『人と狐』4
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人は夢の中を泳いでいた。
情景が水泡の様に浮かんでくる。
『あんたの眼は便利だねぇ、夜闇も見通すなんて凄いじゃないか』
『はは、儂ら自慢の息子だからな。きっと特別すげぇんだ』
「でも、むらのみんなが…」
『女々しいのは顔だけにしなさいな。鋭い眼、あたいは好きだよ』
『そうだ、気にするこたぁねえ。…だがまあ、いつまでも細い腕は何とかして欲しいものだがな? お前は長男として、畑を継がなければならんのだしよぉ』
『こら、三つになったばかりの子があんたみたいな剛腕怪力になったら嫌だろう』
『まあ、今後に期待だな。我が息子よ』
『別に気負わなくていいから、ゆっくりね』
背に添えられた大きな手、頭を撫でてくれた柔らかい手、確かに覚えている。
あの頃の温かさが何処か懐かしくて、重ねようと伸ばした手は、濁った泡へと堕っこちた。
所々穴の空いた茅葺き屋根の下、轟々と降りしきる雷雨に怯え、丸く震えていた。
目の端、ちらりと見えたのは"おとう"と"おかあ"の大きな背…
力自慢で働き者だったおとうは幽然と佇んでいた。
優しく理性的だったおかあは悲愴に肩を落としていた。
視線の先は実りに実っていた筈の畑姿、その成れの果て、草の根すらも残らず洗われ、荒れ果てていた。
それからだ。
次の年、同じ光景を目にした。
必死の努力を嘲笑うかの如く、幾日も、幾日も、天は荒れた。
おとうも、おかあも、荒んだ。
働き者だったおとうは酒に溺れた。
優しかったおかあは暗く堕ちた。
怒鳴られた。
殴られた。
蹴られた。
水を掛けられた。
石を投げられた。
食べ物なんて無かった。
『あんたはほんとに役立たずだね… その眼のせいで、陰間としも売れやしない』
『売れもしねぇ、力もねぇ、器量が良いわけでもねぇ… 気味が悪いだけのてめぇには一体何があるんだ?』
辛かった。泣きたかった。震えていた。食べたかった。
でも、それでも、傍に居てくれるだけで良かった。
一緒に居られれば、それだけで良かった。好きだった。"おとう"と"おっかあ"しかいなかった。
良い子になろうとした。泣かなかった。我儘を言わなかった。大人しくしていた。従った。
こぽうこぽ浮かぶ情景の水泡は集い、ぷくりと膨れて。
『早く支度しろ』
『ほら、行くよ』
久しぶりに"おとう"、"おかあ"と三人で外へ出た。
森の中だ。初めて見る深い緑に目を見開いた。
逸る気持ちをひた隠し、奥へ奥へと、"おとう"と"おかあ"の背を追った。
そして…
ぱちん、と水泡は弾けて消える。
見渡す限りに暗い、昏い、冥い、水底に。
不安に駆られ、手を伸ばした。
掴んだのは、暖かさだった。
『──────わっちと共に来なんし』
あの言葉に拾われた。
頑張れば、優しく撫でてくれた。
不安にすれば、柔らかく抱いてくれた。
一緒に食を囲んでくれた。
隣で寄り添い寝てくれた。
いつも、いつも、傍にいてくれた。
寂しい時なんか一度も無かった。
「だから、僕は… 」
好きだった。
愛していた。
大切だった。
だから、報いたかった。
今度は、独りにならない為に。
大人として、立派になったと、認めて欲しかった。
…それだけだった。
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鵯の鳴き声が染み渡り、乾いた肌寒さが擽ったい。
何時もの朝ではあるのだけれど、独特の腥さが鼻腔を弄って不快だった。
瞼を薄ら開け、人は呆とする意識を静かに覚ます。
「ぅ… ぁ」
鉛の様に身体が重かった。ぎりり軋む節々へ鞭打ち、肘突き押し退け何とか上体を持ち上げた。
「… かぁ、さん?」
目覚めて直ぐ、人の口から漏れ出たのは不安を醸す呼び声だった。
隣、近く、何処にも温もりを感じない。
ぼやけた視界の何処にも見当たらない。
どろり呑まれるような香も、今や独特の腥さで塗り替えられている。
嫌な予感が脳裏を過ぎった。
「──母さん!! 」
意識は既に晴れていた。
跳ねるように飛び起きて、軋む戸を乱雑に開け放つ。
映る囲炉裏間にも、彼女の姿は見当たらなかった。
οO独語りOο
人間は自分とは違うものを育てる事に忌避感を覚える。少なくともそこには葛藤が生まれる筈である。
閑古鳥は鶯の巣に卵を産むと云う。鶯は閑古鳥の雛をなんの疑問も無く育てるらしい。人には無い感性があるのか、或いは何も考えていないのか。
妖は果たして─────
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