青葉雨
僕が6歳のとき、ママが死んだ。
あんまり悲しくて、涙がなくなるくらい泣いた。
「がん」っていう病気で、ママは頑張って戦ったけど、負けてしまったんだってパパが言っていた。
「でも、ママは最後まで諦めなかったよ…」
パパは涙を見せなかったけど、僕の手をきつく握りしめてとても寂しい顔をしていた。
春、桜が咲いて僕は小学生になった。
周りの大人たちは口を揃えて「学校は楽しいよ」って言ってたけど、どんな場所なのか僕はよくわからなかった。泥んこになって走り回ったり、ライダーごっこをしていた保育園のほうがずっと楽しいやって思ってた。
入学式の日は、パパが会社を休んで来てくれたけど、次の日から僕はひとりで学校へ行かなくちゃいけなかった。保育園の友達は、学校をはさんで反対側の子ばっかりだったから。
家の鍵をかけてのろのろと歩きだした。学校までは歩いて10分ぐらい。門が見えてくると先生が何人か立っていて、みんなに挨拶をしていた。僕はそれを少し離れたところからながめていた。タイミングがわからなかったんだ。
「どうしたの?」
声をかけられて振り向くと、若い男のひとが立っていた。知らないひとだった。
「1年生なんだね。緊張してるのかな」
優しい笑顔でそう言うと、僕の前にかがんだ。
「一緒に行ってあげようか」
─先生じゃ、ないみたいだけど…
学校に行きたいとか行きたくないとか思う前に、僕はこのひとなら一緒にいても大丈夫だと思ったので、うなずいて手をつないだ。背が高いのに指が細くて、でもとても温かい手だった。ママを思い出して僕はもう一度ぎゅっと握った。
「僕も今日からこの先にある大学に通うことになったんだ。もしかしたら毎日会えるかもね」
僕の手を優しく握り返してそのひとが言った。
「…じゃあ、明日も一緒に行こう」
思いきってそう言うと、お兄さんはにっこり笑ってくれた。
「いいよ。楽しみが増えたね」
お兄さんは僕の家がわかると、朝は迎えに来てくれるようになった。ほんの10分だったけど、話をするのが楽しみだった。
「学校は、楽しい?」
そう聞かれて言葉に詰まってしまった僕に、お兄さんはすぐに気づいたみたいだった。
「…僕もね、昔そうだったよ。友達がなかなかできなくて、休み時間は本を読んだり外の景色を見たりしてた」
「…寂しかった?」
「そうだね。そのときはよくわからなかったけど、高校でとても仲良くなった友達ができて初めて、あのときは寂しかったんだなって思ったよ」
─僕とはちょっと違うけど、みんなが学校が楽しいわけじゃないんだね…
学校でのことを誰かに説明するのは難しかった。
意地悪されてるわけじゃないのに、なぜか仲間はずれにされた気持ちになってしまうんだ。先生も友達も優しくしてくれるのに、僕だけ何かが違ってるというのをいつも感じていた。
─どうしてみんなは、笑っていられるんだろう?
─どうして僕は、みんなと同じようにできないんだろう?
ざわざわした教室は居心地が悪くてしかたなかった。
「…時々、どっかに行っちゃいたくなるんだ」
「先生には、話してみたの?」
僕は首を横に振った。
「なんて言っていいのか、わかんないよ」
「そうか…。僕の友達は、小学校の先生になるための勉強をしてるから、相談してみるよ」
お兄さんが優しく笑ってくれるだけで、僕は安心できた。このひとがいてくれたら、きっと大丈夫だって思えた。
でも次の日、僕は学校に行くのをためらっていた。
前の日にクラスの友達とちょっとしたことでケンカみたいになって、朝になってもまだそれがもやもやしていた。
『気持ちがすれ違っただけだから、お互いにごめんなさいしたら仲直りだよ』
先生はそう言ったけど、僕はクラスのみんなに嫌われたんじゃないかと思って、学校へ行くのが怖くなってしまった。
僕が悪い子だって思われたくなくて、パパには話せなかった。ママがいたら…また違ったのかもしれない。でもそれじゃ、パパがかわいそうだ。
そうやって心の奥にしまいこんだ言葉がたくさんあった。
お兄さんが来るまでにまだ時間があったので、家の裏手を走る電車を見に行こうと思って靴をはいた。昨夜降っていた雨はやんでいて、木の葉が緑色に輝いていた。木々のトンネルをくぐると、風に揺れた葉っぱのしずくがぱらぱらと落ちて朝陽にあたり、天気雨みたいになった。
「わっ、冷たっ」
お気に入りのTシャツが少し濡れたけど、きらきら光る葉っぱの間から木洩れ日が見えると、それだけでなんだか気分がすっきりしてきた。僕は線路脇の径で、次々に通りすぎる電車をずっとながめていた。
どのくらいそうしていたのか、遠くで声が聞こえた。ふたりの人影が見えた。
「諒くん!」
お兄さんがこっちに向かって走ってきた。
「おはよう」
僕はいつものようにのんきに挨拶をした。お兄さんは息を切らして僕の前に立つと、僕の手を取ってぎゅっと握った。
「…よかった。探したよ。心配したんだよ」
お兄さんは泣きそうな顔だった。
「昨日『どっか行っちゃいたい』なんて言うから…」
「だから近くにいるって言ったじゃん。焦りすぎだよ」
後から追い付いたもう一人がそう言って、笑いながら僕の頭をポンと軽くたたいた。その掌にお兄さんと同じ温かいものを感じた。
─このひとが、先生になるんだね
「ごめんなさい」
「先生も探してくれてるから、一緒に学校に行こう」
ふたりに両手をひかれて、僕は歩きだした。僕がいなくなって、寂しいと心配してくれるひとがいる。そう思うだけで心が軽くなった。
Fin




