オアシスの蜃気楼
漆黒のタクシーが一台きた。
そのタクシーが駅のロータリーに停まると、なかから一人の背の高い女性が降りてきた。
その光景があまりにもさまになっていたので、一瞬タクシーではないとおもったが、その女性が降りるまえになにか運転手にちらと渡すのをみたので、私はきつい香水の匂いのする背の高い女性とすれちがいながら、タクシーのほうへ歩いていった。
「A駅にいってくれ」
車のなかにはいってみると、内部のシートの白色がきわだっていた。そして、香水の匂いがのこっていた。私はさっきのすれちがった女性をおもい浮かべた。タクシーはゆっくり走りだした。
ふと車内を見渡してみた。すると私の足下には、銀紙に包まれた食べ終えたガムをみつけた。大したものではないはずなのに、そのガムは妙に荒々しい気持ちを起こさせた。目をつぶった私は、それが女の赤い唇に噛まれている場面がみえるようであった。
しばらくして目をあけた。私は外の景色をみた。外はすっかり民家が並んでいた。ちょうど一台の自動車とすれちがった。自動車にはカップルらしき二人が乗っていた。
A駅を北へいったところに短い坂道がある。私はそこまで来るとタクシーを停めさせた。
タクシーはきた道を行儀よく引き返していった。
車の背後がすこしずつ小さくなっていくのをみて、私は商店街のほうへゆっくり歩いていった。商店街はおもっていたよりもひっそりとしていた。
私は三年ぶりにこの商店街にきたのだった。
しかし、すぐ見覚えのある書店をみつけた。その店の前に女子高生が四、五人、円を組んだようにたっている。
歩きながら彼女たちをみていると、私にはそれが過ぎ去った思い出のようにみえた。
すると、昔のさまざまな思い出が甦ってきた。
やがて私には彼女たちのお喋りが手にとるように聞こえてきた。私は彼女たちのそばを、まるで古いアルバムをめくるような感動をもってとおりすぎた。
そのとき、ちらとむこうの曲がり角を一人の女性が歩いていったのがみえた。
私はその曲がり角まで歩いて行った。そこには駅前につながる一本の道があり、その道をいまの女性が歩いていた。意外にも彼女との距離が近かった。
それは私の知っている女性であった。
私は彼女のあとを歩いた。その道は彼女のほかに、二、三の人が歩いていた。
きゅうに変な気持ちになった。私の鼓動は速くなって、周囲の建物が陽炎のように揺れているようであった。おもわず電柱に寄りかかった。
私は建物を右手に触れながら歩いた。ガラス張りの美容院の店員が髪をカットしながら、こちらをみているような気がした。近くで犬の鳴き声がする。そうして、聞こえてくるのは踏み切りの音か、それとも私の幻聴なのか、そういった音が頭のうえで響いている。
もうそろそろ声をかけなければならない。
しかし、そうおもうだけで私の口はまったく開こうとはしなかった。頭上の踏み切りの音は激しくなっていった。
ふと、目の前に見覚えのあるマンションがあった。そこは彼女の住んでいるマンションだった。久しぶりに会うのが家の前なんて気持ちわるがられないだろうか。
しかたなく私は、その道をいったりきたりしていた。あいにくその道は人通りがすくなかった。美容院から若い男の店員がとびたしてきたとき、私は自分でもわけがわからず、近くにあったコンビニに避難した。
私は雑誌コーナーに立って、その男が通りすぎるのをまった。
彼女はまだマンションの前で立っていた。しかし、私はまだ彼女の側へいかなかった。
このままじゃいけない。私はコンビニからでて彼女と会う決心をした。
私はいかにも偶然に会ったような声で彼女に声をかけた。それはまずかった。彼女はおどけた微笑みを浮かべた。まるで出来の悪い子供にむけたような笑顔である。
それでも私たちは、気がつけばどちらともなく話しはじめていた。
「学校は?」
「夏休みなんだ」と私は答えた。
「病気はもういいの?」
「うん、すっかり良くなったよ」
私はそう答えながら彼女の顔をまぶしそうにみた。
涼しい顔の作りの彼女は、陽にあたったせいか白い皮膚に赤みがさしていた。そして笑うときはその赤みが頬のあたりに漂った。
私はいつも心のなかで彼女のことを「和風美人」と呼んでいた。
彼女をみつめたとき、私は彼女が変わったとおもった。なにが変わったのかはわからないが、いぜんよりも話しやすかった。
そうして、私は彼女の唇ばかりみた。華奢な肩ばかりみた。
私は病気のことは話そうとはしなかった。そんなことを話したところでどうにかなるものではない。そのかわり私は、タクシーに乗っていた背の高い女性の香水の匂いがきつかったことなど話した。そうして、その女性の乗っていたタクシーに銀紙に包まれたガムがすてられていたのを愉快そうに話した。
しかし、その銀紙に受けた印象は言わなかった。そうしたほうがいいとさえおもっていた。それを言わずにいると、あの銀紙が妙に忘れられなくなり、あの荒々しい気持ちが私のなかに残っているような気がした。そんなことを考えてはいけない。そのときから私は彼女の顔をまともにみられなくなっていった。
そういう私の変化に彼女は気がついていないようにみえた。
「家によってかない」
「すこしだけなら」
ほんとうはもっと外で話していたかったが、誘いを断って変な空気になるのもいやなので、私はそのまま部屋にはいったのだった。
翌日、私は彼女と散歩をした。私たちは散歩中ほとんど喋らなかった。
昔からお互いに気をつかわなくても気にならなかった。むしろ、それは心地よい沈黙であった。ときどきかすかな声が沈黙を破ったが、私たちはすぐに沈黙のなかに引き込まれていった。
「みて、あの小さな雲」
彼女の指差す方向に目をむけると、それは学校の校舎のうえに長ぼそい雲が三つ縦にならんでいた。
「パンケーキみたいじゃない」
それからは、彼女のマンションにつくまで、彼女の細くて長い指をながめていた。沈黙が私にそうさせた。
そうして、あたりまえのように彼女は私を部屋に誘った。私は快諾した。
「コーヒーいれてくるね」そう言うと、彼女はキッチンにいった。
部屋を見渡すと、デスクのうえに写真立てが一つ置かれていた。そこには彼女と私の知らない男が仲良く写っていた。それは昨日までなかった。
わざわざこの写真をみせるために部屋に呼んだのか。そんな空想をしていると、私は変に不快になった。そうして私は急に居心地がわるくなった。
「どうしたの?」
「ずいぶん部屋がかわったね」
「それだけ?」
「ちょっと煙草を吸ってくるよ」
私は顔を赤くしながらベランダにでた。
彼女の「それだけ?」を、私はコーヒーを飲むあいだや、帰宅中にもおもいだした。無邪気なようにもおもえるし、優しい忠告にも聞こえなくはない。
翌日、私が彼女のマンションを訪ねると留守であった。
私は一人で川沿いを散歩しようとした。しかし、つまらない気がしたので、すぐ商店街へひきかえした。
すると、私の行くさきに一人の見覚えのある女性が歩いているのに気がついた。
彼女は私がこの町に住んでいたときの恋人であった。彼女は快活な性格で、決して美人ではないが、男によくモテた。そういうわけで彼女のまわりにはいつも男が二、三人いた。
もちろん私もその性格には充分に惑わされたことがあった。しかしそれだけのことで、いまとなっては彼女のことなど気にもかけなかった。ただ彼女を取り巻いている男たちをみると、憐れでならなかった。
私はなんの気もなく彼女たちのあとを歩いていた。そのうち、むこうからやってくる人々のなかに一人の青年を認めた。
それは私が彼女と別れたあとに、ずっと彼女の側をつき添って遊んでいた男であった。挨拶でもするのかな。
私がそうおもっていると、彼女はこの青年にすこしも気がつかないように装いながら、そのまますれちがった。そのすれちがった瞬間、青年の顔はひょっとこのように歪んだ。それから青年は彼女を凝視していた。そのあいだもこの青年の顔は歪んだままであった。
その夜は横になって、なんどか元カノのことをおもいだしていた。彼女もわるいところばかりではなかった。私はその考えを払いのけるように「和風美人」を思い浮かべようとした。しかし、彼女たちのことをなにも知らないことに気がついただけだった。
しかし、翌朝になるとそんな疑問は霧が晴れたようにどこかにいってしまった。そうして、なんとなく晴れやかな気分になった。
午前中、わたしは長いこと散歩をした。そして、あるカフェにはいって、コーヒーを飲みながらしばらくやすむことにした。
こんなに爽やかな気分なら「和風美人」と会ってもくだらないことも考えないだろう。
私はカウンターの席にすわっていた。私は茶色いカウンターに頬杖をついていて、頭のうえでは軽快なジャズが流れていた。私はジャズを聴いているわけではなかった。私は無心に「和風美人」の姿を頭に描いていた。
それが普段よりも、いきいきと頭のなかに描けるのが心地よかった。
すると、店内のベルが鳴った。それから姿はみえないが、若い女性らしい快活な声が聞こえてきた。
「なにか飲もうかな」
その声を聞くと私はびっくりした。
「僕はもういらないや。お腹いっぱいだからね」
店内にはいってきたものを私は盗み見た。意外にも、女は元カノであった。それからもう一人は、私のみたことのないお洒落な男であった。
一瞬、私とその青年の目が合った。すると彼は、私から離れたテーブルの席にすわろうとした。
「カウンターのちかくにしましょう」と元カノが言った。
彼らは私のすぐ近くの席にすわった。
私はなんだかわざと彼女がそうしたようにおもえた。ジャズの曲が私の心をざわつかせた。
彼女はジャズがどこから聴こえてくるのか気になったのか、天井をチラチラみていた。
元カノがジャズについて話していた。その声はなぜか「和風美人」の声にそっくりになった。それは私の気のせいかもしれなかった。
お洒落な男性は上品な顔つきをしていた。全体の雰囲気もゆったりしていて、彼女を取り巻いている男達とはまったくちがっていた。
彼女を取り巻く男達と、この青年の対照は私になんとなくボヴァリー婦人を想起させた。
この頃になって元カノはお洒落な男を釣るだけの境地にいたったのかもしれない。……そんなことをいい気になって想像していると、自分の作った想像にうっかりひきこまれてしまうのではないかと不安になった。
はやくでていかなければいけない。しかしそうおもっても、私はなかなか店からでることができなかった。
ジャズはあいかわらず快活なリズムを刻んでいた。それをいくら聞いても、その曲が私のなかにながれることはなかった。しかし、その曲は私の心のなかの空想を熱中させそうでもあった。
私はゆっくり立ちあがって、覚束ない足どりでドアまでいった。
ドアをあけると、腕を絡ませたカップルが道を歩いていた。そのとき、うしろから元カノの高らかな笑い声がきこえてきた。
私はそれを聞くと、自分の背後から冷たい血を感じるのだった。
冷たい血。たしかにそうだ。私の受けもっている残酷な天使は、調子はずれな場面を私に用意するにちがいない。そうして、私が自分の受けもちの天使の職務怠慢に閉口していると、その天使はここぞとばかりに背後から私を刺すのだ。そうして、私の背後にはあの冷たい血がながれるのだった。
ある夜のことだった。
私は彼女のマンションからホテルの坂道を、ぼんやりした不安をかかえながら帰っていた。そのとき、前方の暗闇のなかから一組のカップルが近づいてきた。
男は携帯のライトで足元を照らしていた。ときどきその光を女の顔のうえにあてたりすると、暗闇のなかに真っ白な女のまぶしそうな顔がうかんだ。
私は坂道を登っていたので、それをみるにはほとんど見あげるようにしなければならなかった。そういう姿勢でみると、若い女の顔はやけに神々しくみえた。
そうして、男はふたたび携帯のライトを足元におとした。
私は彼らとすれちがいながら、彼らが身体を密着させているのをそのとき発見した。それから私は暗闇のなかでとり残されながら、なんだかわけのわからない興奮をおぼえていた。そして、私はすぐに死にたいような気になった。
そういう気持ちは、冷たい血が流れたあとによくあることであった。
そういった冷たい血の感情をまぎらわそうとして、その朝に私はそこらぢゅうを無茶苦茶に歩いた。そうして、知らない道にきた。
それは見覚えのない道で、私が歩いていた街全体が知らない場所だとおもわれるほどであった。
そのとき、私は自分の名前が呼ばれたような気がした。
あたりをみまわしたが誰もいなかった。また私の名前を呼ぶものがあった。今度ははっきりと聞こえたのでその声のほうを振りむいてみると、そこには家があり、二階の開いている窓から男が一人みえた。その男の顔をみると、私は一人の友人の顔がおもい浮かんだ。
彼は私を見ながら手招きをした。
それに応じるように私は家にはいった。
私が部屋にはいってもその友人は話しかけるわけでもなく、天井にむかって熱心に煙草をふかしていた。
私も話しかけづらい雰囲気だったためそのままでいた。
私がその奇妙な静けさのなか部屋をでていこうとすると、友人はポツリと言った。
「もっとゆっくりしていけよ、僕はもう故郷に帰らなければならないんだからさ」
「どうして?」
友人はそれに答えるかわりに、新しい煙草に火をつけた。その光景に私の目はしばらく惹きつけられた。
私は一人でホテルに帰って、昼食を食べようと誘ったさっきの友人がくるのをホテルのロビーでまっていた。私はホテルの庭に目ををむけて、咲いてある花をぼんやりながめていた。
隣のレストランから食器を用意する音がかすかに聞こえてくる。
私は突然たちあがって、ペンの置いてあったテーブルにすわりなおした。そこで私はペンをとった。しかし、紙がなかった。そこに備えつけてあったコースターにミミズのような字を無茶苦茶に書いていった。
カフェのジャズ
どんな快活な音楽でも
そこにジュリエットはいません
ロミオは余計に寂しくなります
ジャズが止まったら
お洒落な青年が笑っています
書いたものを読みなおそうとしたが、ミミズが踊っているだけでわからなくなっていた。
それでも私は、約束の時間に遅れてきた友人がきたときそのコースターを裏返しにした。
「なにを隠したんだ」
「なんでもないよ」
「ちゃんと知ってるよ」
「なにを?」
「この間、見ちゃったんだよ」
「この間?ああ、あれのことか」
「だから今日はおごりだよ」
「あれは、そんなんじゃないよ」
あれはただ彼女の部屋でお茶をしたあとに散歩をしていただけのことだった。ただそれだけだった。私はそのとき、彼女の「それだけ?」という言葉をおもいだした。そして、ひとり顔を赤くした。
「ところで、お笑いの方はどうするの」と私は平静を装って言った。
「お笑い?あんなのはもう辞めだよ」
「惜しいじゃないか」
「仕方ないよ。そういつまでも夢を追いかけてばかりではいられないからね。まったく月と六ペンスだ。いずれ、現実を追いかけなくちゃいけなくなる」
「そんなものなのか」
私はスープを飲みながら、おもわず自分自身のことを考えはじめた。もしかすると、自分と彼女がひとつもうまく進行しないのは、私が幻想を持てあまして、彼女のどんな些細な行動にも心理を読みとろうとしているからかもしれない。私はこれを信じたかった。
夢半ばで故郷に帰ろうとしているこの友人と同様に、自分も数日したら、なにもできずに自分の「和風美人」をおもっていながら、ふたたびここを立ち去らなければならないのだろうか。
午後になって、友人を駅におくってから私は彼女のマンションを訪ねた。ちょうど彼女は一人でお茶をしているところであった。
私が部屋にはいると、テーブルのうえに置いてあるアルバムをそっと閉じた。
「なにを見ていたの?」
彼女は照れくさそうにわらってそのアルバムをひらいた。そのあいだ、私の目のうちに昔の彼女の姿が鮮明な色を帯びて記憶されていくようであった。
そうして、彼女はアルバムから二枚の写真をとりだした。
それは二枚とも私の目をまごつかせるくらいに、撮影したばかりの新鮮な写真であった。その一枚は、この部屋でパジャマ姿の彼女がベッドでころんでいるものであった。
「友達が撮ってくれたの」
私は少しどきどきしながら、眼が悪い風を装ってその写真をみた。私はなんとなく写真に指をあてていた。そのとき私の指先がかすかに写真の頬に触れた。私は彼女に触れたとおもった。
すると、彼女はもう一枚の写真を私にわたした。
「でもこっちのほうが、本当の私に似ているとおもわない?」
そう言われてみると、私もそのほうが彼女に似ているような気がした。パジャマ姿のほうは私の空想のなかの彼女、「和風美人」にそっくりだと気づいた。
ゆったりした時間が、部屋のなかに流れていた。
これが、あんなにも待ち焦がれた時間だったのだろうか。
彼女からはなれているあいだ、私は彼女にたまらなく会いたくなる。そのあいだに、私は私の「和風美人」を勝手に作りあげてしまうのだ。すると今度は、そのイメージが実際の彼女と似ているのか気になってくる。それがますます私を彼女に会いたくさせる。
ところが彼女を前にすると舞いあがってしまうのだ。そして、私のイメージが現実の彼女に似ているのかという、あの重大な問題も頭のなかにあってもおもいだせないのであった。というのも、私が彼女の前にいる現実、おなじ空間にいることを一秒でも長く感じたいがために、私はあらゆる感覚を使い果たしているために、あの重大な問題をそのあいだだけ忘れてしまうからだ。
しかし、ぼんやりとではあるが私の前にいる彼女と自分の空想の彼女は全くべつの存在である気がしないでもなかった。
もしかしたら、頭のなかで描いている「和風美人」の持っているその白い皮膚は、いま私の目の前にいる女性には持っていないものかもしれなかった。
この写真が、私のそういう疑問をいくらかはっきりさせた。
夕暮れになって私はホテルへの薄暗い坂道を登っていた。すると横から得体のしれない黒いものが私を横切った。
私が不安そうに残酷な自分の受けもちの天使のことを思い浮かべながら、その得体のしれない黒いものをみた。それは一匹の猫であった。
私はその場にしゃがんで、猫に「おいで」と呼びかけた。すると猫は、私の顔をみると一目散に走り去った。
「臆病な猫だな」
そんなことを呟きながら、薄暗い坂道を慌てて走っていく猫のうしろ姿をみえなくなるまでみつめていた。