だし、家の事業として流通業もやっていて資金は潤沢にあった。そのおかげで、こうやって夏に冷たいものを飲むことができている。
そんな貴重な氷が木漏れ日を弾くさまを見ていたイヴェットは、唐突に思ってしまったのだ。
そうめんが食べたい、と。
こんな夏の日には、冷やしたスイカと冷えた麦茶、そしてひんやりとしたそうめんをつるっとやるのがふさわしい。
裕福なこの家の末っ子お嬢ちゃんであるイヴェットの生活において、スイカも麦茶もそうめんも出てきたことなど一度もないし、なんなら聞いたこともない。でもふと思ってしまったのだ。夏と言えばそれなんだ。
こういう、出所がよくわからない記憶の端切れが頭に浮かぶことはたまにある。それを逐一大人に説明する必要を特に感じていないイヴェットは、とりあえずスイカや麦茶やそうめんが何なのかを思い出すことにした。なにしろ暑くて食欲があんまりない。よくわからないけどこれならさらっと食べられるような気がするので。
スイカは、甘くて水っぽい瓜の実だ。生まれてこのかた近いものを見たことはないけれど、ちょっと青臭い感じの瓜は夏の食事にそこそこ出てくるものなので、探せば世界のどこかにあるかもしれない。
麦茶は確か、麦の実を煎って煮出したお茶だったように思う。お茶にする麦は小麦ではなくて大麦だったような気がする。グディエ家でよく出る主食は小麦の加工品だし、料理には大麦らしきものが使われていることがあるので、家の厨房にお願いすればあっさり作ってくれるのではないか。
問題はそうめんだ。イヴェットの頭の中に残っている記憶をがんばって攫った結果、ぼんやりと思い出せた製造方法は、小麦粉と塩を混ぜて練って伸ばした生地に油を塗って休ませて、それを細く伸ばして乾かす、というようなものだった。グディエ家の食卓に細長い麺が出てきた覚えはないので、少なくとも身近には存在しない可能性がある。
それと、そうめんには麺つゆが欲しい。醤油という、大豆を発酵させて作った液体調味料に、大型の海水魚を加工したものや、寒い海の大きな海藻を干したものからとった出汁をあわせる必要がある。厨房に問い合わせれば情報があるかもしれないが、今のところの知っている範囲の食卓の様子を鑑みるに、文化として全く存在しないものの可能性すらある。少なくとも今日すぐにご用意される可能性は低いように思えた。
暑い夏の日、木陰で食べる至福のつるつる。もしかしたら一生かけても味わえないのかもしれない。
そう思ってしまったら、とてもそうめんが食べたくなった。簡単には手に入らないと認識してしまったせいで、かえって執着してしまうアレである。イヴェットはごく普通の五歳児だが、幸いにして家は裕福なようだし、趣味としてそうめんを追求するのはアリかもしれない。
イヴェット・グディエは齢五歳にして、何としてもそうめんを手に入れることを決意した。
◇
そうめんを追求したいと思った以外は平凡な五歳児だったイヴェットは、そのまま平凡な十五歳の令嬢になった。
ちなみに、あの日望んだ三点セットのうち、麦茶はあっさり手に入っていた。その場にいた大人たちに「冷やした麦のお茶を飲みたいです」「麦の実を煎って煮出してお茶にするの」と伝えたところ、翌々日にはそれっぽいものが供された。イヴェットの記憶にあるものと全く同じものはグディエ家の感知する範囲には存在しなかったようだが、穀物というか豆を使ったお茶はあり、雰囲気はわかるとなったのだそうだ。それは家畜の飼料にする小さな豆をさやごとお茶にするというもので、家の領地の一部地域の平民の間で飲まれていた。そしてそれを屋敷の使用人の一人が知っていた。ただ、人間が食事として食べられる穀物をお茶にする発想はなかったようだ。
今世においてイヴェットが最初に口にした麦茶は「ちょっと薄いかな?」ぐらいの印象だったが、それから改良が重ねられ、十年たった現在ではグディエ家全体で愛飲される飲み物になった。麦茶といえば夏に冷やして飲むもの、と考えていたのだが、家族たちは先入観なく温かいものも楽しんでいて、目から鱗が落ちる気持ちになったりもした。冬に温かいまま飲む麦茶もなかなか乙なものである。
今年の夏もほどほどに暑い。庭の一角、風通しの良い木陰にある東屋で、イヴェットは氷を浮かべた麦茶を飲んでいた。丸いテーブルを挟んだ向かいには、ここ何年かですっかり屋敷内でお馴染みの顔になった少年が座っていて、やっぱり麦茶をちびちび飲んでいる。イヴェットの上の兄の友人の弟で、レルネ家のマリウスくんである。
十年前から導入された麦茶は、イヴェット以外の家族たちよりも先に、家の騎士たちが好んで飲み始めたという経緯がある。厨房で試作されたものが使用人たちの間で試飲され、それが騎士たちのほうにも回った形だ。結果、夏の暑い時期の訓練の合間に飲むものとして、氷で冷やした麦茶がとても良いと評価されるのは早かった。当時、剣術を本格的にはじめたところだった上の兄も、家の騎士たちに混ざって訓練をしていたので、そのまま自然に麦茶に馴染んでいき、それから家族皆が飲むようになった。
そしてちょうどその頃、レルネ家のお兄さんがグディエ家に通うようになった。招いていた兄の剣術の先生の関係で、年齢や実力が近い兄弟弟子がいたほうがいいのではないかということになったのだ。そのレルネ家のお兄さんについてマリウスくんがやって来たのが、今から六年ほど前のことである。麦茶はその頃既に家の垣根を越えて騎士たちの間で評判になっていたようで、その時初対面だったマリウスくんも麦茶を知っているようだった。
イヴェットの下の兄と一緒に剣術を習うために来たはずのマリウスくんは、やがて麦茶の改良をもくろむイヴェットと一緒に行動するようになり、今ではすっかりイヴェットの幼馴染です、という顔をして訪ねて来るだけの人になっている。それで何をしているのかというと、麦茶の改良のために調べものをしたり、厨房の一角を借りて実験したり、スイカを求めて調べものをしたり、入手したスイカの苗を育てるために試行錯誤したり、そういうことを一緒になってやってくれているのだ。
そう、スイカは存在していた。スイカが入手されたのは五年前で、これには調べものを一緒にやってくれていたマリウスくんの功績が大きい。
マリウスくんが来るまで、「甘くて水っぽい瓜の実」を探していたイヴェットの元に届いていたものは、甘いが水気がちょっと足りない瓜の実だった。彼女の中にある記憶の断片と照合する限り、これはスイカではなくメロンと呼ばれるものである。メロンはメロンでおいしいのだが、暑い時にそれだけで食べると結構喉が渇くのだ。もっとあっさりしていて、水代わりにもできるような瓜を探している、と聞いたマリウスくんは、そんなに水を蓄えるような実であるのなら、乾燥した地域にあるのではないかと指摘した。その推測を元に、砂漠の近くの地域の情報を重点的に探した結果、スイカと呼んで差し支えない瓜の実が見つかったのだ。家の輸送網を使って首都に送られて、貴族の食卓らしく上品な一口大に切って提供されたスイカは、ちょっと薄めで青くさかったがちゃんとスイカの味がした。
乾燥した地域というヒントを貰っていなければ、スイカの入手は何年も後になった可能性が高い。イヴェットから惜しみない賞賛を送られたマリウスくんは得意気な表情を隠しきれておらず、思えば彼はこの時から、さらに熱心にイヴェットの趣味に付き合ってくれるようになった気がする。
「お嬢様、スイカをお持ちしました」
「ありがとう」
イヴェット付きの侍女がスイカの乗った皿を二つ、机の上に配膳してくれた。今日のスイカはこの屋敷の庭の一角で試行錯誤しながら育てているものである。大きな木の器の中に砕いた氷を敷き詰め、その上に置かれた薄い銀の皿の上に、丁寧にカットされたスイカが美しく盛り付けられている。食べやすいし上品でとてもよいのだが、それはそれとして、大きく串切りにして塩を振ってかぶりつく食べ方にも憧れのようなものがある。麦茶を愛飲する家の騎士たちはそうやって豪快に食べているそうで、家の兄たちやレルネ家の兄弟も、訓練の際にはそうしているらしい。貴族の令嬢には到底許されない食べ方だが、イヴェットがあまりに羨ましがるので、そのうち隙を見て機会を作るとマリウスくんが約束してくれた。
「これはここの菜園のスイカかな。なかなかおいしくできているね」
「今が一番おいしい時期なんじゃないかしら。採れはじめだとちょっと薄味だし、もっと後だとえぐみが混ざるような気がするのよね」
「ああ、なんかちょっと舌に障るような後味が残ることあるよね。わかる」
スイカも騎士たちの間で瞬く間に流行となった挙句、ここ二年程ですっかり定着した。騎士の訓練では体を激しく動かすし、場合によっては甲冑を着込んでの戦闘訓練だって行われる。彼らはそれが仕事だが、暑い時期にはさすがに堪えることが多いらしい。そんな中に冷えた麦茶と冷やしたスイカが放り込まれたのだ、人気にならないはずがない。
特に麦茶は、元々夏場も氷を入手しやすい環境だった騎士たちの間で爆発的に広まった結果、十年経った今では国中で夏場の訓練場での定番というぐらいには飲用されるようになった。素材が入手しやすく製法も難しいことがないという理由もあって、今では国内のあちこちで作られ飲まれている。ただ、夏にひんやりおいしく飲むためには氷が必要なので、流通事業を持つグディエ家では氷の製造と長期保管、安定流通に努めた結果、なかなかよい収入になっているらしい。
そういう麦茶の前例があったため、五年前に探し出されたスイカは早々に家の騎士たちにも振る舞われ、好評であると確認された途端に家の事業に乗せられた。産地である砂漠の近くの国からの輸入はもとより、グディエ家の領地でも栽培が試みられた。それらはわずか数年ですでに軌道に乗りつつある。お陰で両親はずっと上機嫌だし、よくわからない三点セットを追及する娘は好きにさせて貰えるしで、いいことしかない。これもすべて協力してくれているマリウスくんのお陰である。
「あとは『そうめん』だけなんとかなれば揃うのかな」
「そうめんはねえ、やっぱり難しいのよね」
でもすごく食べたい。つるっとやりたい。暑いので。
気持ち小声で続けると、マリウスくんが楽しそうににこにこと笑う。どうやら彼は、まだ見ぬそうめんを追い求めるイヴェットが好きらしい。
マリウスくんはイヴェットが麦茶・スイカ・そうめんの三点セットを求める理由を知っている。これから出入りするようになると紹介されて、そのままなぜか麦茶の改良に付き合ってくれるようになった六年前に、既に前世の記憶っぽいものが存在することは説明していた。
前世の話は家族にもしたことがなく、知っているのはマリウスくんだけだ。追及を始めたの頃のイヴェットがまだ幼児だったせいか、末娘の奇行を家族が生暖かく見守るという構図になっていたので、それまで発想の出所を突っ込んで問われる機会がなかったのだ。歳が近いマリウスくんはその点容赦がなく、「なぜそう思うのか」「その情報はどこで得たのか」などをガンガン追求してきた。一緒になって本腰を入れて調査をするなら、確かに動機や情報の出所は重要になる。想定外の本気っぷりに驚いたイヴェットはたどたどしく説明した。
よくわからない、細切れの記憶があること。それはおそらく、イヴェットが生まれる前、別の人間だった時の記憶であると思われること。その人間が暮らしていたのは、イヴェットたちが暮らすこの国ではなさそうなこと。それどころか、全然別の世界である可能性があること。
ついでに暑い時期のそうめんの良さも力説した。冷やした細い麺を、冷やした塩気と旨味のある汁につける、のどごしの良い食べ物なのだ。暑気あたりで食欲が無くなっても食べやすいし、ちゃんとした食事の前のおやつとしても最適なのだと。いろいろな薬味で味を変えたりもできるし、併せて野菜や魚を揚げたものなんかを添えれば一食に足る品となる。
だんだん熱が入ってしまったイヴェットの演説を、マリウスくんはところどころで合いの手をいれながら、面白そうに、しかし真剣に聞いていた。変な記憶がある変な子だとは言われなかった。
「それ、おれも食べてみたい」
そう言われたのが、とても嬉しかったことを覚えている。
麦茶・スイカと来たので後はそうめんがあれば完璧なのだが、実はそれっぽい麺と醤油に近い調味料については既に目星がついている。スイカが砂漠の近くにあったことを鑑みて、気象条件や産物から調査対象の地域を絞り込んでいったのだ。イヴェットががんばってひねり出した記憶によれば、そうめんの原型の小麦麺は古い時代に大きな大陸にある国から伝来したものだし、豆の発酵調味料は暑い島国にもあったはずだ。元々イヴェットの中にある断片的な知識は曖昧で淡いのだが、そうめんのためなら思い出そうとがんばれる。いろんなことをぶつぶつ言うイヴェットに、マリウスくんがつきあって合いの手を入れてくれたのでとても助かった。記憶は数珠繋ぎのように引っ張り出されることがよくあるので、会話が契機になることがとても多い。ついでにそのまま文献も一緒に調べていって、そうめんに近そうな麺の製法を知ることができたし、醤油に近い調味料そのものも入手することができた。
醤油があれば甘辛の照り焼き味も再現することが可能だ。照り焼きは確か、前世で和食が世界的大ブームになる前から各地で人気があった味付けだったように思う。そう考えて、家の料理人たちに鳥のグリルの味付けに醤油と甘味の組み合わせを提案したところ、瞬く間に大人気となった。父母や兄たちが気に入ったのはもとより、家の騎士たちにも、汗をかいた後に食べやすい味だと好評である。当然のように家の事業に乗せられることが決定したので、醤油については今後の安定供給が約束されている。
他に必要なものと言えばお出汁の元になるものだが、これは鰹節や昆布に限る必要がないということをイヴェットは知っている。いや、鰹節があるに越したことはないのだが、干し椎茸からも出汁は取れるという記憶がある。この国は結構キノコを食べる文化があるので、探せば近い用途で使えるものがある可能性がある。それに加えて、干した海産物は麺の製法があった国に盛んに作っている場所があるようなので、いろいろ試せばしっくりくるものが出てきそうな気がしている。干物は長期輸送に向いているし、他にも応用が利くのであれば、家の事業に乗せられる可能性が高い。
そういう感じで、そのものは全て何とかなりそうなところまで来ているのだが、そうめんを楽しむにあたっての最大の問題は別にあった。
「水が一番の難関になるのかな」
「これはさすがに、私の趣味でどうにかしていいレベルを超えると思うの」
「というか、本来なら国家事業になってもいい話だよ」
この国の水資源の事情は良いわけではない。細かいことを気にせずに、冷たいそうめんを安心して楽しむことができるほどの環境ではないのだ。
塩の入った麺はたっぷりのお湯で茹でるので、パンなどの生地を焼くものに比べてたくさんの水がいる。その上さらに、そうめんでは「茹でた麺を冷水で締める」という工程が必要になる。この、最後にそうめんを洗うための、飲用に適した大量の冷水というのが難しいのだが、冷たい麺をのどごしよくつるつる食べるのが目標なので、そこはどうしても避けられない。
雨の量がそこまで多くないのもあって、この国を流れる川の水質はあまり良いとは言えず、飲用としてはほとんど使われていない。炊事や飲用に使う水は、山間部では湧水や小川から取っているが、それ以外の大半で井戸水を使っている。井戸から得られる地下水はどこであっても比較的豊富で、水量や水質の変動はあまりないという点では恵まれているのだが、その井戸水の質自体がちょっと微妙なことが多い。地中の岩盤の成分が溶けだしているのか、濁りがあることもよくある。汲みたてをそのまま飲むにはあまり向いていないと言われており、煮沸して湯冷ましにするのが基本だ。
「そうめんが思った食感にならないのよね。それだけなら麺の作り方のせいかなと思うんだけど、お出汁もうまくとれないから、水の質自体が違うと思うのよ」
「あ、そういう問題もあるの?」
「あるのよ。もちろん、たくさんの冷水が用意しにくいっていうのもあるわ。井戸水をそのまま使えればいいのだけれど、きれいな水でもそのまま飲むとお腹を壊すことがあるっていうから、さすがにちょっとね」
おそらくこの国の地下水は「硬水」というものなのだろう。前世で見た海外のミネラルウォーターのパッケージに、いろいろ書いてあったような覚えがある。
「君が前に言っていたの、『上水道』と『下水道』だっけ。水から病気を貰う可能性は減って欲しいけど、どう考えても簡単にできるものじゃないよね」
「そんなのそれこそ領主や国家の公共事業よ。そういうのは私の範疇外だし、水の質は水の汚れとはまた別の話なのよね。使う分だけ浄水を作れる装置とか、水の性質を変えられる装置とか、水を冷やすことができる装置があればいいんだけど」
「うちの国内だと難しそうだね。国外ならある……かなあ」
「魔術を使った装置とか、あるところにはあるって聞くから、もしかしたら何とかなるかもしれないとは思うわ。あんまり大きくないものがあると助かるのだけど」
あってもお高いんだろうなあ、と思いながら溜息が出てしまった。あと少しなのに、その少しの間にあるハードルが妙に高い。
この国のある大陸の中には、魔術が盛んな国もある。魔術自体、使う素質がある人はさほど多くはない上に、その形質は両親から子供に遺伝することはないとわかっている。強力な魔術師の子に素質がないことはざらにあり、そんな場合に親の技術を次世代に引継ぐためには、素質を持った子を他から探す必要があるのだ。そういう事情もあってか、この国ではあまり研究が行われていない。そのうえ、三十年程前まで国際情勢が落ち着かない時期が数百年続いたせいで、魔術と言えば結界、あとは戦闘職が使うもの、という印象がとても強いのである。
ただ、大陸の中央にある大国には専門の教育機関があるといい、何年か前に研究機関もできて軍事以外にも技術を転用するようになったと聞くので、近い機能の何某かはある可能性がある。飲み水の水質を維持することは、どこの国でもある程度重視されているはずだ。
どうしてもないなら自力で作ればいいのかもしれないが、イヴェットは魔術が使えない。ちゃんとした検査も受けたことがないのでわからないが、たぶん素質自体がない気がしている。イヴェットにできることは、家のツテと資金を可能な限りフル活用して、既存のものを探したり、良さそうな技術を探して開発をお願いしたりすることだけである。
「そうそう、細い麺と言えばね。この前入手したパスタっていう食べ物があったでしょう。あれの、麺状でかなり細いものが手に入ったの。パスタならここの井戸水でもいい感じに茹でられるみたいだから、こんどランチの時間に来て貰えればご馳走するわ」
前世ではカペッリーニと呼ばれていたパスタにあたるものだと思う。買うための資金も伝手も料理する人も、全て家の力で用意されたものである。イヴェットが寄与するところはないに等しいのだが、家長である父からは予算と良識の範囲内で好きにしなさいと言われているので、こんな言い方でも間違ってはいないはずだ。
「へえ、それは楽しみだな。料理の方法はイヴェットが考えたの?」
「まだ調べた結果をそのまま反映しただけなの。だから、できれば意見が欲しいのだけど……」
一歳年上のマリウスくんは、もう成人として扱われる年齢で、それなりに忙しいはずだということをイヴェットだって理解している。レルネ家を継ぐのはお兄さんだけど、得意だからと経営や流通なんかの勉強をしていて、実務の研修も入り始めているという。そんなところに趣味を追及しているだけのイヴェットの手伝いをお願いしてもいいものか、という葛藤がないわけではない。それでも彼なら頷いてくれるような気がしているのだが。
「それはもちろん! また一緒に厨房にお邪魔しても大丈夫かな」
「よかった、歓迎するわ」
予想通りの快諾を貰えた。年齢的にそろそろこういう気安い友人関係は終わらせるべきだとわかってはいるが、できればマリウスくんにはこれからも協力してもらいたいとも思っている。まだ本命である冷たいそうめんに到達していないし、何より一緒に考えるのがとても楽しいので。
とりあえず、今シーズンは冷製パスタを追求して、爽やかにおいしく食べてもらおうとイヴェットは決意した。
◇
マリウスはレルネ家の次男である。この国は武を貴ぶ風潮が強く、その中でもレルネ家は武門として名が知られているぐらいなので、当主の子供たちはまず全員剣を習うという伝統がある。現当主の子供は三人いるが、第一子の長女が早々に剣より体術を選んだため、外部からちゃんとした剣術の指導者を招くのは第二子である長男からということになった。
前々から指導者の目星はつけていたのだが、タイミング悪く、打診する前に別の家に招かれて、そこの子供に教え始めているから、という理由で断られてしまった。その「別の家」がグディエ家だった。
グディエ家は、元々在野のどこにでもあるような商家だったのだが、三代ほど前の当主の時代に国軍の後方支援の功績により取り立てられ、その後農業や流通の分野で大きく成功を収めた家として知られている。成り立ちからして武術に拘りがある家ではないが、剣に強く興味を示した子供がおり、しかもそれなりに才能もありそうだということで、きっちり環境を整えたのだという。
両家の間には商取引があって当主同士も面識があり、両家の子供たちが過ごしている首都の屋敷もそう離れているわけではない。レルネ家の長男が、先方の長男と一緒にグディエ家で剣術を習うことになった背景にはそういう事情があった。両家の長男たちは気が合ったようで、指導者との相性も良かったのかきっちり腕を上げた。そんな前例ができたうえに、次男同士も年が近かったので、ちょうどいいからとマリウスもグディエ家に通うことになったのだ。
剣術の基礎は既に自家の教師から学んでいたが、専門の師範について兄たちと一緒に学ぶのはことのほか楽しかった。教場はグディエ家の首都邸にある騎士たちの鍛錬場で、広さはさほどでもないが設備はレルネ家のものより整っている。聞けば、グディエ家は流通関係の事業を持っているために、道中の護衛として信用できる戦闘職の人員が絶対に必要なのだそうだ。領地のほうでも農地の害獣対策などがある関係上、戦闘職を自前で育てて直接雇用したほうが確実、という判断がされているのだという。騎士たちが効率よく鍛錬できるようにするための投資は手厚くされているようで、鍛錬場には汗を流すための浴場も併設されていた。
体を動かした後に水分補給が推奨されるのはレルネ家でも同じだが、ここでは自由に飲んでよい飲み物が複数提供されており、水・エール・蜂蜜とビネガーを入れた水・各種のお茶・季節によっては牛乳、と、種類もある上に氷も入れ放題だという。当時から騎士たちの間で人気があった麦茶も用意されており、濃い目に煮出したものにたくさんの氷を入れて飲まれていた。
麦茶自体は流行の早い段階でレルネ家でも取り入れられていた。ただ、これがグディエ家が発端となったムーブだったことを、マリウスはこの時はじめて知った。一番最初に麦茶がほしいと言い出したのはグディエ家の末娘で、マリウスより一歳年下の女の子だという。年齢が近いからと引き合わされた彼女は、一見すると年相応の、ごく普通の女の子だった。家の関係で近い年頃の貴族の令嬢と引き合わされる機会はこれまでもあったのだが、そういう令嬢たちと比べて、特段秀でたところも劣ったところも見当たらない。そんなイヴェットと名乗った女の子の様子が変わったのは麦茶の話題が出た時で、食いつくように味の感想を聞かれた。
「どうでした? 今のままだとちょっと苦みがありすぎるかなとおもうのですけど」
「氷をたくさんいれたし気にならなかったけど、今考えてみるとちょっと苦かったかも」
好きなだけ入れていいと言われた氷に印象をとられて、味のほうは正直あまり気にしていなかった。とはいえ身を乗り出し気味に聞いてくる年下の女の子を無碍にもできず、無理やり感想をひねり出す。イヴェットはそのまま俯いて、「大人には今のほうが好評なんだけど、やっぱり子供にはちょっと苦いわよね。万人受けをねらった調整ってできないものかしら」などとブツブツ言っている。その、あまりに真剣な様子を面白いと思ったマリウスは、うっかり「手伝うよ」と声を掛けてしまったのだ。そしてそのまま六年ほど経ってしまった。
彼女には前世の記憶なるものがあるだとか、夏には麦茶もだけどスイカが欲しいだとか、それよりもそうめんが欲しいだとか、そういう濃い話をいろいろと聞いてしまったこともあり、深みにはまるように調べものに邁進した六年だった。未知の食べ物探し自体も面白かったが、未知のイヴェットを知っていく行程がとても楽しかったのだ。そうこうしているうちにいつの間にか、剣術の授業よりもイヴェットのそうめん探しのほうに比重を置くようになっていたけれど、両親に咎められることはなかったし、兄もつっこんでは来なかった。
マリウス自身、剣術は好きだがそれを生業にしたいと思うほどではない。国内外の地理や文化や植生や産業についての知識を深めることも楽しいと思えたので、これはこれでよかったのだろう。武門であるレルネ家の当主には、それ相応の武術の腕が求められるが、それは兄のほうが適任である。次男で良かったと思いながら、両親とグディエ家の当主夫妻に話を通し、きっちり周囲を固めておいて、マリウスはイヴェットに求婚した。
なぜかものすごく驚いた顔をしたイヴェットが、とても面白くてかわいらしかった。
◇
――先般首都に開通せし上水道は順調に稼働
――導入地域の民は欣喜雀躍の如く
――国は国内各所に順次導入を決す
――研究の功あるイヴェット・グディエ夫人を男爵に叙すことが内定
――運用・普及に功あるグディエ子爵家が伯爵に陞ることが内定
◇
何としてもそうめんを手に入れることを決意した、あの夏の日から二十五年が過ぎ去って、イヴェットは三十歳になった。今年の夏も暑いので、夫や子供たちと一緒に避暑に来ている。
農地を抱えたグディエ家の領地の端には山地があって、その麓は避暑にはもってこいなのだ。ここは良質な天然氷を作って保管している場所であり、領地内の上水道の水源でもあるので、警備と管理はしっかり行われていて治安はとても良い。領主が滞在するための屋敷もあって、例年そこに十日ほどお邪魔している。グディエ家の今の当主は下の兄だが、家の流通事業はマリウスに任されているし、天然氷の流通と上水道関係はイヴェットの功績という扱いにされているため、好きに使っていいと言われている。イヴェット自身は功績と言われてもぴんとこないのだが、家の屋敷を使うことで避暑における心配事の九割は消えるので、毎年堂々と滞在している。
あの後、レルネ家のマリウスくんは家を出て、イヴェットの婿としてグディエ家に入った。流通事業はずいぶん大きくなったので、当主が領主をやりながら対応するより、分家を立ててそちらを責任者にしたほうがいいという話になったのだ。で、それにマリウスが選定された。
イヴェットはなにぶん平凡なので、そこら辺の能力はあまりない。事業のトップともなれば様々な決断をしなければならない立場だが、イヴェットにできることは調べものがせいぜいである。冷たいそうめんを追求しての調べものならたくさんしたし、国内や近隣国の視察や現地調査もいっぱいした。その結果、上水道や汚水の処理装置や冷凍装置を普及させることになったが、これらはあくまでそうめんの副産物だ。好き勝手するイヴェットを面白がったマリウスがフォローして、時々そこから商売のタネになるものが拾われて展開する感じで回っているのだが、それが結構なおおごとになってしまった。
とはいえ、そんなものは冷たいそうめんを楽しむことに比べれば些事である。
避暑地とはいえ、真夏の昼の日差しの下はさすがに暑い。そんな強い日差しを遮る木の根元に、イヴェットの一家が夏のランチタイムを楽しむためのテーブルセットが置かれている。椅子に座れば、青い空と美しい館、そして青々とした畑が見える最高の場所だ。
領主の館の庭園に、そっとスイカやトウモロコシの採れる畑を紛れ込ませたのはもちろんイヴェットである。キュウリやトマトも栽培したいが、領主の滞在時に賓客が来る可能性も普通にあるので、あんまり景観が畑になっちゃうのも問題があるだろうと思い自重している。ここ十年程で、ギリギリお叱りを受けないだろう範囲を見極めることがずいぶんと上手くなったと思う。
この屋敷に避暑に来ている間の昼食は、貴族らしい食卓はお休みにすると決めていた。庭の木陰に設えたテーブルには、三角に切られたスイカと、皮を剥いて塩ゆでしたトウモロコシが並んでいる。どちらも庭の畑で採られた新鮮なものだ。山の冷たい湧水で締められた白く輝くそうめんは、一口大にまとめられてざるの上にたくさん並んでいる。そして飲み物は氷を浮かべた冷たい麦茶である。これぞまさしく、正しい夏休みの光景!
そうめんに添えられる食器は、一般的なカトラリーではなく箸である。スープをつけるタイプの麺を食べるのには箸がいる、という信念に基づいて、一家の食卓にはイヴェットの一存により箸が導入されているので、三人の子供たちはかなり上手に箸が使える。マリウスも上手に使える。
マリウスは大抵の麺をフォークで器用に食べるのだが、グディエ家にラーメンが導入された際に特訓して、箸の使い方もマスターした。この家にはいろいろな麺が持ち込まれるのだが、ちょっと腰がある黄色がかった麺が入手されたので、記憶にあったラーメンというものをそれっぽく再現してみたのだ。彼はそれをとても気に入り、スープを跳ねさせることなくおいしく食べるために、箸を使うことを決意したと言っていた。そんな重い話だろうかとイヴェットは思ったが、自分もひとのことは言えない自覚があるので黙っておいた。
貴族の食卓の作法にラーメンは限りなく不向きなため、夫婦二人だけの食事の時や、仕事が詰まって家に持ち帰っている時の夜食ぐらいでしか出していない。それにもかかわらず、マリウスはとても品よく上手にラーメンを食べるのですごいと思う。
箸を使って食事する文化は国内にはないものだったが、箸自体は簡易に作れるものである。それに、箸を使う文化も国外にはちゃんと存在しており、探してみれば贈答品にも使えそうなぐらい美しい箸がたくさんあった。滑り止め機能があるものすらあったので、子供たちにはそちらを使わせている。
この世界は、前世の記憶で垣間見る世界とはずいぶんと違っているが、なんだかんだで探せば近いものが見つかるあたり、イヴェットのように前世の記憶を持つ人はたまにいるんだろうなという感がある。なんとなく覚えているアレが欲しいと再現する人が他にもいた、と言われるほうがしっくりくるし、何よりイヴェットは極めて凡人だ。世界でただ一人だけ、特別に前世の記憶がありますよ、という状態ではどう考えてもないだろうと断言できる。
そういう話をマリウスにすると、「イヴェットは特別だよ?」と素で返されるので、彼は夫としても優秀である。イヴェット自身はだいたい全部マリウスくんのお陰だと思っているので、特別なのは彼のほうなのだ。そう伝えると、夫は嬉しそうににこにこと笑う。幸せだなあと実感する瞬間である。
氷と共に盛られたそうめんを箸ですくい、出汁の効いた麺つゆに絡めてつるりと啜る。咀嚼して飲み込めば、ひんやりとした感覚がするっと喉を通り抜けるのがわかる。
首都の水の事情が改善して、硬水を軟化させる方法も見つけたので、イヴェットたちが住む首都の屋敷でもそうめんを食べることが可能になった。でも、家族で避暑に来た先の屋外で、おいしい湧き水を使って用意されたそうめんを食べるという、この楽しみは別格なのだ。
十歳の娘は三角のスイカを両手で持って、しゃくしゃくと三角の頂点を崩しながら食べている。
夫と六歳の息子たちは、一緒になってトウモロコシにかぶりついている。息子たちは双子なだけあり、トウモロコシの食べかたがそっくりで面白い。今出しているトウモロコシは塩ゆでだけど、夕食には醤油とみりんを塗って、甘しょっぱく焼いたものを出してもいいかもしれない。この庭のトウモロコシはそれなりに甘味があるが、どうせならもっと甘くなるよう品種改良を進めたい。
それにせっかく湧き水が使えるのだから、記憶にあった「流しそうめん」なるものもやってみたい。さすがにお行儀が悪すぎるけれど、子供たちが小さいうちの、お茶の時間の余興としてなら許されるんじゃないだろうか。この国に竹はないから、そのためだけに輸入するのもどうかと思うけれども、かわりに陶器の配管を工夫すればいける気がする。
いろんなことを妄想しつつ、そうめんをもう一口すする。まだまだ追求の余地はあるけれど、とりあえず思い描いた夏の光景を現実にすることができて、イヴェットはとても満足している。そうめんを求めただけなのに、優しい夫とかわいい子供たちにまで恵まれて、幸運だしずっと楽しいし幸せすぎてちょっと怖い。
帰ったら慈善事業もがんばろうと毎年誓うイヴェットだが、今年もきっちり決意を新たにした。そしてそのままそうめんの薬味について考えはじめた。
本人が全く意図しないところで国民の生活の質の向上に多大なる貢献をしたとして称えられ、やがてイヴェットの名前を冠した賞まで作られることになるのだが、それはもう少し先の話である。
お読みいただき、ありがとうございました。お勧めのそうめんの薬味は刻んだクルミです。
以下、おまけの人物紹介
グディエ家三兄弟
長男:イヴェットの五歳上。剣術馬鹿。そのまま家の騎士団のトップに就任。
次男:イヴェットの二歳上。兄より断然向いているという理由で当主を継いだ。
長女:イヴェット。貴族令嬢としての能力は極めて平凡。夏の三点セット追求以外の趣味は刺繍。
レルネ家三兄弟
長女:イヴェットの七歳上。近衛隊所属。体術を極めた結果、侍女の服で要人警護をする人になった。
長男:イヴェットの五歳上。剣術は好きだがちゃんと当主業もできるタイプ。
次男:マリウス。イヴェットの一歳上。趣味はイヴェット、それ以外の趣味は剣術。