8月17日 住宅街(3)
2023年2月21日:全面改定
陽光の眩しさに思わず目を閉じた。
家の外の明るさは薄曇りの日程度だったが、二週間近く電気の無い部屋でカーテンを閉め切って過ごしていた望には十分過ぎた。手で太陽を遮り、顔を逸らして目が慣れてるのを待ってから軒先越しに空を見上げてみた。煙のような火山灰の層が空一面を覆っている。灰に遮られた太陽は肉眼でも見れるほど弱々しく、地表に届く光は八月だというのに秋のようにほんのりと暖かい程度だった。
「火山灰の冬が来て、人間も恐竜みたいに絶滅する……誰かが言っていたな」
望ははっきりとしない空模様をしばらく眺めながらネットで飛び交っていた噂を思い出した。富士山の噴火から翌日にかけて、電気やインターネットが止まるまでのわずかな時間、ネット上には富士山の噴火や空を覆い始めた火山灰について様々な情報が飛び交っていた。富士山の噴火だけにしては火山灰が多すぎる、太平洋やアメリカでも噴火があった、火山灰は今後数十年地球を覆い灰の冬が来る、暗い話ばかりだった。八月だというのに秋のような肌寒さに、噂はあながち間違いでもなさそうに思えた。
「噴火、寒冷化、それにゾンビ……いまは考えても仕方ない。俺にできることは、西山のところに行くこと。まずは生存者のあの子を見つけないと」
空が晴れる気配はなかったが雨が降ったり強い風が吹くこともなさそうだった。運がいいことに、玄関前に積もった火山灰には家に来た少女が残した足跡が残っている。足跡は外に向かうものもあり、これを辿っていけば間違いなく追いつけるはずだ。
望はまず玄関の周りを確認した。背中側には家の扉、目の前には格子状のアルミ製の門がある。門と玄関の間の小さな道も灰が積もっておりそこに小さな足跡がいくつもついていた。足跡は家の外からやってきて、植木鉢の前で止まり、植木鉢を少しどかした後、玄関の中に消えている。そして玄関から出てきて敷地の外に消えた。
「植木鉢の鍵を知っていた…。希美の友達なら知っていても不思議じゃないか。あいついい加減だから。やっぱりあの子は音葉ちゃんか」
地面には他の足跡は残っていない。
「音葉ちゃんは一人で来て、この辺りにゾンビはいないってことだよな?」
庭の方も確認してみた。大人の足跡がかすかに残っていたが火山灰が深く積もっているので何日も前のものようだ。望が気づかない内に誰かが家にきて、リビングの掃き出し窓を開けたらしい。だが足跡の上には形が分からなくなるほど灰が積もっていた。一週間か、あるいはもっと前の出来事なのだろう。
望は家の敷地の外に耳を傾けた。普段であれば、近所の人々の生活音、車が走る音、電線に止まった鳥の鳴き声など様々な音が溢れているはずだった。しかし今はどれだけ耳をすませても風の音以外は聞こえない。
「大丈夫。誰もいなしい、何もいない」
塀から頭を出し、小さな足跡の行き先を追ってみる。冠木家を出た後、最寄りの地下鉄駅がある方向に向かって進んでいた。家から地下鉄駅のまでは徒歩で十分程度。望が毎朝通学に使っていた慣れ親しんだルートだ。
「駅に向かったのか。電車が動いているとは思えないけど、駅前に生き残りが集まっているのかもしれない」
望はカバンを肩に掛け直すと木刀を右手に持ち家の門に手をかけた。門を開こうとするとヒンジ部分に灰が詰まっているのか少し重い。望が力一杯押すとアルミ製の門はギイと音を立てながら開いた。
家の外に一歩目を踏み出す。降灰が音を吸収しているからか、どこまでも静かで生き物の気配を感じない。雪の積もった山の中に似ているが、すがすがしさや心地よさはなかった。呼吸をしてみてもただただ粉っぽいだけだ。
家の敷地から出て、足跡を辿って住宅街を進む。地面に足を下ろす度、踏みつぶされた灰の粒子がこすれ、ギュッと音を立てた。道路に積もった火山灰は一センチほどの厚みがあり、思いの外歩きづらかった。その上、足を上げるたびに白い灰が舞い上がり、靴の中に入ってくる。
「長靴かブーツ、それと替えの靴下が欲しいよ。靴の中が灰だらけだ」
望は既に少女が踏み固めた足跡の上をなぞる様に歩くことにした。一度灰を押し固めているため、先ほどよりもわずかに歩きやすい。
少女の足跡はまっすぐ駅に向かって住宅街を進んでいた。住宅街の道は車が二台かろうじてすれ違える広さがあり、両側には家が立ち並んでいる。東京の狭い土地事情を反映して、家はどれも敷地一杯に建てられており、窓は小さい。まるで巨大な壁のように道の両脇を固めていた。それらは火山灰で灰化粧をしており、空と地面の灰色と相まってまるでコンクリートの迷宮を歩いているようだった。
「本当にどこもかしこも灰まみれだ。モノクロの世界だよ……」
一方通行の道路標識の赤、自動販売機の青、植木の緑、かつてはあった様々な色は全て灰色に塗りつぶされていた。慣れ親しんだはずの道は見知らぬ場所になっていた。
「誰かいないのかな。俺みたいに家に避難していた人が大勢いてもいいはずだけど」
望は時々立ち止まって周囲の家の二階を観察した。望と同じように生存者がカーテンの隙間から外を見ているのでは、そう期待していたのだが、人がいる気配はなかった。
最初の交差点を曲がった時、電柱に正面から突っ込んでいる車を見つけた。駅の方に向かう途中で事故にあったらしい。
「車? そうか、もし動くなら使えるかもしれない」
かなり前に事故を起こしたらしく、車体全体に火山灰が積もっていた。ドアはどこも閉じたままでリアガラスには除き防止のシートが貼られており中を伺うことはできなかった。望は距離を保ったまま車の横に回り、側面ガラスから中を見た。助手席に人影がある。女性のようだ。女性はシートベルトをしたまま項垂れており、膝の上には真っ黒に汚れた白い布のような物があった。奥の運転席にも男性のような人影がありハンドルにもたれかかるように倒れている。二人ともピクリとも動かない。
「あの大丈夫ですか?」
小声で声をかけたが当然反応はない。
「死んでるんだよな……。あの白いのは萎んだエアバック? あの黒い染は血か。こんな住宅地の真ん中で事故を起こしたのに誰も助けにこれなかった……本当に誰もいないんだな」
辺りを見回してみるがやはり生きている人間はいない。足元を見ると少女の足跡は事故を起こした車の横を素通りしていた。車から距離を取って歩いたらしく、足跡が大きな弧を描いている。
「警戒していた? あの死体、まさか動かないよな」
急に寒気がし、唇が乾いた。強めの風が吹き、冷たい空気が望の首筋をなでる。妙な気配を感じて慌てて後ろを振り返るが何もない。ただ風が火山灰を巻き上げているだけだった。安心もつかの間、今度は車の中で何かが動いたような気がした。また振り返って車内を凝視する。風で死体の服が揺れているだけのようだ
「大丈夫……だよな」
急に一人でいることに不安を感じた。今この瞬間にも背後からゾンビが襲ってくるのではないか、そう思うとじっとしていられない。恐怖で胃を痛めながら早足で車から離れ、少女の足跡を追った。
しばらくしてある曲がり角に着いた。そこには衝突防止の鏡が設置されており、曲がり角の先が見えるようになっている。足を止めて見上げてみると灰で汚れた鏡の中に人影が見えた。その人影は望に背を向けゆっくりと駅に向かって歩いている。
「あの子だ! もう追いつけた」
ほぼ二週間ぶりの生存者との再会への期待と孤独への不安から望はろくに確認もせずに駆け出した。加速しながら角を曲がると道の先に人影があった。
「ねえ、君……」
声をかけようとして、望は凍り付いた。人影は探していた少女ではない。背の高い男性で白髪交じりの髪、肌は白く変色していた。右手に紐を持っており、その先には輪っか状の物がつながっている。その男性は望の声に気がついたのか、ゆっくりと後ろに振り返った。その目は白く濁っていた。
「うわつ、ゾンビ……!」
その干からびた顔には見覚えがあった。近所に住む老人だ。名前は知らないが、毎朝犬と散歩をしたり、黄色いベストを着て小学校の通学路で交通安全運動をしたりしていたのを覚えている。昔どこかで学校の校長先生をしていたらしく、「校長」と呼びかけられるのを聞いたことがある。威厳があり、望は見かける度にポケットに入れた手を出したり歩きスマホを止めたものだった。しかし今、目の前にいる老人の目は虚空を見つめ、口はだらしなく開いたまま。髪はボサボサで一部は抜け落ちて地肌が見えていた。口の周りとシャツはどす黒く汚れた長い毛のようなものが付着している。
手に持った紐は犬のリード、地面に転がっている輪は首輪のようだ。そして、老人の口の周りに引っかかっている茶色い毛は老人の愛犬のものによく似ていた。
「犬を食べたのか」
老人が、足を擦るように一歩前に出す。重心のバランスがおかしいのか、上半身が右に大きく揺れて前屈みになる。体勢を直し、また一歩踏み出す。今度は左に揺れる。そうやって壊れた弥次郎兵衛の様に身体を左右に揺らしながら望に近づいて来た。
「に、逃げなきゃ。じっとしていたら殺される」
しかし望の身体は金縛りにあったかの様にいうことを聞かない。しかも突然、望の脳裏に避難所で人々を襲っていたゾンビの姿がフラッシュバックした。女性の首に噛みつく都職員ゾンビ、飛び散る血。人間の腹を裂き中にあるモノを貪る消防団員ゾンビ。そして望に襲い掛かってきた母親ゾンビ。逃げなくてはいけないとわかっているのに、脳は壊れた動画プレイヤーのように恐怖の記憶をリピート再生していた。冷静なろうとしても頭の処理能力はゾンビで一杯、逃げようとしても全身の神経との接続が切れてしまったように身体が動かない。
老人ゾンビが動く度に、リードでつながった犬の首輪が地面に積もった灰を削る。
「こっ……、ま」
もう独り言すら出ない。
(このままじゃ俺も犬のように殺される。動け、俺の足、動け!)
心の中で大声を上げて叫ぶも身体は反応しない。手に持った木刀の存在はすっかり頭から消えていた。
老人ゾンビはうめき声のような掠れた音を上げならさらに近づいてくる。
(逃げろ、逃げろ。逃げろ。逃げるんだよ、俺)
一歩、また一歩、老人ゾンビと望の距離が縮まる。そして、ついに老人ゾンビが望を間合に収めた。望を掴もうと、老人ゾンビが両手を前に突き出す。それを反射的に後ろに避けようとした望の足が灰の上を滑った。肩にかけていたカバンの重さに引っ張られバランスを崩し背中から道路に倒れる。尻と背中を強い衝撃が走り、灰色の空が目の前に広がった。衝撃で灰が空中に巻き上がり、その向うで老人が望に覆い被さろうとするのが見えた。
「死んで、死んでたまるか! 俺は、西山にっ、まだ、うわああああぁつ!!」
望は左手で身体を捻るように起こしながら死に物狂いで木刀を振った。木刀は綺麗な弧を描きながらゾンビの首筋に命中し、パキッと乾いた音を立てて折れた。木刀の先端が回転しながら近くの家の塀にぶつかり地面に落ちた。
「えっ?」
ゾンビは一瞬怯んだが、まるでダメージになっていない。首を何度か揺すりニタリと笑らい再び両腕を倒れたままの望を捕らえようした。
「く、来るな」
せめてもの抵抗で折れた木刀を顔の前にかざして防御姿勢を取る。頭が混乱し、ハサミで戦うとか逃げ出すとか、他の選択肢は一切思いつかなかった。ただ恐怖に押しつぶされ、潰れるほど瞼を閉じた。次の瞬間、ガツっと何かが固いものに突き刺さる音がした。段ボールに勢いよく鉛筆を突き刺したような音だ。そして冷たく固いものが望の腕にぶつかり、バウンドして身体の横に落ちた。制服の袖にべっとりとした冷たい粘液が染みこんできて、生ゴミと腐ったチーズをかき混ぜたような悪臭がした。
(喰い殺される!)
老人ゾンビの歯が望の腕の骨を砕いたのか。だが痛みは感じない。激しすぎて神経が麻痺してしまったのかもしれない。近くで液体が滴る音がした。自分の血なのか、ゾンビの体液なのか、目を閉じているのでわからない。望は苦痛に耐えようと身体を固くしたが、いつまで経っても痛みは感じなかったし意識が無くなることもなかった。
「いつまで尻餅をついてるんですか」
上から少女の声がした。綺麗な声だった。天使が迎えに来たのかと思った。
「聞こえてますか? それともショックで死んじゃいました?」
どこかで聞いたことのある声だ。望は恐る恐る目を開けた。
「うわっ」
目の前、わずか五十センチ程の距離に老人の顔があった。その口からはなぜか鋭利な刃物の切っ先が突き出ており、その刃物を伝って老人の口から流れ落ちた白い体液が地面に滴っていた。老人ゾンビの向こうにははっきりとはわからなかったが誰かが立っている。その人物が長い刃物で老人ゾンビの頭部を突き刺し、倒れないようそのまま支えているらしい。
「生きているのなら、早くそこからどいてくれませんか。この人結構重いんです」
女の子の声だ。見ると、老人ゾンビの口から飛び出した刃物が小刻みに震えている。老人ゾンビを支えている人物の腕は直ぐに限界を迎えそうだ。
「待ってくれ! すぐ動くから」
望は身体を横にずらそうとして、横にある何かに気がついた。
「ひいっ!?」
そこには人間の歯があった。正確に言えば、人間の上あご部分の入歯だ。ピンク色の肉に白い歯が突き刺さっている。歯と歯の間には長い犬の毛が挟まっていた。
「どうしたんですか? 早くどいてくださいって」
ゾンビを支えている少女の声は明らかに苛立っていた。
「歯が、入れ歯が、俺の横に落ちてて、」
「……あの、このままゾンビを上に落としてもいいですか?」
「でも、入れ歯が、入れ歯があるんだ!!」
「……あと三秒で落とします。三、二、一、」
カウントダウンと共に、望の上で浮かんでいた老人ゾンビの頭がゆっくりと下がってきた。このままだと望の胸で老人ゾンビを受け止めることになる。
「今どく! 今どくからっ!!」
望は入れ歯とは反対側に大急ぎで転がった。すぐに少女は老人ゾンビの頭から棒のようなものを抜いた。ゾンビは受け身も取らず地面に落下しそのまま動かなくなった。望はというと、転がったはずみに宙に舞い上がった灰の一部を吸い込んで咳き込んでいた。灰の細かな粒子がザラっと喉に絡みつく。望は四つん這いの姿勢になると身体に入り込んだ異物を追い出そうと灰に力を込めて咳をした。
「く、灰が喉に。ごほっ、ごほっ、ごほっ、う、うえ、うえええっ」
勢いよく咳き込んだ拍子にゾンビが放つ腐敗臭を大量に吸い込んでしまい、急に気分も悪くなり胃の中の物まで外に戻してしまった。胃液でドロドロに溶かされた保存食のなれ果てが混じったチョコレート色の液体が口の中や歯を胃酸で浮つかせながら地面に落ちる。
「まったく何をしているんですか……」
老人ゾンビが完全に動かなくなったことを確かめていた少女がそんな望を見て呆れた。