小さな牧場での出来事(1)
房総半島の沿岸には館山や木更津などの都市があるが、半島中央部分は山ばかりだった。火山灰の影響で多くの動植物が死滅したものの、山の生き物の生命力はしぶとく、人の手が入らなくなった道路には雑草が根を伸ばし、積もった火山灰の上には小動物の足跡がいくつも残っていた。
その道路を西山千尋の運転する軽自動車がふらふらと進んでいた。彼女はいつものポニーテールをではなく、後頭部の耳の下辺りで髪を軽く結んでいる。その横顔に姉の千明の面影はない。千尋は前傾姿勢でハンドルに齧り付き、運転席のサイドポケットには付箋がたくさん貼られた自動車教習所の教本があった。助手席に座る望は窓の外に崖が迫る度に肝を冷やしていた。
「千尋、もう少し右に、山側によった方がいいんじゃないかな」
「車道は左側通行でしょ」
「対向車は来ないからさ。真ん中を走ろうよ」
「私、運転は初心者なの。最初はルール通り運転させてよ」
「せめて速度を落とさないか? 時速十キロくらいでもいいじゃないか」
「それじゃあ歩いてるのと変わらないじゃん。運転に集中したいから望は少し黙ってて」
千尋は瞬きもせず大きく開いた目でくねくねと曲がる山道を睨みつけている。崖側にはガードレールがあるので失敗即落下とはならないだろうけれど望は気が気ではなかった。
SC作戦が完了してから一週間が過ぎていた。館山キャンプの生存者達は木更津市内の確保に乗り出しており、すでに警察署やショッピングモールなど重要な拠点を抑えている。現在は最終目的地である木更津基地へのルートの安全を確保しているところだった。木更津は館山よりもはるかに大きな街なのだが市街に残ったゾンビは思いの外少なく作業は順調に進んでいた。望と千尋はSC作戦での働きが認められ、しばらくは後方での仕事が続いている。主に木更津で集めた物資を輸送するトラックの護衛をしているのだが高速道路は封鎖されているので危険はほとんどなかった。今日の任務は別働隊が確保した牧場に向かう作業員の護衛で、その帰り道、千尋が車の運転を練習したいというのでハンドルを渡し今に至る。
本来ならもう高速道路が見えていいはずなのだが千尋が運転する車はいまだに山の中にいる。それどころか牧場を出発した時は山を下っていたのに、今は山道を登っている。
「なあ、この道で本当に合ってるのか?」
「望も見たでしょ? この山道の入り口に館山はこっちだって標識があったの」
「あったけどさ。館山は海側で、俺たちはどう見ても山の方に向かってるよな」
「近道でしょ。それとも標識が間違ってるっていうの?」
標識があったのは事実なので望は何も言い返せなかった。だが、そもそも標識を見つける前に既に一度道に迷っているし、館山に向かうのに山を登るのはどう考えてもおかしい。ちょうど進行方向にすれ違うための待避所が見えたので一度車を止めさせる。GPSは使えないし、地図を見ても現在地はわからない。となると頼れるのは自分の目だけ。望は銃を手に持って外に出た。千尋も渋々と運転席から出てくる。
「この先も山だ。やっぱりおかしくないか」
「……そうみたいだけど」
ハンドルから手を離したことで千尋も周囲を観察する余裕ができたようだ。自分の来た道、これから行く道、そして遠くには山しか見えない現状を理解する。
「多分、俺達二人とも標識の左折と直進を見間違えたんだ」
「そうかな……そうだったかも」
「Uターンして戻ろう。もたもたしてると日が暮れ始める」
「……わかった」
千尋が不満そうながら頷いたので望はほっとする。続けて望が「運転代わろうか」と言ったが千尋は「嫌」と言い切ると運転席に入り勢いよく扉を閉めようとした。次の瞬間、遠くで銃声がした。望は咄嗟に車の影に身を隠し、千尋も扉を開けたままの運転席で拳銃を抜き身を低くした。
「銃声? どこから」
「遠くない。山に響いてよくわからなかったけど俺達が狙われたわけじゃないと思う」
「上から聞こえた気がする。この道の先に誰かいるのかも」
再び銃声がした。今度はトン、トン、トンと短い間隔で射撃音が聞こえた。
「ねえ望。これ八九式の音じゃない?」
「だな。館山の誰かな?」
「もしかして牧場の方まで戻ってきてたかも」
「それはないと思うけど」
SC作戦の直後、館山キャンプの人々は家畜確保のため千葉県でも有名な、観光地にもなっていた牧場施設を確保した。一部の動物は牧場が放棄されていた数ヶ月の間に餓死や行方不明になっていたが、それでも相当数の牛や羊を救うことができた。さらに周囲にあった他の牧場から豚や鶏も見つけることができ、食料問題解決に大きな弾みとなっていた。もっともゾンビウイルスが哺乳類に与えた影響がまだわからないので牧場の肉や牛乳、卵を口にすることは禁じられていた。牧場の運営のため館山から十数名が派遣されており、その中にいる警備担当者は八九式小銃で武装していたはずだ。だが今望達がいる位置と牧場まではだいぶ距離がある。二人はしばらく待機していたが次の銃声は聞こえてこなかった。少し警戒を緩めた千尋が望の方に顔を向ける。
「どうする?」
「行ってみよう。誰かがゾンビに襲われたのかもしれない」
「輸送隊の人達、こんなところまでくるかな」
「こないとは思う。俺達みたいに道に迷ったのかも」
そうは言ったものの望は引っかかっていた。今、館山や木更津の外にいる部隊は、木更津と館山で食料などを探している調達隊、二つの都市間で物資を運んでいる輸送部隊、牧場に常駐している部隊、あとはいつもどこで何をしているかわからない陸上自衛隊だけだ。そのどれも、千葉の山奥にいる理由はなかった。
望は別のグループの可能性も考えていた。八九式小銃を装備しているのなら自衛隊関係である可能性が高く、成田シェルターあるいは他のシェルターから派遣された部隊かもしれない。とはいえ、特に何もない山奥、しかも館山キャンプの勢力下になる房総半島の西側にシェルターから人を派遣するとは思えない。
「とりあえず先に進んでみよう。もしかしたら全然関係ない人たちの可能性もあるから慎重に」
千尋は頷き、望に運転席を譲った。望はほっとしながらハンドルを握り、車を銃声が聞こえた方に進めた。
しばらく道なりに進むと、脇に看板があった。千尋がそれを読み上げる。
「高池牧場?」
「牧場があるなら牧場組の人達が何かを調達に来てるのかもしれない」
なんとなく理由がわかり望は緊張を緩めた。それに銃声が数発ということはすでに危険は去ったと思っていい。看板によると牧場までの距離は八百メートル。だが山道はまだ曲がりくねっており先は見通せない。
「望、誰かいる!」
急に進行方向に人影が現れた。望は急ブレーキをかけ車を停める。
「ゾンビか?」
「違う、生きている人みたい。こっちを見て……怯えてる?」
「襲われて逃げてきたのか。誰だろう。見覚えのない人だけど」
十メートルほど先にいるのは男性らしく、ニット帽に作業用のジャンパーを着ている。牧場組とは何度か顔を合わせているが記憶の中に一致する顔はない。
「私はどこかで見たことある気がする」
「じゃあ館山の人で間違いないか」
「でも、名前が思い出せない。それになんでこっちを警戒しているの?」
「俺達車の中だからわからないんじゃないかな」
望と千尋は館山キャンプではちょっとした有名人だった。自分達が姿を見せれば遠くにいる男性は安心する、そう考えた望はエンジンをかけたまま、銃を持って車から降りる。千尋も拳銃を抜いて外に出た。望は男に向けて大きく手を振った。
「おーい、大丈夫ですか?」
しかし男は警戒を解くことはせず、かえって逃げだそうと後ずさった。
「なんだ、あの人? あのー、館山の冠木です。ご無事ですか」
望の隣で千尋が首を傾げ「誰だったかな」と呟き、無精髭の生えたその男の顔をじっと見た。そして何かに気がつき驚きの声をあげる。
「嘘、もしかして北田さん?」
望の知らない名前だった。千尋の様子も少しおかしい。望は一歩身を引くと銃を構える準備動作に入る。北田と名前を呼ばれた男は戸惑いながらも千尋の顔を見て、気まずそうに手を上げた。
「や、やあ西山さんの妹さんじゃないか」
「やっぱり北田さん。どうしてここに」
千尋の声には敵意に近い感情があった。北田と呼ばれた男は千尋と望の持つ銃をちらちらと見ている。そこに千尋が詰問口調で質問を繰り返す。
「北田さん、なんであなたがここにいるの」
「ああ、その、あれから色々あって。山に逃げ込んでこの先の牧場で暮らしてたんだ」
「さっき銃声がしたけど」
「あれは、ゾンビが出た。そうゾンビが群れが襲ってきて、慌てて逃げてきたんだ。なあ西山さんの妹さん、君も無事だったんだな。お姉さんは?」
「……姉は死にました」
「そうか。それは、残念だ」
北田と呼ばれた男は一瞬だけ本当に残念そうにし、それから望達が乗ってきた車を見た。
「妹さん、車があるなら俺を山の麓まで連れてってくれないか」
「すみません、ちょっといいですか」
望が二人の会話に割り込む。
「千尋、この人は?」
「北田さん。私とお姉ちゃんが最初に逃げ込んだ避難所にいた人。みんなで館山に向かってた途中に最後の動く車で勝手に逃げ出した人」
千尋の棘のある言葉に北田が頭を下げる。
「あの時は本当に悪かった。俺も石井もゾンビに囲まれてパニックになってしまったんだ。今更だけど許してほしい」
「……いい。もう昔の事だから。石井さんも一緒なの?」
「あいつは死んじまった。あれからすぐ、ゾンビに襲われて」
「じゃあ北田さん一人で牧場に?」
「いや途中で出会った連中と一緒だ」
「その人達はまだ牧場にいるの? 助けに行ったほうがいいんじゃない」
「いやその必要はない」
北田は慌てて両手を振って否定する。
「仲間はみんなやられちまった。頼む、その車で今すぐ逃げよう」
北田はかなり焦っていた。ゾンビに追われているのなら当然なのだが望は北田が武器を持っていないことが気になった。
「北田さん、武器はないんですか?」
「武器? 逃げるのに必死で何も持ってない」
「少し前に銃声が聞こえましたけど、あれは?」
「ああ、あれは仲間が撃ったやつじゃないかな。なにせ突然襲われたから」
「その現場を見ていないんですか?」
「逃げるのに夢中で。でも、あいつらがゾンビに捕まったのは間違いない」
「……北田さんの仲間はどんな銃を使っていたんですか? 千尋が持っているような拳銃ですか」
「そんな感じだった」
望は表情を変えないまま銃の安全装置にそっと指を乗せ単発射撃モードに切り替える。遠くから聞こえてきたのは間違いなく八九式小銃の銃声。この北田という男が嘘をついているのは明らかだった。だが不思議なことに、それに気がついているはずの千尋は難しい顔をしながらもじっと動かない。いつもなら「嘘だ」と叫んで突っ掛かりそうなものなのに。
「頼む、早くここから逃げよう」
北田が千尋に縋ろうとした時、彼の背後で森の一部が動いた。正確には陸上自衛隊の迷彩服を来た男が三人現れた。三人とも鉄棒に戦闘服のフル装備、構えた八九式小銃の銃口はピッタリと北田の背中に向けられている。望はその顔をよく知っていた。
「真庭さん?」
「冠木くん? それに西山さんも。どうしてここにいる?」
「俺達は道に迷って。これはどういうことですかどうして真庭さん達がこの人に銃を向けるんですか」
「……君たちには関係のないことだ。彼を我々に引き渡し、今すぐこの場を去ってもらえないか」
真庭の言葉はどこか歯切れが悪かったが、北田に向けた銃に迷いは見られなかった。右手の人差し指はしっかりと引き金にかけられている。真庭の後ろにいる陸自隊員も同じで、彼らからは北田に対する怒りすら感じられた。何か事情があるのは明らかだ。ここは従った方がいい、そう思った望は千尋にアイコンタクトを送る。しかしあろうことか千尋は北田と真庭の間に割って入っていった。
「それはできません」
千尋は小さな背中で北田を庇うように立ち、真庭を正面から見据えた。流石に真庭にとっても予想外だったらしく銃口が揺れる。
「西山さん、そこをどくんだ」
「北田さんは私の姉が命をかけて守った人達の一人です。たとえ真庭さんの命令でも理由もわからず渡すことはできません。この人は私が守ります」
西山は拳銃の銃口を真庭に向けた。




