幕間 成田の音葉(4の1)
十二月最初の日曜日。
奥山音葉は成田シェルター内の第一層にある搬入用エレベーターホールで人を待っていた。工場区域に近い場所なので休日になると人はほとんど通らない。耳をすませば空調設備のファンの音がかすかに聞こえた。規則正しい機械音は空気の入れ換えが正常に行われている証だ。
時間を確認すると待ち合わせまでまだ少し時間があったので音葉は自分の服装は見直した。
SF映画の衣装のような白い上着とズボンはクリーニング済み。左腕にはスマートウォッチのような個人端末、右腕は服と同じ素材の白い長手袋で指先まで覆っている。こちらも洗濯済みだ。髪はいつもよりも丁寧に整えたし、眞嶋に教えてもらった簡単な化粧をし、手土産も持ってきた。時計を見ると一分も経っていない。
(柄にも無く浮かれてる?)
そう自問自答して気を引き締まる。期待しすぎると裏切られた時の失望も大きくなる。このシェルターに来てから思い通りに物事が進んだ事はほとんどなかった。
通路から足音がした。笑顔を隠しきれないまま音に集中すると待ち合わせている針条良子ではなかった。もっと歩幅が大きいし力強い。現れたのは三十代くらいの男性だった。ホールに誰かいることに気がつき、挨拶をしようと口を開きかけ、それがあの奥山音羽だと分かると足を止め、急いで回れ右しホールから出ていった。音葉は足音が聞けてからため息を漏らす。
「これで五人目……アウェー感」
シェルターで暮らし始めて既に三ヶ月が経過した。仕事も始め、わずかながらシェルターの運営に貢献しているつもりもある。普通なら、他の住人と同じようにここが第二の故郷になっているはずだった。だが現実は、いつまで経っても音葉に居場所はなかった。
休日なので人踊りは少ない。それでも工場区画へ用事がある人や人気のない場所を探しているカップルなどが時折通ることがある。半分くらいは先ほどの男性と同じように引き返し、残り半分は駆け足で通過していった。友好的に挨拶してくれる人は一人もいない。このシェルター内で音葉は常に余所者で厄介者で異物だった。
また一人、別の足音が近づいてくる。今度は女性だが良子にしては軽い。通路から顔を出したのは年配の女性で、ホールに足を踏み入れこちらを見ると目を大きくした。そしてわざとらしく「あら、そういば用事を思い出したわ」と独り言を言いながら引き返していった。
「はあ。十分前行動も考えものか。こうも邪険にされるのなら時間ぴったりに来るべきだった」
独り言で年配の女性が去って行く足音を上書きする。約束までは後三分。わずか三分とはいえ他人の悪意や敵意、嫌悪感を浴び続けるのは気が重く、自然と目線が床に落ちた。空調とは違うモーター音がし、病院のようなリノリウムの床を清掃ロボットが通過した。たとえロボットでも目の前を通ってくれる存在が少しありがたかった。
それから三組に引き返えされた後、待ち合わせ時間ぴったりに知っている足音がした。名前を呼ばれ顔を上げると良子が笑顔で近づいてきた。
「こんにちは。待たせちゃったかしら」
「こんにちは良子先輩。ついさっき来たところです」
「嘘。その顔、結構待ってたでしょ?」
「そうですか?」
感情を隠すのは得意だ。ピアノの発表会でも、シェルターの中でも、緊張や失望は顔の皮膚の一ミリ下に押しとどめていたつもりだった。
「だって目が寂しそうだもの。ごめんね。本当はもう少し早く来るつもりだったんだけど、これを用意してたら遅くなっちゃって」
良子が手にした布製トートバッグには二本の透明なボトル入っていた。中には水のような液体が入っている。
「それはなんですか?」
「何だと思う? 職場の機械を借りて炭酸水を作らせてもらって、そこに砂糖とレモンを入れたの」
「砂糖とレモン……もしかしてサイダーですか?」
「正解。小学生の時に作ったのを思い出したの。音葉がお菓子を持ってくるって聞いてたから私は飲み物をって。それで、どんな物を持ってきたの?」
良子は音葉が左手に提げている手提げ袋を覗いた。中には大きなタッパーウェアがある。
「試作品の米菓です。眞嶋さんに今日のことを話したらくれました」
「試作品? もしかしてまた激辛のアレ? 苦くて辛くてざらざらした罰ゲーム」
「流石にあれは持ってきません。別のお菓子です。でもまだ部屋にありますからいつでも言ってください」
「遠慮しておくわ」
先日、ストレス軽減効果のあるという激辛せんべいが試作されたのだが、ごく一部の辛党を除き大不評だった。住人に配る予定も急遽中止となり、二千枚近い煎餅が在庫になってしまった。しかしシェルターでは資源の廃棄は禁じられているので、一枚残らず関係者に配られ、音葉も上司の眞嶋から五十枚ほど押しつけられていた。ちなみにその分通常のお菓子の配給が減らされている。音葉は三枚食べてギブアップしており、まだ四十枚以上が部屋に残っていた。ちなみに良子も一枚食べくれたのだが二枚目はなかった。
「今日は食料工場が名誉挽回でつくったライスチップスを持ってきました。ポテトチップスのお米版で、試食したらちゃんと美味しかったです。量が少しなので足りなくなるかもしれません。今日は何人くるんでしたっけ」
その質問に良子は音葉から視線を外し天井を見上げた。
「うーん。一応、十人の予定。でもまあ、色々あるだろうから八人くらいかも。みんな音葉に興味はあるんだけど親に反対された人もいるらしくって。直前のキャンセルが何人か出るかもしれない。その時はごめんね」
「ライスチップスは二百グラムしかないのでそれくらいの方がいいです」
そこにニ十代くらいの男性がエレベータホールに入ってきた。良子が半身で音葉を隠そうとするが間に合わず、彼は憎しみを込めた視線をぶつけ、敵意を込めて「ゾンビ女が」と吐き捨て、舌打ちをしてホールを通過していった。
「……」
音葉は胸に太い針が突き刺さったような心の痛みを感じたが顔に出さない様に頑張った。だが感情を押し殺すのは得意だとはいえ、痛いものは痛い。じっと石像の様に固まる音葉を見た良子が男を追いかけて文句を言おうとしてくれた。だが手提げ袋で進路を塞いで止める。
「いいんです。いつもの事ですから」
「いいことないでしょ。音葉はゾンビじゃないんだから」
「……あの人は、奥さんをゾンビが原因で失ったんです。怒りのぶつけ先が欲しいんです」
「知ってるの?」
「前にも同じ事があったので。データベースで調べさせてもらいました。このシェルターに来る前にゾンビに襲われて……すみません」
「どうして謝るの?」
「良子先輩も家族を亡くしているのに」
「私の事は気にしないで。彼を殺したゾンビを恨んでないわけじゃないけど、あなたはゾンビじゃないって知っているから。私は音葉の方が心配」
「私は大丈夫です」
「でもさっきから笑ってないわ」
「ちょっと無愛想なくらいでいつも通りなんです。昔から」
「冠木君に対してもそうだったの?」
望の名前を出され音葉の目が宙を泳いだ。
「……まあ、望といた時はもう少し、感情的だったかもしれません。怒っていた時間の方が多い気がしますが」
そういう音葉の表情に笑顔が戻り、良子も微笑む。
「その顔の方がかわいいわよ。これから会う人達にもその調子でね」
「成高会、でしたっけ」
「そう。正式には『成田シェルターにいる本当なら高校生だった者たちの会』。みんな同世代だから安心してね」
成高会はシェルター内にいる高校生が集まって作られた自主サークルの一つで定期的に集まって遊んでいるそうだ。シェルター内では中学までの教育制度しかないので正確には元高校生、現在は一番若い労働者ということになる。
音葉の職場はシェルターの運営に関わるハイクラスの人間が多いため、同世代と交流する機会はほとんどなかった。日光浴中や通路ですれ違う事はあっても大抵は敬遠される。露骨に嫌われてはいなくても好かれていないのは確かで、正直、今日の集まりに誘われた時も断ろうかと思っていた。だがシェルター内で居場所を作ることは望のためにもなるし、味方を増やすためにも同年代の友人を増やすべきと上司にも言われていた。
良子によると会場は成田シェルターの第一層にあるレクリエーションルームの一室。事前予約制で、今回は成高会が二時間ほど借りていた。気を利かせてくれたらしく、レクリエーションルームの中でも外れに位置している部屋が押さえられており、搬入用エレベーターにも近かった。
ホールを出て一分も経たない内に目的地の到着した。扉がありその横のモニターに「成高会 十四時から十六時」と表示されている。
いざ扉を前にすると足が重たくなった。部屋の中には十人前後がいる。もし一斉に敵意を向けてきたら自分はポーカーフェイスを保てるだろうか。大人に嫌われるのは慣れたが、同年代にまで嫌われたらかなり応える。そんな音葉の背中に良子が軽く手を置き扉に向かって後押しする。
「大丈夫。今日いる人は音葉と会いたい人だけだから。それじゃあ開けるわよ?」
良子が壁センサーに個人端末を近づけるとロックが解除され、ドアが開いた。旅館のような作りで玄関のように靴を脱ぐところがあり、一段上がった板張りの小さな前室にトイレと洗面所への扉があり、そして奥には襖で区切られたメインの部屋があった。昔、修学旅行で泊まった大部屋を思い出す。襖の向こうで人が動く気配がした。少し硬い感じで嫌な予感がする。
良子が襖を開けるとシェルターでお馴染みの畳敷きの部屋が現れた。壁は土壁風、側面照明は障子風、全体的に明るく、い草の匂いがした。中央には大きな背の低い長机、左右に座布団、部屋の奥には一組の座椅子に挟まれた座卓もあった。二十人くらいは集まれそうな大部屋は、しかしがらんとしていた。中にいたのはわずかに六人だった。
「ええと……みんな遅れてる?」
戸惑う良子に近い所に座っていた短髪の少年が首を横に振った。
「これで全員だ」
「六人だけ? 大林くんや松竹くんは?」
「これないってさ……急用で」
部屋にいたのは男長机についている男子一人と女子三人、奥の座椅子に男女が一人ずつ、合計六人。しかも長机の少女達は明らかに音葉を歓迎しておらず「本当に来た」とか「信じられない」と聞こえる声で陰口を言っていた。短髪の少年は少女達に困った顔を向けてから立ち上がり良子の後ろにいる音葉に目を向けた。
「ええと、奥山音葉さん、だよね。ようこそ成高会へ」
短髪の少年の笑顔はぎこちなく、その視線は音葉の顔と右腕に行き来していた。一応会釈すると、少年は座っている少女達を気にしながら「さあ、中に入って」と言った。
どうも歓迎されている様子はない。念のために良子を見ると、彼女は少し眉を顰めながらも頷いた。音葉は覚悟を決め、敷居をまたいで足を踏み入れる。先ほどの短髪の少年が前に出てきて左手を差し出してきた。
「僕は徳永蒼真。友達はソーマって呼んでくれてる」
「奥山音葉です。よろしく」
音葉は手提げ袋を床に置き、左手で握手を返そうとした時、長机についていた三人の少女の一人が声を上げた。
「やめときなよ、徳永。ゾンビが感染るかもしれないじゃん」
黒い綺麗な髪をした少女だった。年齢は多分高校二年か三年くらい。服装はシェルターの標準服だったが、和服が似合いそうで和風美人だ。だがその口から飛び出した言葉は刺々しい。
「イズミ、失礼だぞ」
ソーマと名乗った少年が少女を注意した。イズミという名前らしい。
「その子が半分ゾンビなのは本当でしょ?」
「影響はないって医者と研究者が言ってる。それに彼女が来てから何ヶ月も経ったがシェルター内で感染者は出ていない。大丈夫だろ」
「今日まではね。でも明日何か起こるかもわからないじゃない。シェルターの大人も徳永も、もっとリスクを考えるべきよ。そんな女、さっさと追い出すか牢屋にでも入れておけばいいのに」
「それは言い過ぎだ」
「あの、」
二人の言い争いに音葉が割って入る。
「お邪魔なようでしたら帰ります」
「いや奥山さん、せっかく来てくれたんだし。こっちにきてよ」
「さっさと帰るべきね。ばい菌をまき散らす前に消えてよ」
正反対の答えをする二人。失望したが驚きはしなかった。こういうパターンも予想していたし、追い帰されたら読もうと思っていた資料も部屋に用意してある。一人でライスチップスをつまみながら本を読むのも悪い休日の過ごし方ではない。ソーマとイズミに一礼し、靴を履こうしたのだが良子に右腕をがっちりと掴まれた。
「ちょっと待って」
良子の行動にイズミや他の少女達が息を呑む。
「あんた正気なの!?」
「だから大丈夫なんだってば。イズミ、話が違うじゃない。会いたくないなら来ないって約束だったでしょ。わざわざ来て邪魔するなんて」
珍しく良子が声を張り上げ、広い部屋にしっかりと響く。
「はあ? 私だって来たくなんてなかった。徳永が行こうなんて言うから」
「いや、俺は……個人的に色々と興味があって」
「ゾンビなんかに興味を持ってどうするのよ。大体、お父さんに反対されてたんでしょ。知れたらただじゃ済まないわよ」
「うっ、それは言わないでくれよ、頼むから」
「ならさっさとここから出ましょう。いい? 私は幼馴染のよしみで心配してあげてるの」
「わかってる。わかってるから……でも少し話を聞きたいことがあるって」
「はあっ? 全然分かってないじゃない」
どうやらソーマはイズミに弱いらしい。彼が何か言い訳を付け加えようとした時、部屋の奥でダンっと何か硬い物が打ち付けられる音がした。
「ちょっとうるさい」
部屋の奥にいた別の少女が座卓の上でコップを握りしめている。その前に座っている眼鏡の少年が布巾で周りを拭いているので叩きつけた拍子に中の液体がこぼれたらしい。
「イズミ、この部屋、二時間しか使えないのだけど」
「はあ? 何が言いたいのよ」
「奥山に用がないならさっさと出ていけと言ってる。それに、本当に感染が心配なら奥山と同じ空気を吸ってるがいいのか?」
「……!! 言われなくても。徳永、ヤマッチ達がカラオケにいるんだって。私達も合流しよう」
「いや、俺は奥山さんに……」
「何? お父さんに言うよ」
「……わかった」
イズミはソーマを引っ張ると他の二人の少女を連れて部屋の出入り口にやってきた。切れのある目で音葉を睨む。
「邪魔なんだけど」
音葉が道を空けると、イズミと取り巻きの少女二人は靴を履き取りレクリエーションルーム出ていった。ソーマも「奥山さんごめん」と手を合わせ彼女達の後を追う。自動ドアがスライドして閉じると良子が大きくため息をついた。
「まったく。イズミも徳永もなんなのよ」
「あの、良子先輩?」
「ごめんね。音葉。でもあんな奴らの事、気にする必要はないからね」
「ありがとうございます。それは嬉しいんですけど、右腕がちょっと痛いです」
普通、腕を掴まれた場合、腕を動かして抵抗し振りほどくことができる。だが音葉の場合、右腕の筋力は健常時の二割以下しかない。柔道の背負い投げのように全身を使わなければ右腕の拘束を解くことはできない。掴んでいる方も反応が薄いのでつい力が入ってしまう。結果、良子の手は柔らかい果物を潰す勢いで音葉の右腕に食い込んでいた。痛くはないが圧迫感は感じる。ゾンビ化した腕が感じるくらいだから結構な力だ。
「ごめん! 大丈夫!?」
良子は慌てて手を離す。シェルターの標準服にはっきりと手形が残っていた。
「怪我とかしてないわよね?」
「大丈夫ですよ。再生力はすごいですから。骨が折れててもその内くっつきます」
「骨折したの??」
「冗談ですよ。なんともありません」
「もう! 音葉ったら」
良子が笑って音葉の腕を平手で打った。結構な衝撃で危うくバランスを崩しそうになる。細身に見えて結構力が強い。元からなのか、それとも仕事をしていく内に筋肉がついたのか。
「先輩って柔道部でしたっけ?」
「生徒会よ。冠木君と同じ。どうして?」
「おい、二人とも」
部屋の奥にいた少女がマグカップを振った。
「いつまで入り口に突っ立っている?」
「ごめんね空羅。さっきはありがとう」
「私は時間を無駄にしたくなかっただけ」
そう言って少女が立ち上がった。標準服と同じ白だったので気がつかなかったが白衣を着ていた。背は実質中学三年生の音葉よりもやや低い。幼くはないが子供っぽい印象だ。少女は白衣の裾を翻しながら長机の方にやってくる。大きな目が照明受けてキラキラしており意識の強さを感じる。
音葉は頭の中で「空羅」という名前を検索した。確か環境管理部の組織図に名前があった気がする。
白衣の少女はつかつかと音葉の前までやってくると躊躇なく右手を差し出した。
「初めまして奥山音葉。私は春日井空羅。日本が誇る天才AI開発者だ」
「……はじめまして。奥山音葉です」
「噂のゾンビ女、近くで見ると以外と普通だな」
「ソラ、失礼だよ!」
奥にいた一人、メガネの少年が二つのマグカップを持って慌ててソララを注意した。かなり整った顔立ちでメガネは薄く色が入っており耳にはイヤリングをつけていた。おしゃれについては自由の少ないシェルターでは珍しいタイプだ。背はかなり高く、先ほどの短髪の少年よりもさらに高い。俳優かモデルで通用するイケメンだが音葉の好みではなかった。
「ごめんね、奥山さん。ソラって時々好奇心が強すぎて礼儀を忘れるんだ」
「私は別に気にしてませんけど」
「ほら奥山も問題にしていないだろ。さあ、奥山、握手をしよう」
ソララはもう一度と右手を出してきた。音葉もゾンビ化した右手を差出して手を重ねるが、あまり力が入らないので握るというよりは添えるような形になる。空羅は目を輝かせさせながら白い手袋に包まれた音葉の右手をじっと見た。
「ゾンビ化すると怪力になるって聞いたが、手加減してるのか?」
「ソラ! だから失礼だってば」
再びメガネの少年が注意した。今度はソララも反撃する。
「別にいいでしょ。ジェネスだってゾンビ化が与える人体強化の影響について気になるって言っていただろ」
少年はジェネスという名前らしい。見た目は日本人っぽいが海外の血が混ざっているのか、あるいは単なるあだ名かもしれない。
「なあ奥山? 右手、見せてくれる?」
空羅はぐいぐいと音葉に迫ってくる。純粋な好奇心を向けられているだけなのでそんなに悪い気はしなかった。もし拒絶されたらいつも通りだし、受け入れてもらえればそれはそれで嬉しい。
「……私は別に構いませんけど。いいんですか」
「もちろんだ!」
ソララは手を離すと「さあ、早くはやく」と急かしながら白衣のポケットからデジタルカメラを取り出した。腕を見せて好奇心は続きそうな感じではあるが、念のため突き飛ばされてもいいように後のスペースを気にしながらゆっくりと手袋を外した。血の気の無い、白に近い灰色の肌が現れる。
「うわっ、思ったよりも白い」
目を丸くしながら空羅がデジカメのシャッターを切った。ジェンスが「よくないって」と呟きながらも空羅の肩越しに音葉の腕をじっと観察している。二人に敵意や恐怖はみられない。
「火山灰と同じ色になるって本当なんだな。これ血は通ってるのか? 感覚はあるのか? 動かせるのか?」
「血は通ってます。切れば出血しますし、触った感じとかお湯の温度もある程度なら感じられます。動きはこんな感じです」
音葉は右手を軽く上下させ、手を開いて閉じて見せた。なんということのない動作だが普通の人の三倍近い時間がかる。折り曲げた指に力はなく、肘を動かすにも肩から全神経を集中させなくてはいけないのでかなりの重労働だ。ソララとジェネスの二人は水族館の貝の移動を観察するように音葉の腕の動きに併せてゆっくりと首を動かしていた。後ろで良子は「何やってるんだか」と言いながら音葉の手提げ袋をつかむと一人で座布団に座る。その一方で、音葉の腕を間近で観察していたソララが上目を向けてきた。
「なあ触ってもいいか?」
「いいですけど、いいんですか?」
「感染力はないだろ。私は気にしない」
「ならどうぞ。感覚が鈍いので乱暴にはしないでください」
ソララはおっかなびっくり音葉の腕に手を伸ばしてきた。そして子猫の頭を撫でるように慎重に前腕部分に人差し指を載せる。その小さな手の温かみは、しかし音葉には届かない。分厚いスキーウェアの上に木の葉が落ちてきたような感覚しかない。
「冷たいし脈も弱い? これだけ血流が減ってるなら壊死してもおかしくなさそうなのに。なんで?」
「私にもわかりません。先生の話だと代謝が極端に落ちて半不死化しているからだそうです」
「半不死化、不死身って事?」
「ゾンビって脳を破壊されるまでは銃で撃たれても刀で切られても動き続けるんです。私の右腕も動く髪の毛みたいな状態だそうです。切ってもちぎっても痛みは感じません」
「ふーん。ちょっと腕をまくって、あ、無理か。上着脱げるか? 上の方も見せてくれないか。あ、ジェネスは後向かせるし必要なら私も脱ぐから、さあ!」
「別にいいですよ。下にTシャツを着てますから」
音葉は左手だけで器用に上着を脱いだ。サービスに右側のシャツの袖をまくって見せる。右腕のゾンビ化は付け根のあたりから始まっており、肩はまだ血の通った肌色で、そこから徐々に白くなり、上腕の半分くらいから完全にゾンビ化している。ソララは音葉の肌をペタペタと触りながら感心していた。
「人の体って不思議だな。普通ならゾンビ化した部分と正常な部分が喧嘩しそうなものだけど。肩はちゃんと温かい。だんだん血流が少なくなって、ここからは真っ白。これって進行しないのか?」
「もう三ヶ月以上経ってますけど変わってないです。治る気配もありませんけど」
それから音葉は腕を上げさせられたり、後を向かされたりしながらさらに何枚も写真を撮られた。最初は遠慮していたジェネスも手を出してきたが流石に触れるのは遠慮してもらった。五分くらい撮影会が続いた後、あくびをした良子が畳の上に畳んで置かれていた音葉の上着を手に取った。
「はい。そこまで。もう十分に調査できたでしょ」
「そうか? まあ十分に資料も集まったしいいか。奥山、ありがとな。さあ、そこに座って」
ソララは先ほどまでイズミが座っていた場所に音葉を座らせ、自分はその正面に座った。彼女の隣にはジェネスが、音葉の隣には良子が座わった。
「さて改めて僕も自己紹介をしていいかな?」
ジェネスと呼ばれていたメガネの少年が軽く手を上げた。
「僕は狩原創。親しい友達からはジェネスって呼ばれてる」
「創さんがどうしてジェネスになるんですか?」
「僕の両親がキリスト教に憧れていてね。最初の子供だった僕に聖書の創世紀から一文字取って名前をつけたんだ。英語で創世記はジェネシスだから略してジェネス」
「私が名付けたの」
誇らしげに空羅が胸を張った。どうでもいい事だが身長は音葉の方が高いが女性らしさでは空羅が上だ。
「こう見えて、ジェネスはロボット工学の天才だ。私やあなたと同じで、自分の実力でシェルターに選ばれた」
「選ばれた?」
「そう。基本的にシェルターにいる未成年者は親のオマケ。さっきまでいた徳永は自衛隊の偉い人の子供。イヅミは父親が政治家で母親が華道の家元。他の二人も技術者と学者の娘だ。あいつらがここにいるのは親が選ばれたおかげ。でも私達は違うぞ。私は天才的なAI開発者として選ばれた。私の両親が私のおまけなのだ。私の天才っぷりが気になるだろう? そこまで言うのなら見せてやろう」
「何も言ってませんが……」
ソララは白衣のポケットに手を突っ込んだ。中に色々入っているらしく「あれでもない、これでもない」とごそごそしている。隣の良子が「こういう子なの」と苦笑いをし、ジェネスも兄が妹を見守るような目をしている。ふと望と希美の兄妹を思い出した。妹の方は別のシェルターで無事らしい。そして兄の方は、今どうしているのだろう。館山も日曜は休みだと聞いているので、お昼を食べてゆっくりしている頃だろうか。もしかしたらよく名前の出る西山千尋と一緒にいるのかもしれない。そう考えると少しイラッとした。
「ほら、ソラ。奥山さんが怒ってるじゃないか。今日のゲストなんだから」
「ごめん。でも新型のソララネットに対応させたロボットを見せてあげたくて……これでもない、あれでもない、む、あったぞ」
やっと目当てを見つけたのかソララが自信満々に黒いボールのような機械を長机に置いた。
「四十二号、起動!」
球体から今は八本の脚が飛び出し蜘蛛の様な形状に変形した。胴体の前方には頭のような部分があり、一対の小さなカメラレンズが照明の光を受けて不気味に輝いている。
「それはどんなロボットなんですか?」
思わず聞いてしまった。ソララは我勝てりと言わんばかりに胸を張る。
「流石だ、奥山。このスカイR四十二号に興味を持つなんてたいしたものだ」
「目の前で不気味なロボットが動いていたら誰でも気になると思いますけど」
「不気味? こんなにかわいいのに」
「……それで、これは何ができるんですか」
「この子のAIは特定の用途向けに調整はされてないの。だから何でもできるし、何もできない」
「はあ……」
「四十二号、こっちに来て」
ソララが命令するとロボットは八本の脚を宙に浮かせた。それから胴体が少し沈み込み、モーター音を出しながらすーっと滑るように長机の上を移動した。予想外の動きに給湯室から持ってきたカップにサイダーを注いでいた良子が手を止める。
「歩くんじゃないの」
「歩行ユニットはジェネスが研究中。取りあえず移動は胴体下面のタイヤだ」
音葉はこういったタイプのロボットを小学生の授業で作ったことがあった。かわいい顔がついていて、手を叩くと近づいてくるタイプだ。これも似たようなものなのかもしれない。ロボットはソララの斜め前で停止する。
「さあ奥山、この子に何をして欲しい? 腕を触らせてもらったお礼に何でもさせるぞ」
「具体的には何ができるんですか」
「良い質問だ。今のところ、呼んだら来る、命令した場所に移動する、あとは八本のアームを使って物を運ぶとかだな」
黙って聞いていたジェネスが手を振って音葉の注意を引いた。
「一応いっておくけど運搬可能重量は五十グラムだから。その針条さんのボトルとか持たせたら潰れるから止めてね。目安はペン一本」
そう言われても生憎ペンは持っていない。財布を持ち歩くこともないのでコインもなかった。机の上には良子が入れてくれたサイダーのカップがあるが百グラムは超えていそうだ。部屋の中に適当な物がないか見渡してみて、近くで見つけた。
「これはどうですか」
手提げ袋からライスチップスの入ったタッパーウェアを取り出す。シェルター内で配給されるお菓子は再利用可能な密閉容器に入っている事が多い。一般的なタッパーウェアで、人間であれば蓋を開けるだけで済むが、手のひらより少し大きいサイズの蜘蛛型ロボットには難しいかもしれない。
「この中にお菓子がはいっています。それを取り出してもらえますか」
「いきなりぶっ込んでくるな……四十二号聞こえた? あの容器を開けて中の食べ物を私に運んできなさい」
ソララの命令を聞いたロボットはタイヤを使ってテーブルの上を保存容器の近くまで移動した。それからカメラで容器とその周辺の様子を確認し、八本の脚を大きく広げた。その動きは愛嬌があるがどこか不気味だ。音葉は念のため、飛びかかってきたら迎撃できるように身体の位置を調整した。隣の良子は感心しながらロボットを眺めている。
「へえ、器用なものね。蓋も開けられるなんて」
「うーん、僕は多分無理だと思うけど」
「何事も挑戦だ。さあ、行け」
蜘蛛型ロボットは広げた脚の前方二本を使って下から蓋を押してみる。だが吸い付く様にぴったり閉じた蓋はびくともしない。ロボットは脚を下げ、タイヤを使って容器の周りをぐるりと一周した。それから先ほどとは反対側にさらに回り込み、もう一度二本の脚で蓋を押す。だが蓋は微動だにしない。ロボットは容器をもう一周した後、ソララの前に戻り、前の四本脚を左右に広げた。
「これはお手上げのポーズ。どうやら四十二号の手には余るみたいだ」
思ったよりもずっと普通だった。音葉は拍子抜けしながらも得体のしれない何かを感じていたソララに親近感を覚えた。
「じゃあこれでどうですか?」
音葉は左手だけで器用に容器の蓋を外す。さらに蓋を容器に斜めに立てかけ、長机からタイヤで移動できるようにした。
ソララが「行ってきなさい」と命令すると蜘蛛型ロボットは再び容器に近づく。蓋でできた傾斜の前に移動するとピタッと動きを止め、やがて胴体が沈み込んだ。
「何をするんですか?」
「坂道を登るには加速が必要だと判断したんだと思う」
「加速?」
「まあ見てて。ぶっ飛ぶから」
姿勢を低くした蜘蛛型ロボットは激しいモーター音と共に長机の上を走り、斜面を駆け登る。そして頂上に辿りつく直前にモーターを停止させ、さらに八本の腕を地面に下ろしブレーキをかけようとした。だが油で揚げたライスチップスの入っていた容器の蓋は油が付着しており、腕もブレーキの役割を果たせぬまま、つるっと滑り、ロボットは弧を描きながら容器の中に落っこちた。小気味いい音と共にライスチップスが砕ける。
「あれ?」
ソララが口を開けたまま呆然とする。ロボットは姿勢を制御しようとチップスの上に八本の脚を遠慮無く突き立て、胴体を右に左に揺らしていた。ロボットが動く度にチップスが割れていく。頬を引きつらせながら、音葉は感情を隠すのが得意でよかったと思った。
「あー、ごめん奥山……怒ってないよな?」
「怒ってないですよ? でも食べ物は粗末にして欲しくないです。アレ、止めてもらえますか」
「ごめん。でも私じゃ無くて四十二号が……止まれ、止まれー」
タッパーには薄いが何層にもわたって重なりあっており、ロボットが右足を立てれば右に沈み、左に動けば左に沈む。ソララの声も届いていないようで止まる気配がない。お菓子の海で溺れている機械の蜘蛛が脚をばたつかせる度に、ライスチップスが一枚、また一枚と割れていく。
「このライスチップス、手に入れるのはかなり苦労したんです。成高会に呼ばれるということで上司に相談して、残業を増やしたり上司の部屋の掃除を手伝ったり、色々頑張ったんです」
「ええと。もうすぐ姿勢が安定する……はず」
「今すぐ止めてもらえます?」
音葉が笑っていない笑顔を向けるとソララは何度も首を縦に振った。
「もちろん。四十二号、命令を取り消す。外に出てきて」
「ダメだよソラ! ここは非常停止命令を出さないと」
「あっそうか、待て!? ストップ!! ダメ、四十二号ぉぉぉ!?」
蜘蛛型ロボットは命令に従った。姿勢を低くすると、タイヤを一度胴体下部に収納し、それから脚とタイヤを使って勢い外に向かってジャンプした。当然、足場に使われたチップスは粉々に砕ける。きっちりと長机の上に戻ったロボットは、チップスの残骸や油、塩の塊をまき散らしながら空羅の目の前に戻った。
「い、今のは緊急脱出用のジャンプ機能……ほら蜘蛛って飛ぶだろ。どうだ。すごいだろ。この子に組み込んだAIは曖昧な命令でもちゃんと自分で考えて行動できるのだ……」
「すごいですね」
容器の中のチップスは六割ほどが砕けていた。
「そのロボットのタイヤと脚って綺麗でしたか?」
「床は走らせてないけど……あ、でも研究室で通風口に物を取りに行かせたような……」
「じゃあロボットが踏んでいった所は分けた方がいいですね」
「大丈夫。それは私とジェネスが食べるから」
「ソラ、まずは奥山さんに謝るんだ」
ジェネスが自称天才少女をぽかりと叩き、ソララは音葉に向かって深々と頭を下げた。
「ごめんなさい、ちょっと調子にのりました」
「僕も申し訳ない。ソラは好きな事になるとちょっと暴走気味で」
二人に謝られ音葉の小さな怒りは直ぐに消えた。そもそも友達を作りに来たのだから食べてもらえさえすればライスチップスはきちんと役割を果たした事になる。
「別に怒ってないですよ。ちょっと驚きましたけど。最近のロボットは飛んだり跳ねたりもするんですね」
「これを作ったのはジェネスだ。私はAI、ロボットの頭脳を担当した……ってこの話は次の機会にした方がよさそうだな。せっかくだからこのチップスをもらってもいいか?」
「もちろんです」
「では遠慮なく!」
ソララが砕けたライスチップスに手を伸ばす。小指の先ほどのサイズの破片を口にし、顔一杯の笑顔を見せた。
「うん。美味いな。懐かしい味だ」
「僕も一枚。本当だ。ポテトチップスみたいだ。日本文化の保護もいいけど、こういった横文字の食べ物をもう少し増やしてもらいたいね」
ジェネスもしている。
「私のサイダーもどうぞ」
良子がカップに入った炭酸を勧めた。
四人はライスチップスとサイダーでお喋りを楽しんだ。それぞれの仕事の事、上司やシェルターでの生活での愚痴、やりたい事などを話した。二時間経つ頃にはソララやジェネスは音葉の事を名前で呼び、音葉も下の名前で彼らを呼ぶようになっていた。
あっという間に部屋の利用時間が終わり、部屋の片付けをすると言った二人を残し、音葉と良子はレクリエーションルームを後にした。搬入用ホールに向かいながら、音葉は軽くなった手提げ袋を気持ち大きく振っていた。その様子を見た良子が微笑む。
「楽しかったみたいね」
「はい。久しぶりに思いっきり話せました」
「ならよかった! 最初はどうなるかと思ったけど」
「ソララさんとジェネスさんがいてくれてよかったです。そういえば、片付けを手伝わなくても良かったんですか?」
「それはね」
いたずらっぽく良子が笑い思わせぶりにレクリエーションルームの方を振り返った。
「次にあの部屋を借りてるのはソララ達なの。だから手伝ったらかえって二人の邪魔になるわ」
「それって」
「恋人同士でゆっくり過ごしたいんでしょうね。二人とも家族と同居しているから」
薄々そんな気はしていたが改めて言葉にされると結構衝撃だった。健全な恋人関係のない音葉にとっては休日に水入らずで会えるソララとジェネスが羨ましくすらあった。
「いいですね」
「音葉も望君と二人で過ごしたい?」
「できればそうしたいです。でも望は外ですし、それに」
「それに?」
「いつも一緒に行動している女がいるみたいですし」
そこまで言ってはっとする。西山千尋に嫉妬してるのは事実だが、その姉の千明は良子の生徒会の後輩だった。そして既に故人の良子の夫だった人物は同じ学校で生徒会長を務めていた。西山千尋について話すと間接的に亡くなった良子の夫を思い出させる事になる。
「ごめんなさい」
「謝ることなんてないでしょ? 千明ちゃんの妹のこと、そりゃあ心配よね。でも冠木君ならきっと大丈夫。早く会えると良いわね。私も冠木君に会うのが楽しみ」
良子は優しく微笑むと空になったボトルの入った手提げ袋を音葉よりも大きく振った。
二人は廊下を進み、搬入用のエレベーターホールに到着する。大型だが速度が遅く、しかも常に薄汚れているので休日の利用者は少ないはずだった。だがエレベーターパネルの前に見知った男性が立っていた。
「待っていたよ」
そこにいたのは音葉よりも少し年上で、短髪の徳永蒼真だった。出海や他の女子の姿はない。
「良かった。まだこのフロアにいてくれて」
「……何か?」
「奥山音葉さん、俺と付き合ってもらえないか」
そう言ってソーマは真剣な眼差しを向けてきた。