『人と狐』1
恐ろし森。
そこは魑魅魍魎が跋扈する、そんな噂が実しやかに囁かれる森だった。
一歩入らば鬱蒼とした木々が陽の光を遮り、斑模様の昏い影が地を覆う。
茂る低木が生み出す隙間に数多の視線を錯覚し、揺らぐ木々の騒めきが死者の慟哭すら思わせる。
おどろおどろしい森の入りなればこそ。
奥地に至りてはまさしく魔境。
人など寄り付かぬ筈の禁足地。
だというのに。
「─────おかあ、おとう」
誰ぞ呼ぶ、理性ある小さな声が聴こえていた。
声の元は木陰の下から。
そこには襤褸布を纏った人の幼子が独り蹲っている。
世は飢饉の最中にあり、多くの子供が口減らしの為にと捨てられた。
目許を覆う程の蓬髪、黒々として痩けた頬、小枝が如く枯れた肢体、見え隠れする滲んだ傷跡…
彼もまた、数いる不幸な贄の一人だった。
◇
◆
「おかあ、おとう……まだかな」
『直ぐ迎えに来るから、ここで待っていな』父と母がそう言った。
土を弄って、落ち葉を千切って。遊びたい盛りの走り回りたい自分を抑えてまで。幼子は言いつけを守り、只管愚直に待っていた。
"言われた事に従っていれば怒られない"
それが両親に怒鳴られ、殴られ、蹴られ、彼が学んだ教育の賜物だったから。
彼は一歩たりとて、その場を動いていなかった。
不意に木を見上げては「僕はここだよ…?」と不安に駆られた呟きが零れる。
その声は深森の虚空に染み入り溶けて、響くこと無く消えていく。返る言葉も、反応もありはせず、変わらぬ状況が続くのみ。幾ら待てども迎えが来る気配は無い。
既に陽は暮れ掛けていた。
待ち始めたのは陽が頂点に達していた真昼時であり。迎えなんて来ないのでは? なんて薄らと察する程には、長い長い時間が経っている。
然して矢張り、幼子はその場を動こうとはしなかった。
彼は馬鹿ではないが特別に賢い訳でも無く、五年と幾ばくかしか生きていない、極々平凡な人の子供だった。
独りで何かを判断し、勝手気ままに行動出来る程の経験も能力もある筈が無いのだ。
考えうる限りの最善がただ両親を信じて待つ事で。
おかあとおとうはきてくれる。
だからここにいないとだめなんだ。
ちょっとさがすのがたいへんなだけ。
きっと、きっと、もうすぐだ。
健気な幼心など露知らず、刻は無情に進み往く。
鴉が鳴きを喧しく、橙色の陽が最期の足掻きと眩く照った。
「…おっとぅ……おっかぁ……っ……」
溢るる涙が頬に色濃い道を描く。
心折れ掛けながらも、声を上げる事だけは続けていた。
そうすれば父が、母が、気付いてくれると思ったから。
幼子は二刻程も、飲まず食わずに一つ覚えを繰り返した。
声は次第に枯れてくる。
声を出す力も底が見えてくる。
子供の無尽蔵にも思える体力など見掛け倒しの瞞しに過ぎない。
体力も精神も、削れて擦れて、限界近くに。意識はぼんやりとしており、いつ倒れてもおかしくは無かった。
絞り出す様な気力虚しく、矢張り時間だけが過ぎていく。
鴉が鳴き終え、陽は闇に溶け、月明かりが薄らと線を刺し始める。
幼子だってもう、とっくに気付いていた。
自分は捨てられたのだろうと、理解していた。
其れでも諦め切れず、霞んだ啼き声を精一杯に。
「…おっ、ぉぅ… おっ、ぁ…」
力強く働き者だった父。
優しく理性的だった母。
二人とも大好きだった。
振るわれた"教育"は、総て自分の所為だから。
役に立てないから、迷惑なのだから、仕方ない。
故に精一杯、良い子であろうと幼子は頑張った。
今だって、変わらない。
ねぇ、だから、ぼくをすてないで…?
絶えぬ想いは深淵へ。
染み入り奥まで、響かせて。
夜の帳がとうに落つ頃のこと。
それは陽炎の如く、訪れた。
何度目かも分からない、嗚咽にも似た呼び声をあげたその背後から。
「────森が騒がしいと思い来てみんしたけれど」
茂みをがさりと鳴らしたて、誰かが声を響かせる。
父のものでも、母のものでもない、初めて聞く凛とした女性の声だった。
「……っ!? 」
幼子はびくりと驚き振り返る。
そこには鴉の濡れ羽色の髪を腰ほどまで伸ばした、昏い怪し気な美女が居た。
彼女は深い森の中としては異常と映る、豪奢で艶やかな着物姿で、幽然と佇んでは。
「何故、人の子がこんな所におりんすかぇ?」と。
深紅の瞳を薄ら妖しく瞬かせ、何故か不思議そうに首を傾げていた。
幼子もそんな彼女を見て瞬き三つ。呆気に取られらながらも暗闇の中で目を凝らす。
そして映ったのは、昼間のように鮮明な景色で。
はっきりと状況を把握した彼は直ぐさま大粒の涙を浮かべて、流れるがままに語掛けた。
「ぉ、とぅ…お、かぁ、に…!! 待っぇ、って…そ、れれ…ず、っと……!!待っ…ぇ、てぇ…!!」
大人に泣きつく子供のそれだった。
幼子の瞳に映る彼女は、見知らぬ怪しい女などで無く。知識の無い彼からすれば両親と同じ一括りの"大人"であり、他の何者でも在りはしない。
潰れかけた喉で嗚咽しながら、幼いが故の少ない語彙に躊躇しながら…
必死に、必死に、言葉を紡ぐ。
独りだった不安と恐怖をどうにかして伝えたかった。
それはそれは拙い話で、聴き辛く、伝わり辛い筈。
然して女はきちんと話を聞いてくれていた。
「そうかい、そうかい」と何度も相槌を打ちながら懇切丁寧に耳を澄ませてくれていた。
幼子にはそれが堪らなく嬉しかった。
あまりにも嬉しかったものだから、ついつい夢中になって喋ってしまう。
枯れた声を忘れ、嗚咽する苦しみを忘れ、童心がままその話を紡いだ。
そうして、一通りの不安と恐怖を吐き出し尽くした所で。
「のう…」
ずいと、女の方から距離を詰められた。
伸び来るしなやかな掌に、ぼさぼさの前髪を掻き上げられて。
開けた視界の間近には、紅が真直ぐ此方を覗いており。
「…っ!?」
はっとして、幼子は咄嗟に髪を降ろすと、其れを拒むように上から固く押さえ付ける。
瞬刻と明かされたその瞳は、瞳孔が縦長に伸びて、獣を思わせる鋭さを纏っていた。
『おそろしい』
『けがらわしい』
『きもちわるい』
まるで。
『きつねのこだ』
鮮明に蘇る言の葉、意味の程は分からない。それでも幼いながらに悪意だけは感じ取っていて、此れは隠すべきものなのだと、薄ら理解していた。
「こ、これ、は… ちが、…ぅて…」
折角逢えた大人なのに、折角話を聞いてくれたのに、嫌われたくはない、それだけは、それだけは…
怯えが漏れて、しどろもどろに。
恐る恐る覗いた彼女の表情は、さして変わらず朗らかだった。
「狐にしては可愛げのある顏にありんすな。はて言うなれば… 猫の目、じゃろうかのう」
思案顔を一転、日常の一幕を思わせる、自然な笑みへころころと。
「ふふ、隠す事などありんせぬぇ? もっとわっちに見せておくんなんし」
昔の両親を見ているようだ、と幼子は思う。
かつての優しかった両親も、こんなだった。
然し信ずるには不安で、確かめるように心を伺う。
「ほ… と、に…? い…ぃの?」
「良いに決まっておりんしょう。だって、ほら───」
"解"、と小さな呟きが。
ずずず、と影が立ち昇り。
瞬く間に、不可思議が彼女を包む。
そして表れたのは。
狐と人が混合した様な黒髪の美女が独り、八本の尾を燻らせて此方を覗き込む姿で。
「ぁ……そ、…の、目…」
彼女の見詰める瞳は、瞳孔が縦長に伸びた獣らしいものだった。
「うむ、お揃いでありんす」
「……」
呆然とする幼子へ。
不意に手が差し伸べられた。
幼子はきょとん、としてその掌を見つめる。
「のう、人の子よ。わっちと共に来なんし」
放たれた言葉を確かめるように顔を上げ、幼子は不思議そうに女を見詰めた。
「来い」という彼女の言葉の真意がきちんと理解出来なかったのだ。
ただ…
その言葉を口にした彼女は、自分と同じ瞳を温かく細めていて、優しい雰囲気が感じられた。
何よりも、自分の話をあれだけ聞いてくれた"大人"であるのだ。
理由なんぞ、それだけで良かったのだろう。
ピンと立つ耳も、燻り揺れる八の尾も、彼にとっては些事に過ぎず。
幼子は女の手を取った。
「ふふ… わっちは狐じゃ、よろしなんす」
彼女は柔らかい笑みを浮かべ、その手を握り返す。
「き… つ、ね…? 」
『きつねのこ』と、かつて言われた言ノ葉を思い出し。
幼子も釣られるように微笑んで、心安らいだ表情で微睡んだ。
「あれまあ… しようがないでありんすねえ」
狐は慈愛の表情で寝顔を覗くと、寄り掛かる幼子を大事そうに両の手で抱える。
そして二人は闇に包まれた森の奥へ───
狐と人と。
この日、一つの母子が生まれた。
οO独語りOο
恐ろし森の怪、其の噂は多岐に渡る。
人を喰らう大樹、臓物を盗む大鴉、心内読む攫の大猿、土底潜む大蜘蛛など…
そして特に有名だったのは。
言霊を操り、幻惑に化かす、大狐の噂だった。
ここまでお読み戴き誠に有難く思います。
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