クリスマスには花束と(9):漂着船調査 後半
「冠木君、小針さん、護衛をよろしくお願いします」
白衣の中里が丁寧に頭を下げた。助手で看護師の小笠原もそれに続く。
「よろしくお願いします。でも、私は自分の身は守れます。二人は何かあったら中里先生をお願いします」
そう言って小笠原は腰のホルスターに収まった九ミリ拳銃を軽く触った。その表情は真剣で何かを思い詰めているようでもある。
「大丈夫ですよ。俺も腕を上げていますし、小針さんもいます。それに船内のゾンビはもう全部倒されているみたいですから。気負わずにいきましょう」
「……そうね」
「ねえ、二人は古い知り合いなの?」
望と小針の関係に何かあると感じた小針がフランクに聞いた。小笠原は少し戸惑いながらも答える。
「冠木君には館山に来る前に一度助けてもらってるの。ホームセンターでゾンビに囲まれて動けなくなった私達を救出してくれた。彼がこなかったら私はあそこで死んでたわ」
「へえ。冠木君が一人で?」
「いえ、あの時は……」
「もう一人いました。奥山音葉って子が。俺のミスでゾンビに噛まれてしまいましたが」
小笠原が言いにくそうにしたので望が説明を加えた。
「それは……残念ね。さぞかし、勇敢な子だったんでしょうね」
小針が悲痛な顔で軽く頷く。一瞬だがその目が好奇心で輝いた。思いがけず音葉の右腕の経緯を知れて嬉しかったらしい。一方、音葉の死に責任を感じている小笠原は気まずそうに目を逸らしている。望は声をかけたかったが「気にしなくていいですよ」とは言いにくいので言葉を選ぶ。
「小笠原さん、犠牲になってしまった人達のためにも俺たちはしっかり生きましょう」
「そうね……」
何となく雰囲気が重くなってしまったので中里が年長者らしく落ち着いた態度で次の行動を促してくれた。
「さあ、みなさん。行きましょう。本張さん達は仕事を始めていますよ」
フェリーのエントランスでは本張隊が二人一組になって地対空ミサイルの入ったコンテナを外に運び出し始めていた。真庭は何か連絡を受けたらしく、船の地図を確認しながら部下達と何かを確認している。この場でじっとしてるのは望達だけだ。
「行きましょう。先生は俺達の後に」
望と小針は、中里を守りながら第四層にある医務室に向かった。
まずエントランスから窓のある展望デッキに入る。外がよく見渡せる大きな窓が壁一面に等間隔で並び、それぞれにゆっくりと風景を楽しめるように椅子とテーブルが設置されていた。椅子や机のいくつかは倒れており、床にはゾンビの死体が数体あった。いずれも二十代から三十代の成人男性だ。比較的最近ゾンビ化したようで、肌にはまだ張りがあり、がっちりとした体格や筋肉質の腕など生前の様子がはっきりとわかる。一体の男性ゾンビの胸には金属製の認識票が置かれていた。「JAPAN GSDF」の刻印と「SOUYA ONO」と名前があるので、新木二尉が見つけた陸上自衛官のゾンビだろう。おそらく、シェルターの護衛についていた隊員だろうが、中里と小笠原がいる前で小針とその話をするわけにはいかなかった。
中里がゾンビの死体の所で立ち止まり、デジタルカメラで撮影をしてから体を確認した。
「ゾンビ化して二、三日というところかしら。腕に噛まれた跡があるわね。これが原因で感染したのね」
「この遺体も腕に包帯を巻いています。こっちのも。おかしいですね。まるで意図的に腕をゾンビに噛ませたみたいです」
小笠原の言う通り、倒れているゾンビのほとんどが左腕を負傷していた。はっきりと歯に形に黒い血の跡があるものもある。
「噛んだゾンビは子供ね。身内がゾンビ化して、絶望したのかもしれないわ」
それほど珍しい話ではなかった。家族がゾンビ化してた場合、わざと噛まれて一緒にゾンビになっているケースは、特に子供がゾンビ化したの場合によくみられる。ただ倒れているゾンビ達は兄弟や親子というにはあまり似ていない。
展望デッキを抜けると、二等客室のあるエリアに入った。そこはマット敷きの広い部屋で仕切りのついた寝床が四十ほどあり、その半数近くに遺体があった。
「少しみてもいいかしら」
中里が客室に入り、一番近くにあった遺体を確認した。五十代くらいの男性で、作業着姿だったが首には金色のネックレス、指には宝石の嵌まった指輪をつけている。頭部には銃撃による傷があり、近くには封の開いた水のペットボトルと空になった錠剤のブリスターパックがあった。中里は遺体と薬のパッケージを確認する。その隣に小笠原も身を屈めた。
「先生、どうですか?」
「薬を飲んで命を絶って、しばらくしてから銃で頭を撃たれたみたいね。殺されたのではなく、自殺でしょうね。使った薬は……多分睡眠薬に近い成分のものだわ。この人達は眠るように亡くなったんだと思う。その後で念のために誰かが頭部を撃ったんでしょうね」
中里の言葉を裏付けるように、客室に横たわる遺体の顔は額に弾痕が残されているとはいえ、どれも穏やかだった。家族連れらしい男性と女性、それに十歳くらいの少年が一つの布団で抱き合うように倒れている。ある若い女性は手に十字架のペンダントを握ったまま、別の男性は手に栓の開いたウイスキーの瓶を持ったまま亡くなっている。共通しているのは遺体の側に飲み物のペットボトルや水筒があり、空になった薬の容器があること。この世界に絶望し、安楽死を選んだのだろう。
中里が男性のシャツの袖を捲った。そこには治りかけた小さな歯形がついていた。
「この人もゾンビにわざと噛ませたようね」
「一体何のために?」
「どうしてかしら。結局薬を飲んで死を選んでいるわけだから自殺、ではなかったと思うのだけど」
中里は少し考え込む。
「もしかしたら、生きるために噛まれたのだとしたら、抗体を作ろうとしたのかもしれない。実際にゾンビに噛まれて少量のウイルスを取り込むことで抗体を作ろうとしたのかも」
「それを本物のゾンビでやったんですか?」
「推測よ。普通はそんなことはしないわ。でも船で何ヶ月も漂流して、食料も無くなって、最後の手段に賭けてみたのかも知れないわね」
「それで全滅ですか? そんなことをしなくても館山に来ればみんな助かったのに」
悔しそうに小笠原が救急箱のストラップを握りしめた。その会話を聞いていた小針が客室の奥に進み、ちいさな女の子の近くに落ちていた熊のぬいぐるみを手に取った。
「だとしたら、やるせないですね」
そう言って、ぬいぐるみを女の子の側に置く。小笠原と中里は部屋を見渡し、ため息を吐いた。
「できれば埋葬してあげたいですがね……」
「今は仕事を優先しましょう。私達には、もうこの人達にしてあげられることは何も無いわ。冥福を祈るくらい」
四人は手を合わせ、頭を下げてから客室を後にした。
その先にも複数の客室があり、そのどれにも遺体があった。気が滅入った状態で先に進むと、レストランエリアが見えてきた。フードコートのような広いスペースにお菓子やジュースの自販機も見える。医務室はレストランエリアの手前にあった。
扉の上に「医務室」のプレートがある。扉は普通の片開きのドア。窓がないので中の様子は窺えない。一応、海上自衛隊の新木達が調査して異常なしとなっているので安全なはずだ。
「俺が先に中に入ります。小針さん、二人を頼みます」
小針が手斧を構え、小笠原も拳銃を両手で保持する。望は小銃を構え医務室のドアの前に立った。特に打ち合わせはしていなかったが、小針が壁に背をつけ、ドアノブに手をかける。望が頷くと扉が開けられた。小さな部屋だ。ベッドが一台と診察用の机、金属製のゴミ箱、椅子が数脚。壁には備え付けの棚があり、中に医療品が入って居る。部屋は整っている。動くものはない。ゾンビが隠れていそうなスペースもほとんどない。望は部屋に入りベッドと机の下を確認する。小さな空き瓶がいくつか落ちている以外、特に何もなかった。
「オッケーですよ。入ってきてください」
銃に安全装置をかけ、外にいる中里達を呼ぶ。中に入ってきた中里と小笠原は棚の中を確認し始めた。小針は部屋の入り口に留まり、こちらに背を向け廊下の警戒をしている。望は小銃を背中に担ぎ、二人を手伝って薬の箱や消毒用アルコールなどを診察台の上に並べた。小笠原が封の切られていない解熱剤の箱を手に取った。
「ほとんど使われていませんね。鎮痛剤や解熱剤も残っています。普通はゾンビ化への対処療法として使うはずなのに」
ゾンビ化の前には高熱を発する。無駄だと分かっていても、その苦痛を和らげるために解熱剤を投与することは多い。だがフェリーの乗客は船内の薬をほとんど使わなかったようだ。
「やはり意図的に噛まれたんでしょうね。何らかの意図で噛まれ、失敗し、ほとんどの生存者は安楽死して、残った人はそのままゾンビになった……。一体何があったのかしらね」
「薬が残っているのは私達にとってはありがたいですね。まあ、キャンプでは余り気味ですけど」
小笠原は封の切られていない薬をまとめて自分のバックパックに入れた。
「これは何かしら」
中里がベッドの下に落ちていた小瓶に気がついた。拾い上げ、観察するために窓際に持っていく。
「インフルエンザのワクチンに似てるわね。ラベルは消えかかっているけれど……ビタミン剤ね。私が知っているものとは少し違うけど」
「ここに使用済みの注射器もあります」
小笠原が金属製の医療廃棄物のゴミ箱の中に注射器を見つけた。
「少し小さいわね……他には残っていないのかしら」
「ないですね。私が研修で見たビタミン注射はもっと大きかったです。珍しいタイプなんですね」
「避難する際にどこかで手に入れたのかもしれないわね。九州方面から来たそうだから中国や韓国の物かも知れないわ」
中里は開いた小瓶をゴミ箱に入れた。それは望が以前見た本物のワクチンに似ていた。もしかしてと思い医務室の入り口に立つ小針を見た。彼女は部屋の中に興味なさそうにしていたが、中里と小笠原が医務室置くの棚の中を調べ始めたのを確認するとポケットから何かを取り出して廊下の奥に投げた。甲高い音がし、続いて何かが転がる音がした。小針が姿勢を低くし腰の手斧を構える。物音に中里達が身を固くする。
「何事ですか?」
「わかりません。廊下の先で物音がしました」
小針が部屋から身を乗り出し、先ほど自分が何かを投げた廊下の先を確認する。
「ゾンビは見えません。冠木君、少し調べた方が良くない?」
そこで望はようやく小針の意図を察した。医務室を出て船内を調査したいらしい。そのためにわざわざ物音を立てたのだ。望もできることならばシェルターの痕跡がないことを確認したかった。中里達を置いて行くことは少し不安だが、船のゾンビはほとんど片付けられているし、医務室には鍵もある。小笠原も拳銃で武装しているのでよほどのことがない限り問題はないだろう。
「中里さん、小笠原さん、俺と小針さんで廊下を見て来ます。俺達が出たら内側から鍵をかけていてください」
「真庭さんに連絡は?」
「こちらから入れます」
「わかりました。気をつけてください」
望は小笠原に中里のことを託すと医務室を出た。内側から鍵が掛かった事を確認してから通信機を操作し真庭に連絡を入れる。
「真庭さん。F班冠木です」
『冠木、真庭だ。どうした』
真庭達は走って船内を移動しているらしく、複数の足音と装備品が揺れる音が混じっている。
「不審な物音がありました。場所はレストランの方です」
『そっちもか。こちらは機関室に向かっている。ゾンビが出た』
「下も上もゾンビですね。上はF班で対処します」
『中里先生は?』
「医務室に鍵をかけて避難してもらっています」
『了解だ。無茶はするな。本張隊を応援に向かわせる。通信終わり』
無線が切れると望は小針と共に無言で移動を開始した。真庭達が別のゾンビの対応をしているのならしばらくは調査の時間があるはずだ。まずレストランに入る。当然だが異常はない。小針はあるテーブルの近くで身を屈めると落ちていたコップを拾い上げた。食堂で見かけるような強化ガラス製のガラスコップだ。物音の正体はソレらしい。何か言おうとした望に先んじ、彼女がやや大きな声で言った。
「これが原因ね。テーブルの上にあったものが船が揺れて落ちたのかしら」
無線は受信モードだがどこに誰がいるかわからない。演技を続けた方が無難だ。
「ゾンビでなくて安心しました。念のためもう少し調べましょう」
望は本当に物音があった想定でレストランを見渡す。学食のような場所で、食券の自動販売機、壁には料理の受け渡し場、フロアにはテーブルや椅子が綺麗に並べられていた。受け渡しカウンターの横には八月末までの沖縄フェアのポスターが貼られていた。
「……見た感じ異常はなさそうですね」
奥に進むとテーブルの影に一体の遺体があった。スーツ姿の女性で年齢は30代半ばくらいか。ついさっき倒されたらしく、かっと見開かれた目の上には銃弾の跡があり、頭の下には灰色の液体が黒い髪を汚していた。腕には先ほどのゾンビと同じように噛まれた跡がある。やはり意図的に感染したようだ。
「少し調べさせて」
小針は女性の遺体の側に跪くと、じっと顔を見てた。完全に死んでいることを確認したからか、遺体に手を伸ばし服の中を探り、それから上着を脱がし始めた。いつまでも見ているのはその女性に失礼だと思い、望はレストラン内をもう少し調べることにした。ポスターによると沖縄フェアでソーキそばとラフテー定食が提供されていたらしい。館山の食事に沖縄料理が出たことはないので少し食欲をそそられる。そしてそんな風に感じてしまった自分を望は少しだけ嫌悪した。死が日常的過ぎたのかもしれない。気を取り直し調査を続ける。テーブルとイスは二十セットほど。料理の受け渡しカウンターの奥には調理場が見える。カウンターから調理場を覗いて見る。窓からの明かりが届いていないので小銃にライトを装着し点灯させた。
ふいにガタっと音がした。調理場の奥からだ。望は安全装置を解除し、銃口を音の方に向けた。
「今の音は何?」
小針が立ち上がり、手斧を手にカウンターの所までやってきた。今度は本気の戦闘態勢だ。
「今、船って揺れましたか?」
「少なくともさっきテーブルの上に戻したコップは倒れていないわ」
「ゾンビか、生存者か……」
再び物音がした。くぐもっていてよく分からないが何かが落ちたというよりは柔らかいもので固い物を叩いたような音だ。
「調べるわよ」
「わかりました。俺が先に、えっ……ちょっと小針さん!?」
小針が勝手にカウンターを飛び越して調理場に入ってしまった。望も慌てて後を追う。調理場はそれほど広くなく、料理をするというよりは冷凍のメニューを温めたり、最後の仕上げをするだけの場所のようだ。壁一面に電子レンジが並んでいる。見渡した限り、ゾンビや生存者はいない。だが、調理場の奥にある扉が開いている。上には食料倉庫とあった。小針は躊躇無く倉庫の中に入っていった。
「まったく!」
小針を追って倉庫に入る。そこは窓が無く白い壁に囲まれた小さな部屋でスチール製のラックがいくつも並んでいた。普段は食料が保管されていたのだろうが、今はどの棚も空っぽで、かろうじて塩と胡椒の袋が置かれているだけだった。人影はない。だが物音は部屋のどこからか聞こえてくる。
「冠木君、あれ」
先に入っていた小針が壁の一ヶ所に目を向けた。そこにはスチールラックが一つ、他とは少し違う角度で置かれており、棚には鍋や調理器具、ぞうきんやエプロンなどが乱雑に詰め込まれていた。他の棚は空っぽなにに一つだけ物で一杯だ。
「不自然ですね」
「あの後ろ、扉がない? 銀色の」
確かにライトを向けると鍋やフライパンの奥で何か面積の広い物が光を反射した。小針は棚まで移動すると、一番大きな鍋を下ろした。後ろの壁が露わになり、鈍い銀色と温度計のようなものが見える。さらにラックの上を片付けると大型の冷蔵庫の扉が出てきた。小針が扉をノックすると中から何かがぶつかる音が返ってきた。
「中に何かいますね」
「生存者かしら」
「可能性はあります。ただゾンビかもしれません。業務用の大きな冷蔵庫に閉じ込めるってよくありますから」
「いずれにせよ調べた方がいいわね」
「ですね」
望と小針は載せられたいた物を他の棚に移し、ラックを横に動かす。小針が冷蔵庫の取っ手に手をかけた。望はドアの正面に立ち、小銃を構えた。
「行くわよ」
小針がゆっくりとドアノブを押し下げる。大きな音がして扉のロックが解除された。分厚いドアがゆっくりと動きはじめる。何か飛び出して来る気配はない。重厚な銀色の板が百八十度開くと、真っ暗な闇が現れる。生暖かい空気に混じった腐った牛乳のような臭い。ゾンビの気配だ。望は直ぐに射撃できるよう引き金にかけた人差し指に意識を集中させた。ライトの明かりの中で白い影が動く。
「えっ?」
光の中に人影が現れる。それは白い服を着た十四、五の少女のゾンビだった。長い黒髪にほっそりとした体つき。干からび、げっそりと痩せた顔面で白く濁った眼球と涎をしたたらせた口がライトの光を反射してギラついていた。身につけているのはSF映画に出てくる宇宙船の制服のような服。成田シェルターの住人が身につけているものと全く同じだ。そしてそのゾンビの右手は白い包帯で覆われていた。
「音葉?」
よく見れば全くの別人だ。だが望は思わず引き金から指を離してしまっていた。それを好機と捉えたのか、少女のゾンビは牙を剥いて望に襲いかかる。動揺の収まらない望は反応が遅れ、慌てて発射した小銃弾はゾンビをかすめ背後の何かに命中した。
「冠木君、あぶない!!」
小針が左手で望の襟をつまむと無理矢理扉から引き離し、飛び出してきたゾンビの頭部に手斧を叩きつけた。刃が半分ほどめり込み、少女ゾンビは「ぎぇっ」と悲鳴を上げ、腕を突き出したままの姿勢で倒れた。小針が手斧を抜き一歩下がる。ゾンビは立ち上がろうともがいている。望は頭部に小銃弾を二発撃ち込んだ。甲高い銃声が狭い食料庫に響き、その残響が消える前に少女のゾンビは完全に動かなくなった。直ぐに銃口を冷蔵庫の暗闇に向け、別のゾンビに備える。だが何かが襲って来ることはなかった。戦闘態勢を解き、小針に感謝する。
「小針さん、助かりました」
「この子は違うわ」
「わかっています。ただこの格好が」
「そうね。背格好が少し似ているかもしれないわね」
小針は一度調理場やレストランの方に目を向け誰もいないことを確認すると少女のゾンビを調べ始めた。まず腕に着けていたスマートウォッチのような端末を外し自分のポケットに入れる。それから服をチェックし、他の持ち物がないことも確認する。
「身元がわかりそうな物は持っていないわね」
その時、冷蔵室の奥で何かを引きずる音がした。
「もう一体いたの?」
小針がまだ灰色の液体がしたたる手斧を構える。
暗闇の中からもう一つの人影が床の上に現れた。今度は中年男性で、服装はジャケットにジーンズと普通だった。動きは鈍く床の上を這うように移動している。完全に灰化はしていおらず、右目は黒く、顔の一部にはまだ血色が残っていた。その脚からは灰色の液体が流れている。少女ゾンビを外れた小銃弾が命中していたらしい。
「俺が止めを」
望が狙いを定めた時、中年男性ゾンビの黒い目が望を捉え、その口が動いた。
「……、たす、け、って」
「!?」
「たす、って……たす……け」
「しゃべるゾンビか」
珍しいが前例がないわけではない。笑うゾンビ、叫ぶゾンビ、泣くゾンビ、声を使って人間を惑わせたり仲間を呼ぶタイプだ。時には数キロ先のゾンビをおびき寄せることもある。ある程度知能が残っているので普通のゾンビよりも危険な相手だ。すぐに引き金を引こうとしたが小針がそれを止めた。
「待って。この人は。まだ意識がある」
「意識?」
「情報が引き出せるかもしれない。聞こえますか。何があったんですか」
「いわ……いわ……たったった……わたし……いわた……。しぇる…た……ぜんめ……つ。にげて……きた……娘」
そのゾンビは何かを話そうとし、望達の足下に倒れている少女のゾンビを見つけ叫びだした。
「あああああああっ、あああああっ、ああああぅ。みいいな。ああああ、な、みなああああ。おまえ、たい、こ、ろした、のあ、のあああああ!!」
中年のゾンビはまるで怒っているかのように望達に襲いかかろうと腕を伸ばした。だが這いずった状態に加え動きも鈍いので難なくかわされる。
調理場の方から複数の足音がした。応援の本張隊が来たのか。
「冠木! 無事か」
しかし聞こえてきのは真庭の声だった。それを聞いた小針が手斧をゾンビの顔面にに振り下ろした。額の辺りに命中し、ゾンビは動きを止める。小針はさらに三度、手斧をを叩きつけ、ゾンビの頭部は顔つきがわからないくらいぐちゃぐちゃになった。
「小針さん!? もう十分ですって」
望が腕を掴むと、小針は急に怯えたような表情を出した。
「ごめんなさ。私、動揺しちゃって」
そこに真庭達がやってくる。
「二人とも無事か!」
銃を構えた真庭達、陸上自衛隊が食料庫に入ってきた。倒れた二体のゾンビを確認し、二人の隊員が望達を通り越し冷蔵庫の中を捜索する。
「冷蔵庫内、クリア」
上岡の報告を聞き、真庭が銃を下ろす。それから望と小針が無傷なのを確認し安堵した。
「冠木、小針さん、無事で良かった。すまない私のミスだ。捜索を急ぎすぎた」
「いえ、俺達は大丈夫です。機関室のゾンビはどうなりました?」
「そちらは対処済みだ。しかし少人数での探査には限界があったな。このフロアに君達がいてくれてよかった」
真庭は床に倒れたゾンビと少し怯えた様子を見せる小針、そして彼女の手斧を見た。
「二体とも小針さんが?」
「はい。俺が少し油断をしてしまって。お陰で命拾いをしました」
「いえ、私も必死で。冠木君がいてくれたからできたんです」
そう言う小針は死に物狂いで戦った後に急に正気に戻ったような様子を見せていた。噴火前は役者だったのかもしれないと望は心の中で思った。
真庭は白い服を着た少女のゾンビに目をとめた。
「ここにいたのは二体か? 冷蔵庫の中にいたのか」
「そうです。あの女の子のゾンビとこの男性です」
真庭は少女ゾンビの横に膝をつき、死体の顔を確認した。すぐに立ち上がるかと思ったがしばらくそのままの姿勢でいる。
「真庭さん、どうかしましたか?」
「いや。この子はゾンビ化してから日数が経っているようだ。船で最初の犠牲者だったのかもしれないと思ってな」
そう言って倒れた中年ゾンビの死体の顔にも目を向ける。小針に破壊されて見るも無惨だが真庭は眉一つ動かさず肌の状態を確認した。
「こちらはついさっきゾンビ化したようだ。なぜ船に乗っていた生存者はこの少女ゾンビを殺さずにいたのか。この男性はゾンビがいる冷蔵庫にわざわざ逃げてきたのか? それとも男性が隠れていた場所にゾンビが来たのか?」
「それはないと思います。この冷蔵庫、棚で隠されていましたから」
「そうか。どうりで新木達が見落としたはずだ。しかし謎は残ったままだな」
真庭はゾンビの死体から離れた。疲れているらしく表情が暗い。
「冠木、小針さん、我々はもう少しこの場を調査する。君達は中里先生と合流しろ」
望と小針はわかりましたと返し、食料庫の外に出た。