モブAでもない、「何でもない」僕ら
僕のお兄ちゃんが死んだ。
体中に穴が空いてぐちゃぐちゃになっていた。
つい前の日まで、僕に優しくしてくれて、たくさん一緒に笑って、泣いて、遊んだお兄ちゃんが死んだ。
体のそこらじゅうに貫通するように穴が空いていて、全身から体液が漏れ出ている。僕たちの体液を餌にする蝿が体の周りを飛び回っていた。蝿は羽音を立てて美味しいご飯を見つけた時みたいにたかっていた。死んだ後の独特な匂いが家全体に広がって、鼻の奥をツンと刺す。目は白目をむきかけていたけど、どこかに助けを求めているようにも見える目だった。
家に響くのは、半狂乱になったお母さんと、叫びそうになりながら啜り泣くお父さん、それに蝿の羽音だった。
怖くてたまらなくなった。
どうしてこうなったのか、何も分からなくて僕はその時、「怖いよぉ、お兄ちゃん。」って言った。まるでまだ隣にお兄ちゃんがいるみたいに、言った。
お兄ちゃんの返事は何も返ってこなかった。
隣からはただ、お母さんとお父さんが泣く声だけ。
その時まで、僕は本当にあのぐちゃぐちゃな物はお兄ちゃんなんだと、信じきれていなかった。
だけどようやく今僕は、お兄ちゃんが死んだっていう事を、頭でちゃんと感じた。
そしたら、急に涙が出てきて止まらなくなった。
お兄ちゃんはもうどこにもいなくて、僕らだけが残った。
みんなに気をつかって、優しかったお兄ちゃんじゃなくて、我儘で迷惑をかけてばっかりな僕が残った。
今までの幸せはもうどこにも無いのかもしれないって本気で思った。
その時のお母さんの顔は忘れらない気がする。僕を見るお母さんの顔は、子供の僕じゃどういう言葉を使えばいいのか分からないぐらい、いろんな気持ちが混じっていたと思うけど、強いて言うなら、歪んでいた。
きっと一番辛いのはお母さんだった。それでも必死に歪んだ顔を戻そうとしながら、お母さんは僕をぎゅってして、「絶対に私が守るから、だから絶対離れないでね」って、言った。
その時のお母さんは涙を流しながら、笑っていた。
半狂乱になっていたお母さんが我慢して必死で僕にかけてくれた言葉だと分かった。
僕に怖い思いをして欲しくないから無理しているんだなって、子供の僕でも何となく分かった。
これもまた、何となくだった。それでも、こう言わなきゃいけないような気がして、僕は涙を堪えてお母さんに言った。
「ごめんなさい」
お母さんは、お母さんの必死に笑顔を作った顔は、その時歪んだという言葉よりもっと、歪んで、ぐちゃぐちゃだった。何が涙か、顔か、分からないぐらいになってしまっていたけど、僕に咳をこみながら言葉を発した。
「なっ、なんでっ……そんな、そんなことぉ、わたしがっごめんって、いうべきなのにぃっ……」
僕はそれを聞いて、もっともっと悲しくなって、声を荒げて泣いた。
それから、お父さんも母さんも、そして僕もずっとずっと泣いた。
泣いて泣いて、泣いた。そして夜は明けて、朝になって、夜になって、そしてまた夜は明けた。
涙が枯れてしまうほどに泣いて、遂に僕は思った。
なんで生き物はみんな一緒じゃないんだろう。
なんで誰かの幸せは何で誰かの犠牲が付き物なんだろう。
僕は知りたいと思った。この世界の全部を。何でみんな一つになれないのかを。
きっと僕が今両親にこの事を言えば、きっと、もっと親は苦しんで悶えて、悩んでしまうだろう。もっと泣いてしまうだろう。
でも、僕は知りたいと心の底から願った。
それが、幸せのためかは分からないけど、願ってしまった。
だから、僕は決めた。この悲しくて真っ暗な人生を、変えるために。
そして、最後に出た涙を拭い、僕は2人に言う。
「僕、この世界を知らないままなんて、そんなのは絶対に嫌だ! 僕、行くよ! この世界を知る旅に出る!」
「少年よ、宇宙はなぁ、スライムが15匹の群れの場合、大熊から出た小鳥の鍵で開くんだよなぁこれが」
後頭部に痛みを感じた。
教師に居眠りが見破られ、たった今、後頭部を叩かれたのだと理解するのに一秒も必要は無かった。
教師は不服そうな顔をして僕を睨みつける。
「お前は、勿論今俺が出した問題の答えが分かっているから寝ていたんだろうな?」
教師でなくても、これは居眠りへの報復に僕の恥を晒してやろうという気持ちが表れているのだとほんの一瞬で理解できる程に教師の僕に対する怒りは非常に明瞭だった。
態度を見なくても、言葉を聞かなくても、分かる。
なんせ、僕は入学してから半年間、授業で起きていた事なんて殆どないのに加え、先程の様に夢を見ることができる程に気持ちよく寝てしまっているからだ。
確かに自業自得ではあるが、貴重な睡眠時間を阻害された事に怒りを感じた。
しかし、ここで寝ると流石に危険だと脳が警鐘を鳴らしていたので、「はい」と返事をして答える。
「64%だと思います。」
答えはもちろんすぐに見ただけでは分からない。僕はそんな漫画の主人公の様な天才ではない。クラスが爆笑の渦に包まれる。
その瞬間、轟音が鳴り響いた。教師が教卓を叩いた音だった。
刹那、クラスは先程までとは正反対に静けさに包まれた。轟音の反響音だけが教室を包んでいた。
そんな中、教師の威厳のある、生徒を牽制し釘を刺すかのような鋭く淡々とした声がクラスを包む。
「今は、関数の話をしてんだよ。寝てるんじゃねぇよ。お前がその気なら——」
そんな退屈な話を聞いているとまた睡魔が僕を誘う。寝てはいけないと分かっているのに段々と瞼が重くなり完全に閉じ切る。
「ねぇねぇ、あの鉱石はね、半分に切って断面図をスケッチすると、ブラックホールから湯気が出るんだよ。」
後頭部に非常に強い痛みを感じた。
説教中にも居眠りをしているのが見つかった事で痺れを切らしたのか、校長室に連れ出され、たった今叩き起こされた事など、理解したく無い。できれば、考えたくも無い。
僕は、ひたすらに叱られ続けた。瞼が重くなり、閉じそうになる目を必死に堪えて、頷き続ける。これ程までに長く、無駄だと思える時間はこれが初めてだ。
そしてこの長い時間を耐え抜き、ようやく説教が終わったと僕は安堵する。校長室から出て、伸びをしながら辺りを見渡す。校舎の窓から夕暮れが見え、部活も続々と終わっている。
「最悪の一日だ。あぁもうなんなんだよちょっと寝たくらいでキレやがって、あのハゲドブ野郎が。テストの成績も悪くなかったのに、自分がイラつくからっていちいち突っかかって来んなよ、イラつくなぁ。」
僕は怒りを込めた言葉を小さく吐き捨て、床を強く蹴り出し歩き始めた。
ポケットに片手を突っ込みストレスを少しでも減らすかの様にもう片手で頭を掻きむしりながら歩く。
廊下を歩き終え、階段に差し掛かる。
いつもはほんの少しの簡単な事なのに、今日はやけに面倒に感じる。
階段を降りていると、踊り場のポスターが目に入った。
それは、文化祭のステージで行われる、ライブについてのポスターだった。
出演者の欄には、蓬田 葵という名前が記入されている。
僕はそれにひどく驚いた。蓬田は僕と同じクラスの、並外れた人見知りで、いわゆる「陰キャ」の代名詞とも言える女子だったからだ。
クラスでペアを作るときはいつも余り物で、先生と組んでいた。
先生以外の人間に話しかけられると、比喩では無く、本当に泡を吹いて倒れていた。
辛うじて話せても、いつも小声で吃って喋っていた。
そんな彼女が、文化祭のライブに出演するのをしって驚かない人間がいるという方がおかしいだろう。
強く衝撃を受けつつ、僕は再び歩き出し、考える。
だが確かに、彼女には彼女にしか無い「超がつく程極度の人見知り」という、個性を持っていた。
誰にも毒されず、揺らがない、一つの信念とも言いうる個性が、彼女には、あった。
きっと、ああいう人間こそが物語で言う「主人公」で、名も無き群衆達の「英雄」になれる存在なんだろう。
僕は主人公にも、ましてや脇役にもなる事は絶対にできない。
なぜか。それは突出した才能やずば抜けた特徴も無く、ギャップも無い。
良く言っても平均的で、言ってしまえば「何も出来ない」からだ。
それが僕らモブの、名前も振られない僕らの、無能なエキストラの宿命だ。
主人公の活躍を近くで見ることしかできない。もしかしたら、そもそも見ることすら儘ならないかもしれない。
きっとこの様な運命をこれからも辿っていくのだろう。
考える内に、僕は昇降口に立っていた。
上履きを脱いでロッカーを開け、外履きに履き替える。
扉を開けて外に出ると、少し肌寒い風が吹き抜けた。
部活が終わった生徒達が次々に下校を始めている。まだ意外にも人は多い。
大抵の生徒が誰かと共に、仲睦まじく言葉を交わしながら、歩いている。
それぞれの会話に耳を澄ませてみる。
「べつに、あたしがあんたの事どう思ってたって関係ないでしょ!」
「俺とお前で、優勝しよう! 必ずだ! 天国にいる、あいつの為にも、な。」
全員の会話が、僕には、眩く光っている様に感じられた。全員が物語の様に劇的で、色があって、人生を、そして青春を謳歌している主人公の様で、脇役にもなれない自分が見窄らしい。
この空間から一刻も早く逃げ出したいと思い、段々と歩みが速くなる。
息を荒げながら小走りで、何も聞こえない様に耳を両手で覆い、進む。
やっとの思いで校門を抜けて、ため息を吐く。
説教もされ、自分の、相手の幸せも願えない様な卑屈さに気付かされ、他人の劇的な人生の一部を見せられ、まさに、紛れもなく最悪な一日だった。
気分を紛らわせる為に、スマホを開く。
「おっ! 魚稲田裕作先生の異世界物、新作出たのか! 今日は早速本屋寄ってくか。」
魚稲田裕作、それは僕の好きな異世界物の小説家だ。単純なストーリー構成の良さもあるが、何より僕が好きな点は、没入感があり、自分が主人公になった気分になれるという部分だ。
こんな自分でも、彼の小説を読んでいる間は、自分が主人公だと思っていられる。
物語に登場する華のある生き方を自分と照らし合わせられる様な気がする。
それに、現実という退屈な世界を少しだけ忘れられる。
だから彼の小説を一目見た時から、僕は彼の絶対的なファンであり、同時に信者なのだ。
今日は最悪な一日だったと思っていたが、彼の作品が読めるとなれば、案外そんな日でもなかったのだろうと少し安堵する。
「僕もご都合良く異世界転生とか出来たらきっと楽しいんだろうなぁ。」
安堵と同時に僕は羨望し、言葉を小さく呟いた。それが、あるはずの無い幻想だと分かっていつつも。
そんな純粋な願いすらも忘れようと早速僕は、本屋に向かって方向転換し、先程までとは違う、軽やかな足取りで僕は歩き始めた——
「やっぱ、魚稲田先生の作品は最高だなぁ! ヒロインがまさか一巻の終盤に主人公の相棒に殺されるとはなぁ。あるはず無い事なのに主人公になりきって感情移入できちゃうんだもんなぁ。やっぱ、天才だわ。」
僕は帰宅後、早速買った小説を徹夜で読み進めていた。
彼の作品は一巻がとても重厚で読むのに多くの時間がかかる。僕が今まで彼の作品を読んできて、一巻を読むのにかかった時間は平均しておよそ8時間。僕が平均的な文庫本を読み終えるのにかかる時間のおよそ4倍だ。
そして今回かかった時間は約10時間。今回の彼の作品はいつも以上にボリューミーでさらに圧巻される面白さが備わっていた。
が、気づけば日が昇り、朝の7時15分になっていた。
非常にまずい。刹那、そう思った。僕は今までに無いほどに焦り始めた。なぜこれ程までに焦っているのか、それは単純明快だった。昨日ちょうど僕は校長室でこっぴどく叱られた。それも犯罪などでは無く、居眠りで、だ。そんな態度の悪さで校長室に呼ばれた次の日に、今度は遅刻なんてしてしまえば、きっととても面倒なことになる。そう確信していたからだ。
急いで一階に降りてリビングの扉を開け、「おはよう」と家族に声をかける。母親から「今日は遅かったね」と言われたが、適当に返して椅子に座った。食卓に用意されていた朝食をすぐに食べきろうと、僕は急いで箸をすすめた。
すぐに食べ終わり、ひと通りの準備を済ませると、時刻は7時45分をまわっていた。
僕の学校のホームルームは、8時から始まる。いつも通りの時間に行っても、僕は8時ギリギリの到着になるのに、今の時間は普段よりも15分遅れている。このままでは、確実に遅れる。
バッグを背負い、「行ってきます」と大声でいうと、すぐに家の戸を開け僕は飛び出した。そしてすぐに、全力で走り出した。
ひたすら必死に走り続けた。赤になった信号も、車がいないのを確認して、走った。とにかく学校に着くまで、ひたすらに。流石に学校まで走り続けるのはかなりの重労働で、息があがっている。きっと今心拍数を測れば、200は軽く超えるだろうと思った。
しかし、その苦難をなんとか乗り越え、なんとか学校の校門をくぐることができた。
我ながら頑張ったと思い、自分を褒めてやりたいと強く思った。
しかしそんな余裕もなく、僕は急いで時計を見る。7時57分、人間本気を出せばなんとかなるのだなと、内心、大喜びした。
きっと、この疲れを代償に時間の神が僕に微笑んだと、そう思った。
下駄箱から靴を取り出し、教室に入る。
本当に、ギリギリの戦いだった。だが、今回の時間との戦いは僕の勝利だ。あまりにも嬉しかったので、独り言を発さないように気を付けつつ、喜びを噛み締める。
どれほど喜びを噛み締めているか分かりやすく表すとするなら、それはもう、100人中100人が今の僕の顔がにやけていると言ってしまうほどに、間に合ったという嬉しさが顔に出てしまうくらいには、喜びを感じているだろう。
実際、僕の顔は気持ち悪いくらいににやけていた。
そんな事を思いつつ、深呼吸をし、思考を整理する。
思考の整理によってまず僕が考えたのが、それにしても、今日はやけにバッグが軽くて走りやすかったな。という事だ。
嫌な汗が額を伝う。僕はファスナーを開け、バッグの中を確認する。
僕はとても驚いた。それと同時にとても落胆し、絶望し、叫びそうになりながらも必死に堪え、呟く。
「教科書、全部忘れた。」
どうやら時間の神が僕に微笑んでも、勝利の女神は僕を突き放したようだ。
放課後、僕は校長室では無く、今度は職員室に呼ばれた。担任は昨日あれだけ僕を叱ってストレスを解消できたからか、前よりかは優しめな口調で僕に説教をした。面倒くさかったが、ぐうの音も出ないような事を言われたので大人しく聴き続けた。
職員室から出て僕は大きく深呼吸し、ため息をついた。窓の外を見ると、また昨日と同じような部活が続々と終わる時間帯になっているという事に気がついた。
今日は小説の新作もない。間違いなく最悪な日だと感じながら、重い足取りで僕は帰路についた。
昇降口を出ると少し冷たい風が僕の肌を刺した。
寒いと思いながらも、あまり気にせずに家までの道のりを歩き続ける。
しかし、気のせいかもしれないが、今日の帰り道は全ての信号で止まっている気がする。
しかもたった今、僕の通学路の中で別段と長い信号に捕まってしまった。本当に今日の全てが良く無い方向に向かっているような気がして、さらに気が滅入った。
隣には、友達と公園でサッカーをして遊んできたのだろうという様な風貌の少年が、持ち運ぶ為のボール用ネットの中にサッカーボールを入れて紐を手で掴みながらリフティングの練習をしている。
小学生によく見かける光景で、少し微笑ましいなと思いながら信号を待つ。
「あ」
少年は声にならない様な声で呟いた——
人生にはどこかで自分の人生を大きく左右させる転機がある。
今までなんとなくそう思っていた。
違う。そうではなくて、転機があると、この退屈な人生を変えてくれる何かがあって欲しいと願い続けていた。
もしもこの人生が、この退屈な生活が終わるとするなら、それは、きっと今だ。
そしてきっと今日は最悪な日では無く、「これから」を最高にするための代償なんだったのだと確信した。
少年のネットからボールが飛び出し地面につき、跳ねる。
今までの退屈で色褪せていた世界が、色づく。世界が走馬灯の様に遅く感じる。今までの様な無為に長く遅く流れていた時間と比べて、今のこのゆっくりと流れる時間は、自分の人生を変えるなら今なんだという高い高揚感によるものなんだと、本能がそう告げている。
ボールが車道に飛び出し、少年が慌ててそれを追いかけ車道に出る。横からはちょうどトラックが迫ってきている。
あの速度なら、きっと止まれない。
少年を助ければ、きっと僕は英雄になれる。人生が変わる。ずっと欲していた、「退屈でない世界」が、僕が主人公になれるだろう違う世界が、目の前で手を伸ばしている様な気がする。
それでも、僕の脚は、腕は、体は、言うことを聞かない。脚はすくみ、腕は震え、体は固まっている。
怖い。車道に飛び出し、命を落とすかもしれないという事が。
いや、命は落とさずとも、後遺症が残るかもしれない。
これらの高揚感と恐怖感が僕を襲う。脚も腕もまだ、震えている。
動けと全力で願っても、それは届くとの無い祈りでは無いかと、悲しみが僕を襲う。
それでも必死に、彼を助けて人生を変えるんだと、僕はただひたすらに身体を動かそうと葛藤する。
その時だった。
まるで爽やかな風のように、自信に満ち満ちた太陽の様に、存在感を放った少年が、葛藤する僕を置いていくように、格の違いを見せつけるように、僕を追い越す。
それは僕と同じ学校の同学年である、神原紫音だった。
彼は颯爽と華麗に僕の隣を駆け抜けた。
神原が、守る様に少年を抱え込む。
その姿は、違う。この表現は適切ではない。「姿」ではなく、その「勇姿」は、青年ではなく、まるで、いや、まさに、「英雄」に等しかった。
その矢先、車がその2人を撥ね飛ばす。
ゆっくりと、時間が流れていく。
ゆっくりと、人が撥ねられる姿が目に焼き付いている。
もし助けたら、あんな風になってしまっていたのだという風に、恐怖と、情けなさに対する絶望が僕を襲う。
僕は、理解した。僕はただの傍観者しかなれなくて、どこかで抱いていた主人公の妄想なんて夢のまた夢で、神原紫音という人間こそが主人公なんだと。
今も脚がすくんで動くことができない。続々と周囲の騒めきが大きくなっている。悲鳴や、運転手が神原達に声をかけているのが音が僕の耳に伝わってくる。
僕はひたすらに、不動を貫いた。動くことが出来なかった。
ただひたすらに、その光景を、あの勇姿を、飛び散る鮮血も、僕はたった一人で、立ち尽くして見ていることしかできなかった。
その時、僕は思った。人は、いや僕の憧ていた主人公達はこんなにもあっさりとあまりに現実的に傷ついてボロボロになっていくのかと。
尊敬すべき、まるで英雄譚の理想の英雄達も、現実には敵わないのかと。
現実にはいかなる人間でも、物語の様に、衝撃的に始まり、劇的で感動的なフィナーレを迎えられずに軽々しく絶望的に終わってしまうのかと。
さらに僕は思う。こんなにあっさりと人生を変えられるならば、こんなつまらない人生の僕でも、英雄譚では無いかもしれないが、何かの物語の主人公になれるのではないかと。
きっと英雄譚でなくても、もっと劇的な自分だけの物語を紡げるのではないかと。
自らが選択し、理想に向かって歩くその人生こそが、僕の憧れた、何よりも劇的な物語なのではないか、と。
ここで僕は問いたい。皆が憧れる様な、羨む物語は、自らの人生よりも本当に劇的なのだろうか?
——果たして、英雄譚は劇的なのか?