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8月17日 住宅街(4)

2023年2月21日:全面改定

 胃の中の物を全て吐き出し切ってやっと落ち着くことができた。望は地面に這いつくばったままで、口からは酸っぱい胃液が、鼻からは鼻水がつららの様に垂れている。立ち上がる前に顔を拭いたかったがハンカチやポケットティッシュを持ってきていなかった。


「これを使ってください」


 そんな望を見かねた少女が白い紙を差し出した。望は下を向いたまま「ありがとう」と紙を受け取る。厚みがあり柔らかい。キッチンペーパーのようだ。まず口と鼻から垂れているものを拭い、それからもう一枚もらって鼻をかんだ。


「口をすすいで、水を飲んでください。気分が落ち着きます」


 少女が差し出してきたのは封を切っていない水のペットボトルだった。望は汚れたキッチンペーパーを地面に置くと、立ち上がってペットボトルを受け取り、気まずさもあり背中を向けて口をすすぎ、水を地面に吐き出した。それから水を飲み込む。喉の不快感が幾分か和らぎ気持ちが落ち着いた。最後に制服の袖で口元を拭うと少女の方に振り向いた。

 ややもすると冷たい印象を受ける鋭い目。血の通った白い肌に黒く長い髪。太陽より月が、夏よりも冬が似合いそうなその子を望は知っていた。奥山音葉。妹の友人でピアノ教室の娘。だがその顔はとても中学生には見えないほど大人びていて、記憶とマッチせず同一人物なのか確証が持てなかった。


「あの、水をありがとう。それと紙も。助かったよ」

「どういたしまして」

「水がまだ残っているけど返した方がいいかな?」

「いえ、結構です」


 少女は無表情に近い顔で断言すると一歩後ろに下がり距離を取った。


「ええっと?」

「確認です。ゾンビに噛まれていませんよね」

「大丈夫……だと思う」

「はっきりしないんですね。じゃあ脱いでください」

「え?」

「服を脱いで噛み跡や傷がないか見せてください」


 少女の目は冗談を言っているようには見えなかった。望は「わかったよ」と制服とワイシャツを脱いだ。「シャツも」と言われので上半身に身につけていたものは全て脱ぎ、それから老人ゾンビの入れ歯がぶつかった右腕を少女に見せた。


「どう?」

「傷はなさそうですね。両腕を広げて背中も見せてください」


 望は空港のボディチェックを受ける時のように腕を伸ばし、その場でゆっくりと回転した。それを少女は日本刀を持ったまま念入りに見た。


「上半身は大丈夫ですね。下半身にゾンビは触れていないですか」

「指一本。腕だって服越しに、入れ歯が当たっただけだから」

「知ってると思いますが、ゾンビに噛まれたらゾンビになります。本当にどこも噛まれていませんね?」

「大丈夫。ほら、出血とかしてないだろ」

「……そうですね。わかりました。服を着て良いですよ」

「よかった」


 望はワイシャツを着ようとして右腕の部分に真新しい染みができていることに気がついた。ゾンビの入れ歯が当たった部分だ。


「あの、唾みたいな体液が腕にかかったんだけど大丈夫かな」

「噛まれってなければ問題ないと思います。一応見せてください」


 少女が望の目の前にやってきた。並んでみると頭一つ分小さい。彼女は日本刀を持ったまま、左手で望の腕を掴み上下にひっくり返し傷がないことを確認した。「大丈夫そうですね」と小さく頷き、顔を見上げた。疲れた小さな顔にブラックコーヒーの色をした瞳が光っている。


「やっぱり希美のお兄さんですよね。お久しぶりです」

「ああ、やっぱり音葉ちゃんだよね? 奥山先生のピアノ教室の」

「そうです。奥山音葉です」


 音葉は少しだけ頬を緩めた。それを見た望も嬉しくなる。


「びっくりした。生きてる人間がいたのにも驚いたけど、それが音葉ちゃんだったなんて。無事でよかった!」

「お兄さんもよくご無事で」


 音葉は何かを続けようとしたが言葉にはしなかった。その代わりなのか望の背後の様子を確認した。まだゾンビがいるのかと望も後ろを見たが何もいない。


「ええと、他にも仲間はいるのかな。音葉ちゃん以外にも生きている人は?」

「……残念ながら。お兄さんは知っていますか」

「俺もだよ。音葉ちゃんが二週間ぶりにあった生きた人間なんだ」

「そうですか……」


 そう答えた音葉から柔らかな表情が消えた。地面に視線を落とした彼女は落胆しているようだった。彼女も望と似たような状況だったのかもしれない。


「そうか、そうだよな。じゃあ、ゾンビはどうなっているのかな? まだ動いているのかな」

「どういうことですか?」

「ほら、富士山の噴火から二週間くらい経っただろ。人間って飲まず食わずじゃ五日くらいで死んじゃうんだ。いくらゾンビでももうエネルギー切れを起こしているんじゃないかって思ったんだけど」

「そういう事はなかったです」


 音葉がチラリと地面に倒れた老人のゾンビを見た。うつ伏せに倒れており、後頭部にある縦長の傷からさらさらした粘土のような液体が染み出ている。


「ここに来るまでに何十体もゾンビを見てきましたけど、動きが悪くなっている感じはしなかったです」

「そうなんだ……」


 つまり状況は少しも良くなっていないということだ。とはいえ予想はしていた。何日経っても電気が復旧せず、消防や自衛隊の救助もこないし、車が走る音も飛行機が飛ぶ音もない。東京都や日本政府が機能不全に陥っているのだろう。普通に生き残っているだけでも奇跡みたいなものだ。


「音葉ちゃんは今までどうしていたの? どこかに隠れていたの?」

「私は空港から歩いてきました。あの、そろそろ服を着たらどうですか」

「ご、ごめん!」


 指摘され半裸だったことを思い出す。急いで服を着ようとしたが、下着はともかくゾンビの体液が染みこんだワイシャツや制服を身につけるのは気が引けた。ハサミを持っている事を思い出し、ゾンビの入れ歯が触れた右袖を切り離すことにした。ワイシャツはあっさりと切れたが、制服の上着はなかなかハサミの刃を受け付けず少し時間がかかった。

 望が服を切っている間、音葉はポケットからキッチンペーパーを取り出し刀身に付着した白い液体の掃除をしていた。指を切らないよう慎重に汚れを拭い去り、使い終わった紙を道の隅に捨てる。それから新しいキッチンペーパーを取り出すと、うつ伏せに倒れた老人ゾンビの頭部の傷口を隠すように置いた。それは望がついさっき見たばかりの光景と重なった。


「服を着ましたか。じゃあここから移動しましょう。他のゾンビが出てくるかもしれません」

「あの、音葉ちゃん。一つ聞いていい?」

「何ですか?」

「母さんを、俺の母親だったゾンビも同じようにしたのかな? その、このおじいさんみたいに」

「はい」


 あっさりと肯定され望の方が動揺してしまった。


「つまり……その刀で、首を落として……」

「そうです。私がおばさんを殺しました」

「そっか、そうだよな……母さんは、ゾンビだったし、うん……」

「安全に家の中を調べるには放置しておけなかったんです。でもごめんなさい。おばさんを殺したのは私です。」


 音葉が頭を下げた。

 望はどう反応すればいいのか分からなかった。目の前にいる少女は親の仇なのだろうか。多分違う。母親のゾンビは生きる屍になり息子の望を襲おうとした。音葉が倒してくれなければ望は家からでることすらできなかったかもしれない。なら感謝するべきなのだろうか。そうなのだろうが、素直にありがとうと言う気持ちにはなれなかった。だがここで音葉を非難するのは違う。そんなことは母親だって望んでいないはずだ。


「いや、謝る事じゃないよ……。顔を上げて。母さんもきっと音葉ちゃんに感謝していると思う。本当は俺がすべきだったんだ。だから……ごめん。嫌な役を押しつけちゃって」


 きっと望自身で母親を眠らせるべきだった。その勇気と行動力が無かったことが今更ながら恥ずかしくなった。母親がゾンビになった時点で止めをさせていれば、二週間近くも苦しませることは無かったかもしれない。


「あのさ、母さんの最後はどうだった? 苦しんだりしていたのかな」

「後ろから近づいて一気に首を落としました。多分、自分に何が起こったのかもわからなかったと思います」

「そっか。それなら、よかった」


 音葉が手にしていたのは緩い反りのついた刀だった。刀身には綺麗な波のような刃文があり柄の部分は赤い糸が巻かれている。鞘も漆塗りで工芸品のようだった。このまま美術館に飾られていても違和感がない。それを慣れた手つきで扱う音葉は歴戦の女剣士のようだ。


「ピアノが上手いのは知ってたけど剣道もやっていたんだね」

「まさか。これは空港で亡くなっていた日本刀コレクターの外国人からいただいたんです。逃げる時に一緒になった方の中に高校の剣道部の顧問がいて、その人に使い方を教えてもらいました」

「その人は?」

「亡くなりました。空港で出会った人はみんな。先生もソンビになって。止めは私が刺しました」


 淡々と音葉は言った。

 目の前の少女は望よりもはるかに過酷な経験をしてきたようだ。その時になってようやく音葉の格好の異常さにも気がついた。望の知る彼女は活発な妹とは対照的な子だった。ワンピースやピアノの発表会のドレス姿などスマートなシルエットを生かしたスカート姿の印象が強く、実際に家に遊びに来ていた時もジーンズやパンツ姿だったことはない。しかし今、目の前にいる少女は革製のがっしりとしたブーツ、大きめのカーゴパンツ、裾が太もも辺りまである大きな黒いTシャツに男物のジャンパーを羽織っていた。辛うじて頭に被ったニット帽の下から出た二つにまとめた髪で女の子だとわかるが顔が見えなければ少年にも見える。


「その……大変だったんだね」


 それを聞いた音葉は首を横に振った。


「過去形にするにはまだ早いと思いますよ。私のいたグループの人がみんな亡くなって、それから今日まで生きている人間は一人も見ませんでした。ゾンビか死体だけです」

「ゾンビか死体だけ……」

「もしかしたら私達が日本に残った最後の二人かもしれません。大変なのはまだ終わっていませんよ」

「そうか。そうだような」

「とにかく」


 音葉がぶっきら棒に言った。


「話はまた後にしましょう。今はここを離れた方がいいです」


 望は頷くと老人ゾンビから逃げようとした時に地面に落としたカバンを拾い上げ付着した灰を払い落とし、音葉からもらったペットボトルを中にしまった。それから少し離れた所に落ちていた木刀も拾い上げる。ちょうど真ん中辺りで真っ二つに折れ、サメの歯のようにギザギザしているがゾンビ相手の武器にはなりそうになかった。望は供養するように折れた木刀を道の隅に並べた。

 出発の準備を終えると、音葉が少し落ち着きの無い様子でこちを見ていた。


「お待たせ。行こうか」

「その前に、お兄さん、一つ聞きたいことがあります。希美は無事ですか?」

「それは……」


 その質問に望は口ごもる。


「……もう死んだんですか?」

「ごめん、わからないんだ」

「わからない?」

「噴火の日、希美は部活の合宿に行ってたんだ。噴火の直後に母さんのスマホに連絡があって長野は被害が無いから合宿を続けるって言ったらしい。でも今どうしているかはわからない」

「そうですか」


 音葉は鈍よりと曇ったままの灰色の空を見上げ唇をほんのわずか噛みしめた。そして目を閉じて何かを堪えるようにじっとしていた。望は何も言葉をかけることができなかった。ゾンビに襲われる危険を冒してまで音葉は希美を探しにきてくれた。それに対して自分はどうか。ただ家に籠もって助けを待つことしかしていなかった。妹も、恋人も、助けに行こうとはしなかった。それが無性に情けなく感じる。

 一方で音葉は独りで心の整理をつけていた。鼻をすすり赤くなった目をハンカチで拭うとまっすぐ前を見た。望は思わず謝ってしまう。


「その、ごめん」

「どうしてお兄さんが謝るんですか」

「俺、ずっと家に隠れてて。希美を探しにいこうともしなかった。なんか、兄貴なのに、自分の事しか考えられなくて」

「こんな状況ですよ。お兄さんが生きているだけで奇跡みたいなものです」

「……俺は」

「それに、希美はきっと無事だと思います。あの子、少し抜けたところはありますけどしぶといですから。きっと今頃、長野でのんびりしていますよ」

「そうかな……そうだといいな」

「それじゃ行きましょう」

「わかった。あ、でもどこに?」


「こっちです」


 そう言うと音葉はポケットから自動車のキーを取り出すと近くの家の駐車場で灰を被っている一台の車に向かった。

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― 新着の感想 ―
[一言] 音葉ちゃん外で生き抜いてきただけあってしっかりしてて頼りがいありますね。望は外に出たばっかりでまだまだ頼りないですが、これからのサバイバルで強くなっていくのでしょうね。 西山は果たして無事な…
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