幕間 成田の音葉(1)
『おやすみ。また来週』
その言葉を最後に望との通信は切れた。
奥山音葉は手順通り、コンソールのスイッチを操作し通信衛星との通信を送受信モードから待機モードに切り替える。通信席のモニターでシステムが「Standby」になった事を確認すると、ヘッドセットをつけたまま椅子の背もたれに寄り掛かり天井を見上げた。
(遠いな……)
音葉がいるのは地下数百メートルの深さにある成田シェルターの中央管理室。地理上は同じ千葉県内にあるが館山にいる望までの距離はあまりにも遠い。
望と別れてから既に一ヶ月以上が経過していた。シェルターの生活自体には慣れてきたものの、寂しさは増して行くばかりだ。外の世界にいた時、世界はシンプルだった。音葉がいて、望がいて、二人を中心に全てが回っていた。だが、シェルターの中で音葉は独りぼっちだった。
「奥山、いつまでそこにいる」
後ろから名前を呼ばれ、音葉は進まない気でヘッドセットを外した。耳を塞いでいたイヤホンが無くなり先ほどよりもハッキリと周囲の音が聞こえて来る。空調の音、様々な機械の作動音、働くスタッフの息吹、そして自分に敵意をぶつけて来る男の声も。
「通信が終わったのなら早く退出しろ。お前がここに滞在できるのは「アイリス」との連絡時だけだ。必要以上に中央管理室に留まるな」
後ろを振り向くと、そこには成田シェルターの白い制服を来た五十代の男性がいた。現在、司令室にいるスタッフでもっとも階級の高い男、徳永二佐だ。中年の男性で海外の軍隊では中佐に当たる。彼は音葉への敵意と嫌悪感を隠そうともしない。いい歳をして立場のある大人が中学生くらいの少女に露骨な態度を取っているにも関わらず、周囲にそれを咎める人間はいない。夜間とはいえ中央管理室には十人近い男女がいる。しかしその半数以上は徳永と同じ考えを持っており、好意的とは言い難い視線を音葉に向けていた。
「失礼しました。すぐに退出します」
「使った道具の消毒は忘れるなよ」
「……はい」
ノートパソコンを閉じ、自分専用のヘッドセットと一緒に鞄に入れる。それから、鞄からアルコールスプレーを取り出して自分が触ったデスクに吹きかけ、さらにアルコールが含まれたウェットティッシュで拭く。
「ちょっと、右手を使ったら意味ないでしょ」
「……すみません」
隣に座っていた女性スタッフに言われ、音葉はウェットティッシュを右手から左手に持ち替えた。
音葉の右腕は肩の辺りから指先までゾンビと同じように白く変色している。シェルターの医療設備で確認したところ、体内にゾンビウイルスは残っていなかった。白化した腕はゾンビ化の途中で残った火傷の跡の様なもの、そう説明された。しかしシェルターに住む多くの者、特に避難の途中で家族や友人をゾンビに殺された者にとっては体の一部とはいえゾンビと同じ外見を持つ音葉を受け入れるのは簡単な事ではない。
「何でこんなのが中央管理室にいるんだ。もし俺達がゾンビに感染したらシェルターは全滅だぞ」
「まったくだ。所長もなにを考えているのか」
そんな陰口を聞きながら、音葉は念入りに椅子や机、通信装置のスイッチ類を拭き、使い終わったウェットティッシュを自分の鞄に入れた。目を合わせないように徳永二佐の方に顔を向ける。
「除染、終わりました」
「ならさっさと退出しろ」
「……失礼します」
音葉は頭を下げ、出口に向かう。センサーが音葉を捉えると扉が自動で開いた。廊下の空気か室内に吹き込み、短く切り揃えた音葉の髪を軽く揺らす。シェルターに入ってすぐ、音葉は長かった髪をショートカットにしたのだが、剥き出しになった首筋が周囲からの悪意を受けてピリピリした。
「まったく、子供の世間話の為に外部との通信を許可するとは。所長も何を考えているのか」
後ろの方でわざと聞こえるように徳永二佐が嫌味を言っている。中央管理室にいるスタッフが数人、同意を示す。
「まったくです。早くシェルターから出て行ってもらいたいものです。同じ席を使う通信士の多田なんて奥さんに仕事を変えるよう泣かれたらしいですよ」
「とんだ疫病神が来たものだな」
「徳永二佐、あまり大きな声で言うと、ゾンビ女に噛まれますよ」
「ふん、望ところだ。俺にかかってきてみろ。脳天を一発で撃ち抜いてやる。ははははっ」
意味は違うが徳永からパートナーの名前を聞き音葉は不快な気持ちになる。手元に日本刀があれば斬りかかりたいくらいだ。だが音葉は怒りをぐっと堪えて静かに部屋から退出する。ここで問題を起こせば中央管理室への出入りができなくなり望と話す機会を失うことになる。それだけは避けたかった。
部屋から出た音葉は通路を進み、管理区と第一層を繋ぐ専用エレベーターに向かう。
音葉がいるのは日本政府が世界同時破局的噴火とその後に訪れる火山の冬から日本人を守るために建造したシェルターの一つで、通称、成田シェルターと呼ばれている施設の中だった。冷戦時代に作られた核シェルターを拡張した物で、地下九層構造をしており、一番浅い第一層でも地下四百五十メートルの深さがある。
中央管理室がある管理区はシェルターの第一層にある。厳密には発電所や工場、農園、空気や水の浄化設備などがある第一層の上にあり、第〇層と呼ばれることもある。管理区は第一層以外とは直接連絡していないため、音葉は部屋のある第四層の居住区に行くために一度、第一層まで移動し、さらに第一層から第四層まで別のエレベーターを使う必要があった。
管理区専用エレベーターに乗った音葉は扉が閉まると同時に一人弱音を吐いた。
「結構、つらい……」
成田シェルターでの音葉の生活はあまり上手くいっていなかった。
「こっちはまだ中学生なのに……あれで大人なの?」
実際には、シェルター内での音葉は高校一年ということになっていた。その年齢詐称も悩みの種だ。シェルターでは中学より上の教育機関は無く、高校生以上は全員仕事に就く事が義務付けられていた。空気や水の浄化装置のメンテナンス、食料や生活必需品の生産、地下農場で家畜の飼育、他にも放送局やカフェの店員、伝統的な工芸品の職人など様々な仕事があった。シェルター内の人員は限られているため、どこも人手不足なのだが音葉を受け入れようとする職場は一つもなかった。
仕事が無いということは、居場所が無い事と同義だ。やる事がなければ部屋に籠っているしかなく、積極的に交流しようという人は数えるほどしかいない上、彼らは多忙なため誰とも会話を交わさない日の方が多い有様だ。現在のところ、所長の路貝が特別に命じた望との通信が音葉に与えられた唯一の役割だった。
「外でゾンビと戦ってた方が気は楽だった……」
エレベーターが第一層に到着し扉が開く。
今日は金曜日。かつての世界と同じように、シェルターでも土日が休日のため、金曜日の夜は休み前の浮ついた雰囲気になっていた。居住区に繋がるエレベーターに向かうと大勢の家族連れやカップルがホールにいた。第一層にある娯楽施設、カラオケやレストラン、映画館などからの帰りらしい。
「……あそこに私が行ったら、軽くパニックになるか」
音葉は踵を返すと人の多いエレベータを避け、発電業務用のエレベーターへ向かった。第一層にある発電施設と、他層にある予備電源を繋ぐ業務用のエレベーターで、セキュリティは通常の物よりも高く設定されている。音葉のIDには最もレベルの高い中央管理室の利用権限が付されているため付随的に他の施設も使う事ができていた。もちろん生体認証も必要な重要設備には入れないが、エレベーターくらいなら使う事ができる。部屋に戻るにはだいぶ遠回りにはなるが他の住人と顔を合わせるよりはマシだ。
音葉はたっぷり数百メートルを移動し発電区に向かった。そして入り口近くにある業務用のエレベータのパネルに自分のIDをかざし、扉を開く。居住区用の物よりは一回り大きな、だがかなり古めかしいエレベーターに入り、第四層のボタンを押してから扉を閉じようとした。そこに外から声がかかる。
「すみませーん、ちょっと待ってもらえませんか」
音葉は反射的に「開」ボタンを押してしまい、後悔した。外からバタバタと複数の足音がし、三人の家族連れが姿を現した。やや長身の男性、豊かな髪にオレンジ色の髪飾りをつけた女性、そして六歳ぐらいの少年だ。
「いやあ、助かりました。僕達もこのエレベーターで下に行こうと思ってて。あれ、君は?」
長身の男が和かにエレベータ内に入ろうとし、音葉の姿を見ておやっと首を傾げる。発電区の職員であるその男性は、金曜日の夜に業務用エレベーターを使うのは同僚の誰かその家族だろうと思っていた。だが、目の前にいる少女に見覚えがない。男は適当に思い当たる名前を口にする。
「あ、もしかして于野崎さんの娘さん?」
「いえ私は、」
音葉が名乗ろうとした時、女が男の袖を強く引いた。
「ちょっとあなた、今すぐ戻って」
「え、どうしてさ」
「あの子の右手。手袋!」
「‼︎」
音葉の正体に気がついた男はエレベーターの中に踏み込んでいた片足を慌てて上げる。後ろに下がろうとして、だが一度踏みとどまった。男は恐る恐る妻の方を振り返る。
「あのさ、俺が聞いた話だと彼女は見た目だけで問題ないって。これって風評被害ってやつだ。噂だけで人を判断するのはどうかと思うけど……」
「そんな事言って、あなたに安全が保証できるの? 万が一、感染したらどうなるか。あなたのお兄さんみたいにゾンビになりたいの? 私達が感染したら責任は取れるの?」
「いや、そういうわけじゃないんだけど」
「ねえ、お父さん、どうして乗らないの?」
言い争う夫婦の後からまだ事情を把握していない子供が不思議そうに顔を出した。
「僕、早くおうちに帰りたい。エレベータに乗ろうよ」
前に進もうとする少年を母親が引き止める。
「ダメ、中に入っちゃ!」
「なんで?」
「あの子は感染者、ゾンビなのよ!!」
その言葉に少年も音葉が誰なのかを理解し、音葉の右腕を指差しながら大声を上げた。
「あ、ぞんびおんなだ!」
その無邪気な一言が氷の刃のように音葉の心に突き刺さった。シェルターの住人の中にはゾンビに襲われた経験のある者もいる。彼らが白化した音葉の右腕を見て恐怖するなという方が無理がある。それは理解できるが実際に差別されるのはまた別の話だ。
「……ボタンは消毒しておきますので。失礼します」
音葉はエレベーターの扉を「閉」ボタンを押す。外にいた女は恐怖で歪んだ顔を、男は申し訳なさそうな表情で、そして子供は奇妙な動物でも見るような目をずっと音葉に向けていた。扉が完全に閉じ、エレベータが動き出すと音葉は悲しいやら悔しいやらで泣きたくなった。その場に座り込みそうになるが壁に寄りかかり何とか身体を支える。
「こんな事なら、望と一緒に外に行けばよかった」
もちろん、それが出来なかった事は理解している。自分は望の人質だし、右腕がほとんど使えない自分では足手まといにしかなれない。安全なシェルターに匿われ、食べ物の心配をする必要はなく、嫌われ憎まれているとはいえ比較的自由に行動もできる。この恵まれた状況は全部、外で必死に生きている望のおかげだ。そうわかってはいても、音葉は見知らぬ地中で孤立した自分の立場を嘆かずにはいられなかった。
2021年8月17日 微修正




