SC作戦・オアシスの戦い(3)
ハイウェイオアシスの建物はそれほど大きくなかったため、浅井と石坂が隠れたという事務所はすぐに見つかった。店内の突き当たりに短い廊下があり、その廊下の右側に小さな事務室があった。覗き窓のない扉はしっかりと閉じられており、ドアには人間の拳を叩きつけた様な跡が大量に残っていた。二人が逃げ込んだ直後にゾンビが押し寄せていたのだろう。だが扉は破られていない。
「おい、浅井、石坂、いるなら返事をしろ。外のゾンビは全部倒したぞ」
野瀬が扉の前で大声で叫ぶ。元塾講師らしいよく響く声には若干の怒りが籠もっておりそれを聞いた興津が「これじゃあ出てきにくいんじゃ」と言いながら苦笑いした。部屋の中からすぐに反応があった。
「野瀬さん? 本当に野瀬さんですか」
「その声は石坂か。開けるぞ」
返事を待たず、野瀬が扉に手をかけた。だが鍵がかかっており開かない。
「鍵が! い、今開けます」
中からバタバタと音がし、大きな物がどかされる音がした。机か何かで扉を押さえていたらしい。しばらくして、ドアノブの奥でカチッという音がする。そしてゆっくりと扉が開いた。
事務所は小さな部屋だった。事務机が二つとキャビネットが一つ、それに壁には様々なスケジュールが貼られた予定表が掛かっている。それだけで部屋はもう一杯だった。扉の手前には憔悴した石坂がいた。腰が引けており、今にも逃げ出しそうな姿勢で立っている。なぜか素肌の上に作業着を着ていた。部屋の奥にはもう一人の男性がおり、壁に背中を預けて床に座っていた。その足首にはシャツらしい白い布が何重にも巻かれている。布の表面にははっきりと血が滲み出ていた。
「浅井、それはどうした?」
野瀬が散弾銃の銃口を奥にいる男、浅井に向けた。慌てて石坂がその前に立ち塞がる。
「待ってください! 浅井さんはまだ人間です」
「まだ、か。ゾンビに噛まれたのか」
「……レインコートのゾンビから逃げる時に俺を庇って、足首をやられたんです。俺のせいなんです。俺がモタモタしたから」
「そうか」
野瀬は銃を下ろしたが部屋に入ろうとはしなかった。ラクビー選手の様な大柄な野瀬が入り口に仁王立ちしているため、小さなドアは塞がってしまっている。望と千尋はわずかな隙間から部屋の様子を伺った。野瀬は距離を保ったまま、浅井に話しかけていた。
「浅井、ツイてなかったな」
「五月蝿い」
額から大粒の汗を滴らせながら、浅井が言った。呼吸は荒く、わずかな言葉を発するだけでも苦しそうだった。顔は青ざめ、血の気はない。だが意識ははっきりしているらしく座り込んだまま強い意志のこもった目で野瀬を睨み付けている。
「秋目は無事か?」
「ああ。上の駐車場で待ってる」
「ならいい」
浅井は大きく息を吐き出した。一瞬安堵が浮かんだが、痛みが酷いのかすぐに表情を歪める。見れば、首の根本辺が白く変色を始めていた。野瀬は一歩部屋の奥に踏み込むとドアの前で立ち尽くしていた石坂を外に追い出し、再び入り口の前に立ち塞がった。
「……浅井、止めはいるか?」
「冗談じゃない。俺は死ぬ瞬間まで生きるんだ。勝手に俺の人生を終わらせるな」
「苦しいぞ? その痛みと苦しみに耐えても待ってやがるのはクソッタレなゾンビ化だ」
「知ってる。館山に来る前に何人も見送って来た。次は俺の番ってだけだ。最初から覚悟はできてる」
浅井は眉間に深いシワを寄せながら、部屋の外から不安そうに自分を見る石坂の方に顔を向けた。
「おい、石坂、外のゾンビはいなくなったんだろ。酒を持ってきてくれ」
「は、はい」
泣きそうな顔の石坂が、それでも元野球部らしく盗塁するランナーの様に勢いよく店内に走っていた。それを見た興津が「俺が一緒に行く」とその背中を追いかける。
野瀬が引き金に指をかけたまま、少しだけ声のトーンを緩める。
「馬鹿なマネをしたな」
「五月蝿って言ったろ。俺は自分の好きな様にしただけだ。後悔はしてない」
「そうかい。わかっちゃいると思うが悪いがお前をキャンプには連れていけねえ。何か言い残したい事はあるか。遺言を残したい相手はいねえか」
「ふん。そんな奴はみんなあの世だ。お前に頼む事は何もない」
「そうか。なら最後に少し役に立て。お前が見た叫ぶゾンビについて詳しく教えてもらおうか」
「……前から思っていたが、お前は本当に嫌な奴だ。それで元教師とは信じられない」
「塾講師だ。お前だってその厳つさで美容師だってな。一度くらい髪を切ってもらえばよかったぜ」
「お前の頭なんて触りたくもないね」
悪態をつきながらも浅井はレインコートゾンビと遭遇した時の様子を細かく語り始めた。浅井と野瀬が会話をしている間、望は事務室の入り口近くで葛藤していた。ショルダーバックの中には成田シェルターで渡されたワクチンが入っている。これを使えば浅井は助けられるかもしれない。過去に音葉もゾンビ化がかなり進行した状態から飴型のワクチンを接種する事で助かっている。可能性は低くはない。だが、ワクチンを使えばその入手経路を聞かれてしまう。事が事だけに野瀬や興津、千尋を口止めする事も難しいだろう。助けた浅井だって協力してくれるとは限らない。間違いなくキャンプの上層部に存在が知られるだろう。郡司や真庭は自衛隊だ。尋問をして望からシェルターの事を聞き出すかもしれない。
ワクチンを浅井に与えてすぐにキャンプから逃げるのはどうか。それはできない。今このタイミングでキャンプを離れるのは得策ではない。千尋の事は心配だし、これから来る冬に備えるため集団に属している必要がある。浅井が気絶しており、野瀬達がいなければワクチンを打てるかもしれない。だがそんな機会はなさそうだ。
浅井がゾンビに噛まれたのは自業自得だ。作業を放棄してハイウェイオアシスに来なければ今頃は怪我一つ無く土嚢を積んでいたはずだった。だが助けられるなら助けたい。しかしその方法が見つからない。
望は悩んだ。だが、浅井の命と自分の任務とシェルターの秘密を天秤にかけた時、わずかだが任務が勝った。望の優先順位は明確だ。成田にいる音葉が一番、千尋が二番、自分の命が三番。残念だが浅井の命を優先するわけにはいかない。今は、ワクチンを使うべきタイミングではない。望はそう決断した。
心の中で謝罪すると、浅井の顔を見ずに済むように事務室から少し離れた。なぜか苦しんでいる望を心配し、千尋がその後を追って来た。
「大丈夫? もしかして体調悪い?」
「いや、なんでもないよ。ちょっと浅井さんの事で、考える事があっただけだ」
「仕方ないよ。勝手した結果だもん。私達だっていつああなるか」
「そう、だよな……」
「ゾンビになるって苦しそう。ねえ望。もし私がゾンビに噛まれたら、あなたが止めを刺してね。お姉ちゃんの時みたいに」
「馬鹿な事言うなよ! そんな言葉は聞きたくないしそんな事も起こらない。縁起でもない」
「こういう事はちゃんと言っておかないと。死ぬのは怖いけど、最後を好きな人に看取ってもらえるなら少しはマシでしょ?」
「千尋……」
「万が一のため。私、死ぬつもりはありませんから」
望は千尋に何か言いたかったが言葉が見つからない。そうしていると店内から石坂と興津が戻って来た。その手にはビール瓶がある。部屋に入ろうとした石坂を野瀬が止める。
「こっちに寄越せ」
「でも」
「俺が渡す。お前は部屋の外にいろ」
野瀬は奪い取る様に石坂のビール瓶を掴むとそのラベルを確認した。
「地ビールか。美味そうじゃねえか」
野瀬は事務机の角を利用してキャップを外し、大粒の汗をかいている浅井に手渡した。浅井は震える手でなんとか受け取る。もう顎の下辺りまで白化が進んでいた。
「ぬるい。こんなのが最後の一杯か」
「……もし来世で会ったら冷たいビールを奢ってやる」
「遠慮しておく。お前の酒なんて死んでも御免だ」
そう言って浅井はビールを一気に煽った。喉の力が弱まっているのか、液体の半分以上は口からこぼれ落ち服を濡らす。それでも、浅井は満足そうだった。
「もう味は分からないが、ビールの喉越しだ。悪くない……」
「浅井さん、俺!」
石坂が事務室の外から叫んだ。中に入ろうとするが興津に止められる。
「すみません。俺のせいで。俺が浅井さんが」
「気にするな。たまたま躓いた先にお前がいただけだ。それより一人にしてくれ。お前らがいたんじゃ騒々しくてビールが味わえない」
「浅井、いいんだな」
野瀬の言葉に浅井は苦しそうに顎を僅かに下げた。もう限界が近そうだ。あと二十分もしない内にゾンビ化するだろう。
「始末は自分でつける。人間の命なんて刃物で喉を一突きで簡単に終わる」
浅井はポケットから美容室で使われている様なハサミを取り出した。だが手に力が入らず閉じた状態のまま膝の上に落ちる。それを見た野瀬は予備の拳銃を取り出すと弾丸を四発抜いてから浅井の足元に投げた。
「刃物がキツかったらこっちを使え。弾は一発だけだ。外すなよ」
「一応礼は言っておく。だが……一人にしてくれ」
「ああ、わかった。変な言い方だが冥福を祈ってるぜ。じゃあな」
野瀬は床に座り込んだ浅井を最後にもう一度だけ見ると、そのまま事務所から出て扉を閉めた。
「さて、戻るか」
苦虫を噛み潰した様な表情の野瀬はさっと背中を見せると廊下を進んでいった。突き当たりにある金属製のドアを開け、さっさと外に出る。石坂はまだ何かを言いたそうに事務室の扉を見ていたが、興津にその腕を引かれ建物から出ていった。望と千尋も扉の向こうの浅井に軽く頭を下げ、彼らの後に続いた。
石坂を加えた五人はハイウェイオアシスの建物の外に出た。そこは業者の搬入口で、少し回り込んで駐車場に戻り、二階のウッドデッキテラスに続く階段に向かう。五人が階段を上っている途中、建物の中から一発の銃声が聞こえた。野瀬は足を止め、少しの間だけその方向を向いた。
「これで勝手に持ち場を離れる人間はいなくなるだろうよ」
不機嫌そうな野瀬は一段飛ばしで再び階段を登り始める。その後ろを肩を落とした石坂とそれを支える興津が進み、最後尾は望と千尋だ。望はふと何か違和感を覚えあたりを見渡した。だが特に変わった様子はない。その様子に千尋が首を傾げ、念のため拳銃を両手で持つ。
「どうかした?」
「いや、何かおかしくないか?」
「何か? 別に何も。周りにゾンビはいないし……でも確かにさっきと違うね。何かざわつくような感じがする。風かな?」
「おい、下で何かあったのか」
既にウッドデッキのテラスに上がった野瀬が手摺りから一階を覗き込んだ。ちょうど階段を上り切った興津も石坂から手を離し周囲の警戒を始める。
「こっちからは何も見えねえぞ」
「二階の屋内も別に異常は無いですよ。でも、確かに何か違和感が。建物の周りでしょうか」
興津も何か感じたらしく、その正体を探そうとしきりに頭を振って辺りを見回した。二階の駐車場、建物の屋根、ハイウェイオアシスの裏手にある小さな森、どこを見ても異常は無い。
「遠くからの音か? 山にぶつかった海風かな? あれは……みんな、あそこを! あの山の麓だ‼︎」
興津がウッドデッキの手摺りから身を乗り出し、遠くを指差した。ハイウェイオアシスの前を走る道路が姿を消す小さな山の方向だ。紅葉というよりは茶色く枯れた山があり、その下の方で何か黒い塊が動いていた。いや蠢いていた。
「何だ、山が横に伸びてやがるのか? いやあれは」
驚愕する野瀬の隣に、階段を駆け上がった望と千尋が並んだ。そして山の麓から伸びる路上を進む集団を確認する。
「ゾンビの群れです。すごい……百や二百じゃきかない。大群です」
「嘘でしょ。あんな数、こっちに来たら対処のしようがないじゃない」
それは黒いカビの成長を定点カメラで撮影し早送りした動画のようだった。黒い小さな塊が次々とゆっくりと横に膨らんでいく。その全てがゾンビなら、その数は千近を超えるだろう。呻き声、足音、ゾンビ同士がぶつかる音、直接は聞こえないがそれらの振動が細波のように空気を伝わって望達に届く。
「どうしてこっちに来やがるんだ? 戦闘の銃声が聞こえやがったのか」
「もしかしたら、あの女性かも」
千尋が一階の駐車場で倒れたままのレインコートの死体を見た。いつの間にか、風でキッチンペーパーが飛ばされ顔が剥き出しになっている。その表情は満足そうに笑っているようにも見えた。
「叫ぶゾンビの最後っぺってか。面倒な話だぜ。おい、急いで戻るぞ。冠木、無線で井出隊に緊急連絡を入れろ! 作業員の避難と自衛隊の要請だ」
数が膨らみ続けるゾンビの群れから逃げる様に五人は大慌てて駐車場に戻った。




