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『人と狐』2

 


 ───大飢饉の年から、三年と幾ばくかの時が経った。

 人々は多大な犠牲の下に災禍を一凌ぎ、芽吹いた希望(あす)を糧に(たくま)しく歩き出している。


 たかが三年、されど三年。

 それは待つことしか出来なかった人の幼子が、独りで狩りを熟す一人前にまで成長するに充分な歳月だった。




 鬱蒼(うっそう)とした緑は枯れ落ちて、天高く(のぼ)る陽の光が地を照らす。春夏秋と薄暗かった森は跡形もなく、ただ茶に染った景色だけが広がっている。


 乾いた冷たい風が吹く、寂寞(せきばく)とした冬の朝だった。

 

 猫目の"少年"──(じん)は其の童女(わらしめ)が如き可愛らしい顏を襤褸布纏(ぼろきれまと)いてひた隠し、枯れた落ち葉の中、()(つくば)るようにして息を潜めていた。

 (かたわ)らの土に埋めてある()びた刀の()を強く握りながら、鋭く見つめる視線の先には、六尺(1.8m)ばかりもある大猪がのしのし歩く姿がある。


 風下にて忍び、じっと時を待っていた。

 大猪は地面に鼻を近付けて、辺りの匂いを嗅ぎながら徐々に此方へと近付いてきている。

 長く使っているだろうその獣道を普段通りに歩くだけ。あと少し、あとほんの少しだけ進んでくれれば良い。


 あと十歩、あと九歩程、あと…


 心の中で順当に憶測を数える。

 一定間隔で、規則正しく、順当に…そう都合のいい程、自然は甘くはなかった。

 一定周期の足取りは突然に崩れる。

 何かの違和感を覚えているのか、はたまたただの気まぐれか、大猪はその巨体をぶるりと震わせ、辺りの様子を伺い始いながら立ち止まった。


 あと、三歩。


 ここまで平気だったのだ。これからも気付く筈がない、大丈夫。そう心の中で言い聞かせ、人はじっと感情を押し殺す。

 どんな些細な気配も悟らせてはいけない。

 緊張感からかじわり、と汗が伝う嫌な錯覚を覚える。


 とく、とく、とく…


 心の臓腑(ぞうふ)が音を刻む。

 人はその音にのみ意識を寄せる。

 考えてはいけない、考えてはいけない、と無機物的に唱えながら。


 とく、とく、とく、とく…


 左を嗅ぎ、右を嗅ぎ、それを何度か繰り返し。


 とく、とく、とく、とく、とく…


 軈て、面を上げた。


「ブフゥー……!!」


  鋭く鼻から息を吐き、一時の疑念は晴れたのか、大猪は行動を再開する。


 矢張り何かを警戒して進んでいるのが少し気に掛かるが、それでも今はゆっくりと着実に此方へ近付いている事が有難く思える。

 一先ずの安堵に胸を撫で下ろし、気を引き締めて視線を座らせた。


 そして……


 ─────よし。

 目前三十寸、そこは間合いの内だった。


 "(かげり)"と、人は(かす)かに呟く。

 大猪の視界に黒い靄が現れ、瞬刻、瞬き程の間、巨体が硬直した。

 間髪入れず纏っていた落ち葉の中から跳ねるように飛び出し、居合抜刀… 地面を(さや)の如くして、埋まった錆刀を勢い良く引き抜き、大猪の頭を目掛けて水平に払う。


 ─────轟遮(ゴシャァ)!!


 鉄塊(てっかい)が頭蓋を穿(うが)つ、鈍い轟音(ごうおん)が辺りに響き渡った。

 錆刀に切断能力は殆ど無いが、相応の大きさを誇る鈍器としての威力は間違い無い。


 六尺の巨体が地に転がる。


「ブモゥ……っ!?グゥゥウウ……!!?」


 大猪は身体が上手く動かない事に酷く混乱している様子だった。

 ぴくぴくと所々を痙攣させながらも、必死に藻掻く姿はまさに死にかけといった所である。


 瀕死の大猪を油断無く見下ろし、再度刀を構え直す。


 そして力を込めて袈裟懸(けさが)けに一太刀、容赦無く首元を叩き潰した。


「ブギュィ────────────」


 短い断末魔と共に、大猪はもう二度と動く事はなかった。


「…ふぅ」


 狩りの山場を超え、軽く安堵の息を着く。


 然し、まだゆっくりとはしていられない。


 鮮血淋漓(せんけつりんり)たる大猪は、他の獣を呼び寄せる。

 熊などに出会すのはなるべく避けたいところだった。


 藺草(いぐさ)で編んだ縄で括り、背負う様にして持ち上げる。


「よい、しょっと…」


 ずっしりとした重量感が背に伝う。

 まだ十にも満たない身体には、言葉通りに荷が重い。

 背を覆う巨体は半分以上が地に着いていた。

 ずりずりと引き摺りながら、苦心を浮かべた所で。


 何処からともなく、声が響いた。


「────人、御苦労でありんす」


 誰も居なかった筈の背後から、湧いて出たかと錯覚するような、唐突な労いだった。


 びくりとして振り返ってみれば、朝の薄暗い木陰から、こそりと此方を覗く紅い瞳が妖しく光っていた。


 人はそれを見留めると、顰めた表情でぼそり、「母さん…」と呟いた。


 それから、呆れたと言わんばかりに唸るような声をかける。


「何で、着いてきちゃうのかな…」


 呼び掛けを受け、朝の木陰の暗闇から、更に深い暗闇色の髪がゆらゆらと蠢いた。

 それからゆったりと出ずり寄り、軈て「母さん」の容姿が陽に晒される。


 頭から立派な狐の耳を生やし、腰辺りでは大きな八つの尾を燻らす化生の女。自らを(きつね)と名乗る彼女は唯の妖に非ず。

 永い時を生きる大妖怪であり、森の主として叡智を誇る老獪(ろうかい)な狐───それが「母さん」の正体だった。


「わっちが着いてくる事の何が悪いというのじゃ、我が子を心配しない親なんぞ畜生にも劣りんしょう?」


 人の不満をものともせずに、彼女は飄々と語りあげた。


「……子供扱いしないでよ」


 頬を膨らませて抗議の意志を示して見せるが、返ってきたのは微笑ましいものを見るように弧を描いた深紅の瞳だった。


「ふふ、ほんに愛いやつでありんすな」


 そう言った彼女になされるがまま、抱きしめられる。それから「いい子、いい子」とあやす様に頭を撫でくり回され、羞恥で身体を硬くした。


「や、やめ……っ!!」


 心を奮い、いざ文句を言ってやるぞ、と藻掻いた所で。「怖い怖い」と余裕ある笑みを浮かべる狐は、受け流すが如く自然な動きで担いだ大猪を奪い取ったかと思えば、滑るようにして手が届かぬ程の距離までも空けている。


「此奴はその細腕には荷が重いじゃろうて、わっちが持ってやりんしょう」


「……っ!!」


 度重なる子供扱いで頬を赤く、はちきれんばかりに膨らませる。

 内心で悔しいやら、恥ずかしいやらの感情が激しく渦巻き、限界を迎え、爆ぜた。


「もういい!! 」


 ぷんすかと意地を張った所で向かう先は同じである。

 頑なに口を結び歩く人と、微笑ましく彼を眺めて並ぶ狐。二人の間は付かず離れず、隣歩くは変わらない。


 軈て小さな小屋が見えてきた。

 苔は生え放題、所々に穴があり、蔦が侵食している寂れた襤褸小屋だ。

 そこは二人の帰る場所で、住まう家である。

 やんややんやと悶着ありながらも、最後にゃ揃って帰宅と締まる。

 それから否や、尾を引く意地で人が独り行った大猪の解体は、不慣れが祟りて相応な時間を要した。

 陽が昇る時分には間に合わず、すっかりと辺は暗くなり、夕餉にしても少し遅い位になって猪鍋が炊き上がる事となる。








 οO独語りOο


 言霊は陰陽師が魔を滅する為に磨いた術とされるが。

 その実は妖、化生、俗に()と呼ばれるものどもが操る"妖力"なる気を元とした外法である。

 故に陰陽師の血は穢れていると、何処ぞでは噂されているそうな。




ここまでお読み戴き誠に有難く思います。

ブクマ、評価、感想なども御願い出来れば幸いです。


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