幕間 成田の音葉(2)
ある平日の午前中、奥山音葉はデッキチェアでくつろいでいた。
閉じた瞼の向こうに暖かな日差しを感じる。耳をすませばそよ風が草を揺らす音や、遠くで水が流れる音がする。軽く吸い込んだ空気には緑と水の匂いがした。まるで春の公園にいるような心地よさだ。
だが目を開けると、そこが地下だという現実が飛び込んでくる。岩盤をくり抜いて作られた巨大な空間、天井に張り巡らされた様々な配管、擬似太陽光を作り出す照明、そよ風を生み出す巨大な空調設備の吹き出し口など、地下に地上を再現するための様々な機械の数々がある。この穏やかな空間は自然のものではなく、人間の努力によって生み出された人工物だった。
成田シェルターの第一層には自然エリアがある。東京ドームに匹敵する巨大な空間に丘や林があり小さな池や川もある。わずかだが鳥や昆虫、メダカなども生息しており、隣接エリアには田園や牧場もあった。地上を再現したこれらの施設は十年程度を地下で過ごす住人のストレス緩和を目的としており、シェルターの住人は週に三回、各三十分、自然エリアに来ることが推奨されていた。
音葉がいるのは自然エリアの外れにある日本の伝統家屋風の建物の庭。そこは周囲を生垣に囲われ外から見えないようになっている。シェルター内では日本文化の保存が重視されており、デッキチェアも竹製で茅葺き屋根の家と組み合わせても違和感のないデザインになっていた。ここはVIP用の施設で普段は一般人は入って来ない。音葉はシェルターの所長から特別許可を貰いこの施設を利用していた。最近は、平日の午前中、ここで日光浴をすることが日課になっていた。
小さな庭には誰もおらず、目を閉じていれば小屋の中で消毒液を持って迷惑そうにこちらを見ている管理人の存在も気にならない。音葉は上着を脱ぎ、右手の手袋も外した格好で擬似太陽光の穏やかな光を浴びていた。ほのかに火照った顔や左腕の上をそよ風が横切り熱を奪っていく。だが、ゾンビに噛まれ白く変色した右腕は擬似太陽光の熱もそよ風のこそばゆさもほとんど感じることはできなかった。
腕につけたスマートウォッチのタイマーが鳴り、日光浴の推奨時間である三十分が過ぎたことを知らせる。だが音葉にはやるべき仕事はない。部屋に戻っても息苦しいだけなので、もう少しこの場に残ることにした。孤独や将来への不安など余計な考えを頭から追い出し、感覚の鈍い右手の指をリハビリで動かすことに集中する。そうしていると、誰かが庭に足を踏み入れた。管理人ではなさそうだ。彼は和服に裸足か草履なのでもっと独特な音を出す。新しい足音は靴とズボン系のしっかりとした音、だが体重は軽そうだ。意志のある歩き方なのでゾンビではない。音葉は上半身を起こし、足音の方に顔を向けた。
庭の出入口に一人の中年女性がいた。短い髪をきっちりとセットし、小柄だが真っ直ぐ伸ばした背筋にはどこか威厳があり実際よりも大きく見えた。見覚えはあるが名前は思い出せない。女性の視線が音葉の右腕に落ちた。音葉は急いで立ち上がるとサイドテーブルに畳んでおいた上着と手袋に手を伸ばす。感染しないとはいえ、明らかにゾンビ化の跡が残る彼女と同席したい人間はこのシェルターにはほとんどいない。だが中年女性は片手を上げて音葉を静止した。
「いいのよ。そのままで」
中年女性はそう言うと、音葉の隣のデッキチェアにやってきた。たったままの音葉を座るように促すと、上着を脱いでTシャツ姿になりデッキチェアに腰を下ろす。
「日光浴、ご一緒してもいいかしら」
「私とですか?」
「ええ、ちょうど話し相手が欲しいと思っていたの。それとも年寄りの相手はお嫌い?」
「そうじゃなくて。あの、私は……」
「奥山音葉さんよね」
音葉が少し戸惑いながら頷くと、女性は嬉しそうに笑った。
「実はお久しぶりなのだけれど、私のこと覚えていらっしゃるかしら」
記憶に引っかかるものはあったが、女性の名前までは出てこなかった。とはいえ、ここはVIP用の施設なので利用できるのはシェルターの幹部とその家族だけ。隣の女性はその立ち振る舞いから幹部の一人だと思われた。
「シェルター運営委員の方ですか」
「ええ。あなたが正式にここの住人になった時に一度挨拶してる。もっとも私は路貝所長の後ろで座っていただけだけど」
「あの時はありがとうございました」
「どういたしまして。でもね、それより前にも何度がお会いしているのよ? 覚えていて?」
「前、ですか」
「世界がこんな風になる前。ピアノコンクールで何度か」
その単語に感覚の鈍くなった右手がわずかに疼いた。富士山の噴火以前、音葉はただの中学生で、ピアニストとして将来を期待されていた。初めてゾンビに襲われたのも、欧州の高名なピアニストに夏休みを利用して会いに行くため空港にいる時だった。もっとも今は、ゾンビ化の影響で楽器の演奏ができる体ではなくなってしまった。
「あなたと同い年の娘がいたの。あの子もピアノをやっていてね。何度か奥山さんと同じコンクールに出たのよ。小学六年生の時のクラコン予選ではあなたの次に演奏していたわ」
中年女性は娘の名前を言ったが音葉の記憶に引っかかるものはなかった。申し訳なさそうにしていると、女性は少し寂しそうにする。
「覚えていなくても仕方ないわ。最優秀賞候補のあなたと違ってうちの子は予選敗退が当たり前だったから」
「ごめんなさい。その子もシェルターにいるのですか」
中年女性は静かに首を横に振った。
「もう亡くなったわ」
「……ウイルス、ですか」
「いいえ。交通事故よ。去年ね」
「それは、あの残念です」
「あの子、奥山さんはすごいってよく言ってたの。もしここにいたらいい友達になってもらえたかもしれないわね。でもある意味幸運だったかもしれない。世界がこんな風になるのを見ずに済んだのだから」
音葉はなんとなく気まずくなり、腰掛けているデッキチェアに視線を落とした。それに気がついた中年女性が努めて声のトーンを明るくする。
「ごめんなさい。おかしな空気にしてしまったわね。奥山さん、シェルターでの生活には慣れたかしら?」
「はい」とは言いづらく、音葉は少し考えてから返答する。
「安心して眠れています。ここは安全ですから」
「それはよかったわ。私はまだここの空気に慣れないわ。毎日消毒液に浸かっているみたい」
「わかります。私も、時々地上が恋しくなります」
「……今の地上でも?」
今度は「はい」と即答しそうになり思わず口籠った。音葉がここにいられるのは望が外で身を危険にさらしてくれているから。だから、多少不自由があって敵意を向けられていても耐えなくてはいけない。目の前にいる女性はシェルターの権力者の一人。音葉を追放する事だってできるかもしれない。望の命懸けの努力を無駄にはできなかった。
「噴火前の地上を恋しく思うんです。今の地上に比べたら、ここは安全で食料もお湯もあって天国みたいな場所です。ただ、時々、天井がなければなって思うんです」
「確かに気が滅入るわね。だから公園での日光浴がいい気晴らしになる。住人のストレスをどう緩和させていくかはシェルター幹部の悩みの種なの。時に、奥山さん、ピアノは弾いているの?」
「いえ。こんな腕ですから」
音葉は白灰色に変色した右腕を持ち上げ、手を開いたり閉じたりさせて見せた。その動きはぎこちなく、弱々しかった。
「完全に動かないわけではないのでしょ? 私が来た時も右手、動かしていたじゃない。あれはピアノを弾いているようにみえたけど? シェルターの音楽室にある楽器はどれも一流品よ」
「……私が行くと嫌な顔をする人たちがいます」
「非科学的ね。シェルターの研究者があなたの腕から感染することはないと保証しているのに」
女性は個人端末を取り出すと何かを確認し始めた。
「音楽室のピアノ、来週の水曜日、午前10時から空いてるわ。弾いてきたら?」
「ありがとうございます。実は一度頼んでみたことがあるんです。でも責任者の人に断られました。そんな手で楽器に触れてほしくないって」
「音楽室の責任者は、文化部の八津さんだったかしら。彼女には私から言っておくわ。気にせず使いなさい」
「でも……」
「いいのよ。私はこのシェルターの運営委員の一人、つまりは権力者なの。権力はこう言う時のためにあるのだから」
そう言って女性は微笑んだ。音葉は少し複雑に感じながらも久しぶりの他人の好意が素直に嬉しかった。
「ありがとうございます。あの、失礼ですが名前を教えてもらえませんか。運営委員の方だとはわかるんですが」
「ごめんなさい。まだ名乗ってなかったわね。私は眞島優美子。委員会では地上帰還計画本部の本部長をしているわ」
「眞島……優美子」
聞き覚えのある名前だった。ピアノのコンクールでではない。もっと最近、成田シェルターに着く前に実際に目にし耳にした記憶がある。望と一緒に通過した地下鉄やターミナル駅でだったかもしれない。何か引っかかるがまだ思い出せない。記憶をさらに遡ってみてようやく思い当たった。噴火の翌日、空港でゾンビに襲われる直前、音葉は空港のテレビモニターでニュースを見ていた。富士山の噴火に関する報道、それに続いて東京都知事が都民に呼びかけをしていた。音葉はその時の言葉を思い出す。
「富士山の噴火は東京に大きな影響は及ぼさない。都民は自宅で待機していれば安全」
「私のセリフね。そう。あなたも聞いていたのね」
音葉は望と地上を彷徨っていた時、ターミナル駅で出会った女性の事を思い出した。早見という女性は都知事と一緒に脱出する途中、息子がゾンビに噛まれグループから抜けた。ゾンビ化した息子と駅内に残り、望達に武器や食料を渡した後に亡くなった。彼女は都知事は百名ほどの生存者と一緒に地下鉄に向かったと言っていた。そして音葉達はターミナル駅に到着する前、地下鉄の線路上で百名近い東京都の職員らのゾンビを見ている。そのゾンビには銃で撃たれた跡があった。それを聞いた早見は知事も一緒に殺されたかもしれないと言っていた。
「どうしてまだ生きているんですか」
隣のデッキチェアに腰掛けた中年女性、かつての東京都知事の眞島は一瞬困惑を見せたが音葉から目を逸らさなかった。
「確かに都民に自宅待機を命じた私がシェルターで生きているのはおかしいわよね」
「違います。真島さん、都の職員だった早見さんという女性を知っていますか?」
「ええ。防災課の人ね。あなた、早見さんに会ったの?」
「ここに来る前、ターミナル駅で」
「あの方は、無事なのかしら」
音葉は首を横に振った。
「ゾンビになった息子さんを追って亡くなりました。止めをさしたのは私です」
「そんな……あなたみたいな子供が?」
「早見さんが言っていました。都知事は救出に来た自衛隊や生存者と一緒に地下鉄に向かったって。そして私はターミナル駅に着く前、地下鉄で東京都の職員の人達の死体を見つけました。みんな銃で撃たれて。早見さんは、都知事もそこで死んだのかもしれないと言っていました」
「そう。あなたはあそこを通ったのね」
脱出した都知事、助けに来た自衛隊、銃で撃ち殺された職員、生き残った都知事。それが意味する事は明白だった。
「あなたが殺したんですか」
その問いに眞島は静かに頷いた。
「あなたの言う通り、私は守るべき都民を犠牲にしてここにいる」
眞島はあの日、何があったかを静かに語り始めた。
都知事の眞島は、噴火の直後、密かに成田シェルターに非難する予定だった。しかし都内の惨状を見過ごすことができず、都庁に残って防災の指揮、通信網が破壊された後はゾンビと戦う生存者の中心となって都庁ビルに立てこもっていた。眞島は生存者を救おうと極秘に成田シェルターに救助を要請。しかし来たのは数人の自衛隊員のみ。眞島が抗議すると、自衛隊の安座間隊長は都庁から数駅離れた安全な場所に大型ヘリコプターが来ると説明をした。それを信じた眞島は生存者を連れて地下鉄で脱出地点に向かう。その途中、自衛隊の安座間隊長は眞島だけを連れて逃げようとする。それに気がついた眞島は部下の一人にシェルターの場所をこっそり教えた。全員は無理でも成田まで辿り着いた数人なら受け入れてもらえるかもしれない、彼らを見捨てる事へのせめてもの贖罪のつもりだったが、それが安座間隊長達に銃の引き金を引かせた。シェルターの存在と場所を知られてしまった以上、生かしておくわけにはいかないと。生存者に同行していた警官隊がわずかに反撃をしたが敵わず、生き残りは全滅、呆然とする眞島は薬を打たれ意識を失ない、気がついた時には成田シェルター内にいた。
「私は、状況を甘く見ていた。精一杯努力すればみんなが生き残る道がある、その愚かな希望がみんなの命を奪ってしまったの。あなたが非難するのも当然よ」
「残酷な話だと思います。でも、私はあなたを非難はしません。私にその資格はないんです」
音葉は自分の左手の薬指で鈍く輝く指輪を軽く撫でた。
「私は大切な人を危険に晒して、ここで安全な生活を送っているんです。地上にはまだたくさんの人が生き残っていて、苦しんでいるのに自分だけ」
「冠木望くんと、館山グループのこと?」
「そうです。館山では私と同年代の女の子も銃を持って戦っているんです。私はシェルターにいる人達は酷いと思います。でも悪いとは思えないんです。確実に生き残るため他の九十九パーセントを見捨てて一パーセントの命だけを救う。それが必要なのは理解できます。でも正しいとは思えないんです。悪くないけど正しくない、私にはわかんないんです。眞島さん、大人ならわかるんでしょうか」
「難しい質問ね。正解なんてきっとどこにもないんだと思う。ただ割り切るしかないわ。私の場合はね、守るべき都民を見捨て殺した罪は決して消えない。でも叶う事なら、もう一度東京を再建することで罪滅ぼしがしたいと思っているの。私は誰よりも東京都の事を知っている。だからね、百年後、また東京が日本の中心となって人で賑う街になってくれたら、そうしたら私が生き残った意味があると思うの。過去も現在も変えることはできない。でも未来だけは今から作っていくことができる。奥山さん、あなたも未来に何か残すことを目指してみてはどうかしら」
「未来ですか」
「ええ。このシェルター内でできることは多くはないけれどね。そう言えば、奥山さんは仕事は決まったのかしら?」
「まだです。どの部署に聞いても私はいらないって」
「そう。なら私のところで働かない?」
突然の申し出に音葉は戸惑いを隠せなかった。眞島は最初から友好的で、隠しておきたいだろう秘密を打ち明けてくれ、今度は仕事までくれるという。何か裏があるのかと疑いたくなったが音葉を騙すメリットが思いつかない。
「驚かせてしまったかしら。実は、私が担当している地上帰還計画本部は人手不足なの。私と一緒にシェルターに来るはずだったスタッフは全員都庁で亡くなってしまって。だから今は私しかいないのよ。元々、シェルターの維持に関わる部門でないから人は少なかったのだけど、人員不足で仕事が回らないの。だから、あなたが手伝ってくれたら嬉しいわ」
「あの、私、まだ子供です。そんな難しそうな仕事、お手伝いできるとは思えません」
「大丈夫。やってもらいたいのは私の秘書みたいなことよ。コーヒーを淹れたり、資料集めや会議の議事録を作ってもらうくらいだから。専門知識はいらないしゆっくり覚えていけばいい。時間だけはたっぷりあるのだから」
音葉は眞島が自分を誘う理由を考えてみた。同情、罪滅ぼし、あるいは亡くした娘の面影を見ているのかもしれない。それが一番納得できる。
「どうして私なんですか? 運営委員の手伝いならみんなやりたがると思います」
「このシェルターで余剰人員は貴重なのよ。それに、路貝さんと越後先生があなたを評価していた。私もこうして話してみてあなたに興味を持った。端的に言えば、使えると思ったの」
眞島は自分の鼻を軽く指差す。
「私はずっと政治の世界で生きてきたからここが効くのよ。将来性のある人材を見るとピンっとくるの。この子は使える、いい手駒になるって」
音葉は眞島の率直な物言いに驚いたが、少し好感も持てた。
「今すぐに結論を出せとはいわないから考えておいて」
眞島の言葉に音葉は頷いた。
それから二人は日光浴をしながら世間話をし、きっかり三十分後眞島は仕事に戻っていった。特にやる事のない音葉は人目を避けながら自室に向かった。部屋に入ると、壁の端末が新着メールの存在を告げていた。開封してみると、音楽室の予約確認通知だった。徹底した消毒を条件に責任者が許可を出したと眞島からのメッセージも添えられていた。
「秘書の仕事か。やってみようかな」
誰もいない家族用の広い部屋で、音葉は一人呟いた。




