クリアライトストーリー
今日、天界に来た。どういう訳か、現世で命を落としてしまったらしい。当時の記憶はあまり覚えていない。ただ、死ぬ瞬間、強烈な慈愛の感情だけが湧き上がってきたことは覚えている。
今まで自分を傷つけた者、貶した者でさえ、愛おしく思えた。それは合理性を超えた至福の感情だった。たとえ生前、僕の命を奪った者が、恐ろしい姿形をした悪霊であったとしても、同じように無量の慈愛を注いだと思う。
気が付くと、そこは爽やかな春の兆しが差し込み、柔らかい風の吹く、神秘的な野原だった。所々に石で囲まれた池があり、綺麗な白い蓮の花が咲いていた。新緑に包まれた樹々の中から鳥のさえずりが聞こえている。彼らは愛と平和の歌を歌っているような気がした。
遥か遠くのほうに、建物が見えた。それは巨大な木造の城のようだった。その城の入り口に鮮やかな朱色の鳥居があった。厳格な雰囲気を漂わせているその城の形相を眺めているうちに、ああ、ここは天界かもしれない。と僕は直感したのだった。
とりわけ行くあてもなく、僕はその城を目指して足を進めた。生前より身体は軽かったが、全く重さを感じないわけではない。足元の砂利を踏みしめるとき、確かに膝に伝わる細かい石の感覚があった。
城に向かって歩いているとき、僕は生前、どのように過ごしてきたのかを思い出そうとしていた。しかし、そんなことはあまり重要ではないような気がした。生前、どう生きたとかどう死んだとか、そんなのはこの新天地で過ごすうえでは、さして問題ではないという確信があった。それより今後、この死後の世界で、どのように生きていくのかのほうがずっと問題だった。
どうやって僕の心の中を慈愛で満たすか、この国の住人にふさわしい心の在り方とは何なのか、それを一日中模索し、天界の住人として生きるうえでふさわしいように、心をより一層、浄化しなければならないような、そんな使命感で僕の心はいっぱいだった。
悪業から解放される喜びとは、悟りに近い感情なのかもしれない。自己が、永久的に悪事を犯すことのない境地に入った時、本当の意味でこの国の住人たちに受け入れられ、この国の住人としてふさわしい人間になるのかもしれない。あくまでも予想の域を出ないが、たぶんこの考えは正しいだろう。
赤い鳥居だと思っていたものは、実は鳥居ではなく、建物の一部だと気が付いたとき、城の外壁に沿って立ち並んだその赤い大きな柵は、一瞬、ギョッとするような威厳があった。よく稲荷神社とかでは、無数の朱色の鳥居が立てられているが、ここは稲荷神社ではないようだ。
黒い瓦で覆われた屋根と、白い壁と、鮮やかな黄土色の木の床と、真新しい薄緑色の畳で作られた大きな城だ。何故か扉は一枚もなく、巨大な吹き抜けになっていたから、中の構造までよく見える。中央にはちょっと小高くなった祭壇のような場所があり、その周りに畳が敷き詰められていた。誰かを崇めるための神聖な場所なのかもしれない。
ふと足元にアーチ状の巨大な橋が架けられている。この橋を渡ってしまえば、もうある種の覚悟と決心を固めたことになるのだろう。僕は深呼吸をして、足を進めた。
歩く度に身体は軽くなっていき、橋の向こう側につく頃には、身体の重さという感覚はほとんど消えていた。だが、全く重さがゼロになったという訳ではなく、肉体がある以上、ほんの少しだけ運動したりするための機能の一部として、あるいは概念として、体重はしっかりとあるようだ。
「足を運んでいただき、光栄でございます。史郎さま」
声がした。透き通るように綺麗な声だ。僕はハッとして声のした方向を見ると、そこには白い服を着た美しい女性がいた。
うふふ、と彼女は笑った。
「困惑されていますね。皆様、最初は困惑されるのです。でも、この場所にお越しになったということは、アナタにも菩薩のカルマが存在するのです」
「菩薩?」
「生きとし生ける者すべての為に、広大無辺のご慈悲を発されるお方です。もちろん、私も菩薩です。まだ修行中ですけどね」
そうして彼女はまたほほ笑んだ。若い、綺麗な人だ。見た目は高校生くらいかもしれない。
彼女は自然と僕を導いていた。城の中には入らず、その横にある桜の木まで僕を導いて、腰を下ろした。自然と僕も、その隣に座る。上空からひらひらと桜が散っている。
「ここは、極楽浄土なのですか?」
「まさか、ここはそのような高い世界ではありません。厳密に言うと、浄土であることには変わりないのですが、阿弥陀様の境地である極楽浄土とは違います」
「天国では、ないのですか? じゃあ、ここは異世界なのですか?」
「第四天界の直下にある狭間の天界です。ビジョンを流しますので、しばらく目を瞑っていてください」
と彼女は言った。僕は言われたとおりに目を瞑ると、瞼の裏に様々な光景が見えてきた。
「人間の世界でも、仏教は浸透していますよね? ああいう非科学的な教えが、今の人間の世界に伝わっているというのは、奇跡に近いのです。この世の一番下が、怒りと憎しみの世界である地獄です。ここに生まれ変わった者は、もはや人の姿形を保っていることはできません。自分の苦しみも然り、他を憎む心が尽きないのです。次は、餓鬼の世界です。欲しい、欲しい、くれ、くれ、の世界です。彼らは得られないものを永久に欲しているのです。次は動物の世界です。これが一番わかりやすいですよね。人間の世界と、同じ世界にありますから、常に自然の驚異に怯えている弱肉強食の世界です。そして、物事を深く考えることができない無知の世界でもあります。それから人間の世界。人間の世界も、苦しみは絶えませんよね。決して幸せな世界ではないのです。次に阿修羅、阿修羅は戦いの世界です。向上心に溢れている世界ではあるのですが、闘いが収まりません。他人を蹴落としてでも上に上がろうとする魂たちの巣窟です。そして、次が天界です。勘違いされがちなのですが、天界に生まれ変わったとしても、諸行無常の因果で、必ず寿命はきます。天界の住人も、寿命がくればまた動物や人間のような低い世界に生まれ変わってしまう恐れがあるのですよ。そして、ここが天界です。天界の四番目、兜率天です。厳密には兜率天の直下にあるマイナーな空間です」
「トソツテン? 聞いたこと、ないですね。極楽浄土にはいけないのですか?」
「史郎さまがイメージされている阿弥陀様と、実際の阿弥陀様はだいぶ違うようですね。人間が勝手にイメージした阿弥陀様を、いくら信仰したところで、極楽浄土にはいけないかもしれませんね。私も、ずっとここで修行をしておりますから、正直、極楽浄土のような高い世界はイメージがつきません」
「そうですか。少し残念ですね」
「史郎さまも、現世でより一層の徳を積んでいれば、あるいは極楽浄土に行けたかもしれませんね」
「でも、地獄に落ちるよりは、マシかな」
「当然です。極楽ではありませんが、浄土であることに変わりありませんから。さて、少し堅苦しい話になってしまいましたね。百聞は一見にしかず。そろそろ、ヤマ天様がお見えになります。説法をしてくださいますから、どうぞ、お聞きになってはいかがですか?」
「ヤマ天様?」
彼女に案内をされ、城の中へと足を踏み入れた。真新しい畳の匂いと、微かに漂う白檀の香りがした。僕らは中央の祭壇がいちばんよく見える畳の席に座ると、他にも何人もの人々が、ヤマ天様の説法を聞きに、畳の席に座った。先ほど外から見た時は気付かなかったが、この城には大勢の住人がいるらしい。頭を丸めた修行僧のような人物もいれば、ほぼ現代の日本人とあまり変わらない服を着ている者もいた。中には、涙を流している若くて凛々しい男性の姿もあった。わずかながらに女性もいる。
ふと、彼女が立ち上がり、みんなに向かって、言った。
「そろそろ、ヤマ天様がお見えになります。静粛に」
彼女はこの説法会の司会進行役のような重要な人物だったのか、と僕は気が付いた。その直後に、無視できないほどの存在感をもった、大柄の方が、祭壇へと足を運び、腰を下ろした。すると、畳の席に付いているみんなが、一斉に座礼をしたので、僕もあわてて正座の体勢になり、畳に鼻先をくっつけてお辞儀をしたのだった。
顔を上げると、祭壇にいたのはあの有名な、地獄の閻魔大王様であった。なるほど、この世界では閻魔様を、ヤマ天様と呼ぶのか。生前は、閻魔様ほどの恐ろしい存在を間近で見たら、きっと恐怖で動けなくなってしまうに違いない、と思っていたが、実際はそうでもなかった。
確かに厳格な雰囲気を有しているものの、そこまで恐ろしい存在だとは思えなかった。顔がかなり赤く、目力があり、それでいて凛々しくあった。そして閻魔様は、半径一キロほどに響き渡るのではないかというほど大きく、そして且つ静かな声で、説法をはじめたのであった。
「私がこの座に着いたとき、初め、カルマの法則についての話をしようと意気込んでいたが、どうやら、新たにこの兜率天へ生まれ変わった崇高なる魂がいるらしい。彼は非常に優しく誠実で、実に菩薩の資質があるからして、私はこの場を持って彼を祝福したい」
僕のことだ。と思い、とても歓喜に打ち震えた。周囲から拍手と喝采が聞こえた。
「恐縮でございます。閻魔大王様」
思いのほか、簡単に閻魔様とのコミュニケーションをとることができ、自分でも少し驚いた。生前、目上の人と会話する時のような、あの嫌な緊張感は、今の僕にとって全くなかった。それが不思議で、有難く、それと同時に少し恐ろしいことであるかのような気もした。
すると、閻魔様は立ち上がり、僕の方へやってきたが、不思議と恐怖感は無かった。閻魔様が僕のすぐ隣にくると、彼の身長は、だいたい二メートルくらいで、そこまで人間と違う姿をしている訳ではないことにも気が付いた。黒い烏帽子も、彼の威厳を象徴するような美しさがあった。
依然として顔は赤く、その赤みの奥に、熱さと苦しみへの葛藤を秘めているような相がある。確かに目力は凄かったが、右目はまるで白内障患者のように濁っていて、ほとんど見えていないようだ。でも、この目つきは、罪人を裁くだけの厳しさの目ではない。強さと優しさを兼ね備えた、大王としてふさわしい目つきだ。
「不思議そうな顔をしているな。史郎。教えてやろう、我々菩薩が衆生と接するうえで、決して忘れてはならないのは無威施である」
「ム・イ・セ」と、僕は言葉を復唱した。「無威施とは、何ですか?」
「相手に威圧感を与えるような態度を取ってはならない、という教えだ。どれだけ正しい教えを語ろうとも、相手が恐怖によって心を閉ざしてしまったら、意味がない。我々にとって、衆生に安心感を与えてやること、説教は信頼関係の上にはじめて成り立つこと、そして笑顔もお布施であるということを常に忘れず、それを実行することは、何にも代えがたい財産である」
「だから閻魔様は、常に無威施をされているのですね」
しかし彼は静かに首を振った。
「そうでなくても、ここにいる崇高な菩薩方に対し、無意味に威圧などせん」
「教えを施していただき、感謝申し上げます。閻魔様」
閻魔様は頷き、再び祭壇の席に着いた。たしかに、これは現実の世界でも通用する教えだ。僕の閻魔様に対するイメージは、少しだけ変わった。
「さて、本題である。」
再び辺り一面が神聖な雰囲気に包まれた。正座をしているのに、足は全く痺れず、肩も凝らず、退屈もせず、ただ今の状況を楽しむことができた。僕の背筋は自然としゃんと伸び、呼吸は全く乱れず、閻魔様を間近にして心は全く動じることはなかった。
ここに居る全員、僕と同じように、説法に集中できる心の状態を保っているのだな、と分かった。それは苦楽を超えた中道のような心地よさがあった。皆、総じて顔にはいささかの微笑みを浮かべていた。
「これよりカルマを語る。耳あるものは聞くが良い。はき違えるな、殺生について。生き物を殺したからその報いとして地獄へ落ちるのではない。生き物を殺すその行為そのものが地獄の行いなのである。はき違えるな、慈愛について。他人を苦しみの境遇から救ったから、その報酬として死後、天に上れるのではない。他人の苦しみを拭う、この行為そのものが天界の行いなのである。はき違えるな。無知について。理性を失い、貪り、怠惰であるから、その報いとして、死後、動物界に生まれ変わるのではない。理性を保ち、身を慎み、精進することなくして、どうして人が動物との違いを見いだせよう。己が行為、一瞬一瞬、悪循環・好循環を作り出していることを決して忘れず、片時も善なる行為を怠らず、精進すれば、どれだけ腐り果て、廃れた娑婆の世であろうとも、至福の境地は開かれる。善は急げ。人の世に生まれたのなら、できる善ならこなしておけ、やめられる悪はやめておけ。卑屈になるな、謙虚であれ。慢心するな、自信をもて。善をなすか、悪をなすか、選択肢があることを感謝せよ。罪人を地獄に落とすという私の行為すら悪業となる。その悪業は果てしなく、私は常に、熱せられた鉄の玉を飲まねばならぬ報いを受けている。罪人を裁く行為そのものが、閻魔のカルマである。幸運にも人の世に生まれたのなら、罪人を裁くその正義の心を捨て去りなさい。生きとし生ける者すべてに慈愛を注ぎなさい。地獄の底まで慈悲の光で照らしなさい」
我々がジッと静かに、閻魔様の説法を聞いている時だった。突然、向かい側の席にいた、あの涙を流していた凛々しい顔つきの青年が、立ち上がったのだ。そのあまりに鬼気迫る表情を見て、この青年は、何か不味いことをしでかすのかも知れないと直感した。
「罪人を地獄に落とすことが、それほどまでに悪業になるのでありましょうか! 何千度にも熱せられた赤い鉄の球を飲まねばならぬとは、何事でございましょうか! 私は、貴方様が哀れでなりません」
嗚咽のような声になりながら、青年は声を張り上げて泣いた。あまりに悲しそうな泣き方だった。この世の終わりかのように、ただ、彼は閻魔様の為に声を張り上げて泣いた。
「おかしいじゃ、ありませんか! 貴方様は悪くはないではありませんか、なにゆえ、なにゆえ、そのように絶大な苦しみを受けねばならぬのですか。私は貴方様が哀れでなりません!」
祭壇に上がってきそうになったその青年を、隣にいた僧侶が止めた。
「落ち着きなさい、サダープラルディタ。ヤマ天様を哀れだと決めつけるのは、失礼にあたる。かのお方は、罪人を地獄に落とす役目と罪を、我々の為に、背負ってくださっているのだ」
「それが、哀れなのです。私はそれが途方もなく悲しいのです」
とうとう青年は、祭壇に上がり、閻魔様に抱き付いてしまった。おんおん、おんおん、と彼は泣きじゃくっている。
「サダープラルディタ。おやめなさい!」
僧侶は、焦った様子で、青年を叱責した。しかし、僕の隣にいたあの若い女性は、すぐに立ち上がると、その僧侶に向かって、
「サダープラルディタ様のやりたいように、させなさい」
「かしこまりましてございます」
僧侶はすぐに頭を下げ、それから何も言わなくなった。彼女は僕の方に戻ってくると、サダープラルディタと呼ばれた青年を、手のひらで指し示した。
「あのお方、サダープラルディタ様がどのようなお方か、史郎さまはご存じですか?」
「いえ、恥ずかしながら、存じ上げておりません」
「観音菩薩様の、前世のお姿にございます」
「あれが観音様なのですね! お目にかかれて光栄です!」
有名な菩薩を間近に見られたことに感激し、僕は興奮した。しかし、女性は首を横に振る。
「来世で観音様になられるので、この時はまだ常泣菩薩様ですね。人々の苦しみを思って、常に泣いているのです」
こうして、説法の一場面が終わった。閻魔様はお帰りになったようだ。気づくとその祭壇にはもう誰もおらず、静かで清々しい桜の風景が広がっているだけだった。この世界では、どうやら時間の流れが現世とは少し違うようである。人々が歩行によって場所を移動するように、この世界の住人は、念力によって時を移動することが可能みたいだ。
「観音様は、とても泣き虫だったのですね」
「前世では、常に泣いておられたので、常泣菩薩と呼ばれておりました。それほどまでに慈しみの心が深いお方です」
それから、僕たちはしばらく兜率天を散歩していた。清々しく、軽やかで、とても安定している。そういう世界だった。
「食事の用意がされております。お召し上がりになりますか?」
「いいんですか?」
「ええ、召し上がられても大丈夫ですし、ただ料理を眺め、香りを楽しむだけでも大丈夫です。肉体への執着を断つために、あえて食べ物を食べない選択をされるかたもおられるのですよ」
「そういうストイックなことをされる方々も多くいらっしゃるのですね」
僕は非常に感心した。このように爽やかで清々しく、温かくのどかな天界においても、やはり修行をするために自らを律する魂たちも多くいるようだ。
「僕も、そうしようかな。いや、でもおなか一杯ご飯を食べるのもいいかな」
「肉体は無いので、食べなくても問題はありませんよ。肉魚等もありますが、食する人はいません。無論肉魚を食べたとしても、殺生の罪に問われることはございません。ただ、美味しいとかもっと食べていたい、というような煩悩が沸き上がると、修行の妨げとなってしまうので、必然的に食事をする人は少なくなりましたね」
「そういうことだったのですね。では僕も、食事を眺めて香りを楽しむのに留めておきます。でも、食べずに捨ててしまうのはもったいないのではないのですか?」
「捨てはしません。物は腐らず、穢れず。また浄化されることも、美醜の二元で語られることもありません。ただ、魂の生まれ変わりがあるだけです」
「ここはそういう世界でしたね」
「ええ、水中でコップの水を溢すことができないのと同じ様に、清浄な世界を清めることはできませんし、醜悪な世界で汚れが発生することもありません。美しいも醜いも、ないのです」
「物は増えず減らず、心は動じることも落ち着くこともないのですね」
「よくご存じですね」
と、彼女は笑った。
広い畳の部屋に、御膳が一列に配置されていた。座布団には、金色の刺繍が施されており、その絵柄はたいてい鶴や蓮の花だ。真新しく、座り心地も良い。
御膳には美味しそうな料理があった。米やお吸い物もあったし、肉や魚もある。色とりどりの菓子類やフルーツもあって、さすがは天界の料理だ、と僕は思った。
けれども僕は肉や魚に手をつけることはなかった。それどころか米にも手を出さなかった。
食事は見栄えが非常に美しく、香りも良かったが、肉体への執着を取り除きたかったのだ。
それでも実際に食すことなく、僕は満たされた。
周りにも同じような人がいる。皆、食事に手を合わせたまま一向に口に運ぼうとはしない。視覚と嗅覚で楽しむだけだ。
満たされたままの心身で、食事の場を後にした。
外は依然として気候が良く、桜の花弁は、いくら舞い降りても満開のままだ。
「あなたも、食事への執着はないみたいですね」
気づくと彼女が傍らにいた。相変わらず天女のように美しいと思った。事実、本物の天女なのだから当然であった。
「史郎さま」
彼女は、やや真剣みを帯びた声色で僕に語り掛けた。
「はい」
僕は返事をする。
「ここに来た人々は、みな一つの目的のためではなく、それぞれの魂にあった宿命があり、それぞれの魂にあった試練があります。また、宿命を解消し、自由に生きることも、それを本当に望めばできますし、試練を受けないという選択もあります。それを踏まえたうえで、私の話を聞いていただけますか?」
「はい。もちろんです」
と僕は言った。すると女性は、遥か遠くの地平線を指さし、
「これより東へ一里進むと、黒い大きな穴があります。その穴を覗き込み、一番初めに抱いた感情が、貴方さまの成すべき宿命です。進むも良いですし、ここへ残って修行を積んでも良いのです。史郎さまのやりたいようにしてください」
その声を聴いた途端、僕は絶大な使命感に駆られた。何かとてつもなく重大な偉業を成し遂げなくてはならないような、そんな激しく情熱的な想いを抱いたのだった。
「行きます」
僕ははっきりした声で、言った。
一里というのは、だいたい四キロ弱だろう。良い散歩だ。
この果てしなく続くように思える道の先に、自分自身のカルマがある。それは恐ろしいようにも思えたし、頼もしいようにも思えた。
「ありがとうございます。天女さま」
ふと彼女は微笑んだような気がした。
大地と風に手を合わせつつ、僕は勇猛果敢に歩き出した。