8月17日 住宅街(2)
2023年2月21日:全面改定
部屋の外に出たのは二週間振りだった。長い間マットレスの上で寝ているばかりだったので身体が歩き方を忘れているからか、あるいは母親ゾンビに対する恐怖からか、足が思うように動かない。バランスを崩して転びそうになり、勢いよく壁に手をついてしまう。大きな音がなり肝を冷やしたが、何かが反応する気配はなかった。望は一歩ずつ、壁に手をつきながら慎重に廊下を進んだ。
望の部屋から階段までは一本の廊下でつながっている。途中に部屋が二つ。普段は使われていない客室と妹の希美の部屋だ。客室のドアはしっかりと閉まっていた。望は少しだけ注意を向けながら客室の横を通り過ぎる。その先にあるのは希美の部屋だ。
「ドアが開いてる……」
先程ここに来た少女、おそらくピアノ教室の娘の奥山音葉、が開けたままにしていったらしい。希美は部活の合宿で長野に行っている。噴火後、学校から合宿を継続すると連絡があったきり今はどうしているのかわからない。まだ生きているなら助けに行きたし、無事でいて欲しいと思う。でも今の自分にできることは何も無い。不安に罪悪感や後ろめたさが混ざり胸が苦しくなる。
「余計な事を考えるな。今は自分の事に集中しよう。あの子はここでは何を探していたのか」
木刀を右手で握りしめ、中を確認する。学習机、ベッド、本棚とレイアウトは望の部屋と似ている。机の上には希美が出発前に持っていくか悩んでいたトランプやジェンガなどが並んでいた。結局持って行かなかったらしい。
「何か使える物があるか……いや、やめておこう。勝手に入ったら何を言われるかわかんないし」
心の片隅では無駄なことだと理解していたができるだけ妹が生きている前提で行動を取りたかった。
「大丈夫。いつか帰ってくるさ」
そう自分に言い聞かせながら部屋のドアを閉じ、階段に向かった。
階段は「コ」の字状になっており、踊り場の高い位置にある窓のお陰で十分明るく段差がはっきりと見えた。階段の壁には母親が趣味で撮影した地方のお祭りの写真や、彼女が十代の時、父親と出会った頃に祖父と参加したという富士山登山の記念写真が額縁に入れられ飾られている。
望はまず、階段の入り口に立って下の様子を確認した。一階に人影などはない。踊り場の窓が少し開いていたらしく階段や二階の一部に外から入り込んだ火山灰が積もっており、その上に足跡が残っていた。望が自分の足を隣に置いてみると二回りほど小さい。ちょうど中学三年生の妹と同じくらいの大きさだ。
「やっぱりあの子は音葉ちゃんなのか。なら他にも生存者がいるかもしれない。まずは追いついて事情を聞いてみよう。ただ、その前に」
望は木刀を握りしめ、でこるだけ足音を立てないように階段を下りた。
下に母親のゾンビがいると思うと心臓の鼓動が早まる。最後に見てから二週間ほど経過している。母親はどうなってしまったのだろうか。何も食べれず飲めずで動けなくなったのか。二週間分の腐敗で目玉が落ち、肉が腐っているのか。そんな母親を見た時、冷静に行動できるのか。考えれば考えるほど、不安と恐怖が増していく。
「大丈夫。一階から物音はしない。少なくとも母さんは止まっているか、外に出たんだ。だから、大丈夫。もしいても、木刀を投げつけて、ひるんだ隙に外に飛び出す。大丈夫。行けるさ」
独り言で自分を鼓舞しながら灰に足下を取られないように慎重に進む。踏み出す度に階段の板がギィと大きな音を立てた。その度に母親のゾンビが階下から顔を出すのではないかと怯えたが何かが出てくることはなかった。
やがて階段の踊り場に到着する。望は身を屈め、一階の様子を伺った。二階から見下ろした時よりも遠くまで見える。
「誰も……いない?」
階段下には小さなホールがあり、そこから廊下を正面に真っ直ぐ行くと左側にリビングやキッチン、右側には両親の寝室や客室、さらに進むと玄関がある。ホールから降りてから右側の廊下を行けば父親の書斎、洗面所やトイレや風呂場などがあった。
母親がゾンビになった両親の寝室のドアは開いていたが、リビングのドアは閉じていた。望が最後に見た時は両方とも開いていたので音葉が閉じたのだろうか。廊下には本やボールペンなどの小物がいくつか散らばっていた。母親のゾンビが歩き回った際に散らかったのだろう。だが肝心の母親のゾンビの姿は見当たらなかった。
望は階段を下りきり、まず右側の廊下を伺った。父親の書斎やトイレや洗面所の扉は閉まったままだ。階段から吹き込んだ火山灰が廊下の一部を灰色にしていたが足跡はない。
「こっちにはいない。いるとしたら親の部屋かリビングか」
望はホールの中をキッチン側にすり足で移動し、ドアのガラス越しに中を確認した。それほど視界は良くないがカウンターキッチンや食器棚、冷蔵庫がの輪郭が見える。人影は無い。キッチンとリビングはつながっている。廊下からでは奥まで見渡すことはできなかったが見える範囲でリビングにも動いているものはなかった。
「キッチンは安全そうだ。多分、リビングも。……母さんは部屋にいるのか」
リビングのドアよりも両親の寝室の方が近い。望は廊下を少し進み両親の寝室を覗いてみた。タオルケットや枕が床に散らばり、望が母親を突き飛ばした際にぶつかったキャビネットのガラスが割れ床に散乱している。中に飾られていた、観光地の民芸品、木彫りの熊、赤べこ、ダルマなどが床に転がっていた。どれも旅行好きな母親が集めたものだったが、ほとんどが無残に踏み潰されていた。部屋の隅にはカメラを保管するための棚があり、そちらの扉はしっかり閉ざされていた。部屋に母親ゾンビの姿は無い。
「いない? ならリビングか」
ここまで来ても物音一つしない。燃料切れなのかもしれない。望は少しだけ軽くなった足で廊下の向かい側にあるリビングのドアの前に移動した。ドアはしっかりと閉じている。
「この中に、母さんがいる?」
足を引きずる音やうめき声のようなものは聞こえてこない。玄関は閉じたままなので外に出たという可能性は低いと思う。リビングのドアに耳を当ててみるがやはり何も届いてこない。望はリビングに入るか迷った。このまま何も確認せずに玄関から外に出た方が安全なのではないか。しかし、母親がどうなったのかを知らずに逃げ出すのは違う気がする。母親がどうなったか自分の目で確かめずにいたら一生後悔するかもしれない。
「大丈夫。もし危なくなったら直ぐに逃げればいい。音葉ちゃんだって無事だったんだ。多分、母さんはもう動けないんだ。大丈夫。行くぞ、行くぞ、行くぞ!」
慎重に扉を開けるつもりが、汗で手が滑ってドアノブが手から抜けてしまった。ドアはそのままリビングの中に開いていき、望は慌てて木刀を両手で構える。ドアはゆっくりと開き、やがてリビングの壁にぶつかってわずかに戻ってきた。望はドアが完全に動きを止める目を左右にめまぐるしく動かしながら母親が現れるのをじっと待った。だが、たっぷり十秒ほど経過しても中で何かが動く気配は無い。
「母さん?」
呼びかけてみるが反応はない。
リビングの左側にはカウンターとキッチンがある。そちらは先ほど安全を確認している。正面にはダイニングテーブル。椅子が何脚か倒れているだけだ。そして右手にソファとローテーブルがある。ソファの影で床の一部が隠れているが、見たところ室内は無人だ。しばらく様子を伺っていたが何かが起こる気配はない。よく見れば庭に繋がる掃き出し窓がわずかに開いている。望は緊張と木刀の構えを解いた。
「なんだ、いないじゃないか。母さんは外に行ったんだな。だから音葉ちゃんが入ってこれたんだ。よかった……」
安心した望はまず残っているはずの食料を手に入れようとキッチンに行こうとした。その時、視界の隅に違和感を覚えた。テレビの前のローテーブルと床の隙間の奥に白い物が見える。
「あれは靴下?」
それは靴下を履いた人間の足だった。ソファーの後ろにあり全身は見えなかったが、体格は母親に似ていた。
「母さん!?」
望は半分震えながら木刀を構えなおした。だが足に反応は無い。望はダイニングテーブルに置かれていたティッシュボックスを掴むと母親ゾンビが横たわっているあたりに向かって投げた。箱は狙い通りソファの向こうに飛んで行き足に命中が、母親が起き上がってくる気配はない。
「……やっぱりエネルギー切れか?」
あの日、母親は意思を感じない空虚な白濁した眼球を望に向け、望に牙を向いた。直前まで自分の身を心配してくれていた母の面影は消え失せ、飢えたハイエナのように襲い掛かってくる母親のゾンビに前に気が動転し、がむしゃらに逃げることしかできなかった。だが今、母親は動けなくなっている。襲われないのなら近づくこともできる。
「葬式は無理でも、せめて何か」
望はゆっくりとソファの裏側に回り込んだ。予想通り、そこには母親ゾンビが横たわっていた。しかしエネルギー切れで動けなくなったのではなかった。母親の首は胴体から切り離され、少し離れた所にキッチンペーパーのような白い紙を被せた状態で落ちていた。
「なっ、かあ……さん」
首の切断面はまだ乾ききっておらず白い液体が滲み出てフローリングに水たまりを作っている。腐った牛乳と生魚を混ぜたような腐臭がわずかにした。
「音葉ちゃんがやったのか……?」
望はペタンと尻餅をつくようにフローリングに座り込み、母親の遺体を見つめた。母親は仰向けに倒れ、両腕をだらんと横に垂らしている。旅行と写真が趣味で研究者肌の父親よりも力持ちで、かつて望と希美が小さかった頃はその腕に掴まって遊んだ、がっしりとしていたその腕はやせ細り白く変色していた。不思議な事に爪は死んだ後もわずかに伸びていたらしく尖っていた。望は恐る恐る、母親の手を伸ばし触れてみた。ひんやりとはしたが、物体ではない。ほんの僅かだが確実に熱が残っていた。
「温かい……。ついさっきまで生きていた? でもゾンビになる直前に心臓は止まっていた。ゾンビになって生き返ったのか? 死んでいたわけじゃないのか……」
答えを求めるよう、望は床に座ったまま母親の頭部に手をのばし掛かったキッチンペーパーを持ち上げた。
「ああっ、そんな」
母親の右目には後頭部まで貫通する大きな傷があった。何か鋭いもので突き刺されたような跡だ。その傷口からも、火山灰の色をした白い液体が染み出ている。グロテスクな光景だったが液体の色が白いので幾分かショックは和らいだ。それでも母親を襲った惨状を見ていられず望はキッチンペーパーを元に戻し顔を逸らした。
「母さん……」
床を見つけながら望は母親の事を思っていた。ゾンビ化する前、混乱する望の手を引いて避難所の学校から家まで走った姿。噴火の後、家に帰った時急に抱きしめてくれたこと。高校に合格した時、妙に気合を入れてケーキを焼いていたエプロン姿。中学の時、家族旅行で行ったキャンプでテントの設営から調理までなんでもこなしてくれた母。最後に思い出したのは望が幼稚園児くらいの頃、雨の降る家での光景だった。雨音を聞きながらリビングで絵本を読んでいた望を母親が微笑みながら見守っている。その何でもない静かな時間が妙に心に残っていた。
しかし、その母親はもういない。命を落としたのがついさっきなのか、それともゾンビ化する直前だったのかはわからない。ただ、ここに残っているのは身体だけ。
それからしばらくの間、望は母親の遺体の側から離れられなかった。だが一滴も涙が出ない。母親という存在がいなくなったことへの喪失感と一緒に、なぜかこの状況に対応して生き残らなくてはと冷静になれる自分もいた。望は大きく息を吸って吐く深呼吸を何度か繰り返した。徐々に気持ちが落ち着いてくる。
「……いつまでもこうしていられない。早く、あの子を追いかけないと」
母親を「殺した」のが音葉なのかはわからない。だが状況的に彼女が関わっているのは確かだろう。もしかしたら見かけなかっただけで大人が同行していたのかもしれない。少なくとも現状唯一の生存者である彼女に話を聞くべきだろう。
望は母親の遺体を視界に入れないように立ち上がりゆっくりとキッチンに向かった。カウンターを回ってキッチン内に入るとシンクの中に洗われなかった食器が残っていた。皿の表面はすっかり乾燥してしまっていたが、深鉢の中にはまだ水が残っている。望は試しに水道の蛇口をひねってみるが水は出なかった。
「包丁なら武器になるか。確か流しの下だよな」
屈んで下の扉を開いた。いつもはそこに包丁が何本入っていたのだが、今は空っぽだ。
「音葉ちゃんが持っていったのか? なら食料は?」
立ち上がって食料の入っている棚を確認してみる。いつもは缶詰などが並んでいるそこはやはり空っぽになっていた。保存食を入れてある床下の収納を見てみたが、水のペットボトル以外の食料はすべてなくなっていた。冷蔵庫の中は全て腐っており異臭がした。
「結局、残っていたのは水のペットボトルと親父の会社のビタミン塩飴の袋だけか」
銀色の袋に入った健康食品の飴が二袋、棚に残っていた。おそらくこの棚を漁った人間には飴だとわからなかったのだろう。望は飴の袋を通学鞄に入れる。ペットボトルの水もカバンに入れようとしたが、スペースがなかった。フライパンなどの調理器具はあったが武器になるとは思えない。
「他に役に立つものは……あれは?」
キッチンのカウンターの上にある木のオブジェに目が留まった。それは枝に家や自転車の鍵を架けておくキースタンドで大きな幹から八本の枝が伸びている。今は母親と望の家の鍵がかけられており、さらに見慣れた物が一つあった。
「母さんの指輪か」
それは母親の結婚指輪だった。いつも洗い物の時には指輪をキースタンドに引っかけていたので、最後に外したままなのだろう。一緒に配給をもらいに行った時は身に着けていたので、帰ってからどこかのタイミングで外していたのかもしれない。
「指輪、戻した方が方が喜ぶかな」
望は母親の指に戻そうと思い指輪を手に取った。旅行好きだったためか、シンプルな銀色の指輪の表面には細かな傷が大分ありアンティークのような鈍い輝きを見せていた。母親の遺体にそれを戻そうとして、ふと思い悩む。
「外に出たら……俺は家に帰ってこれるのかな。多分、無理だろうな。どこかに避難所があったとしても当分は。母さんの遺体はしばらくこのままに……その間に空き巣が入るかもしれない」
リビングに金目の物はないため、空き巣が母親の指輪を見つけたら持っていくかもしれない。それならば自分で持っていた方がいい。父親か妹が生きていれば形見として渡すこともできる。
「母さん、指輪を借りていくよ。いつか返しにくるから」
望は指輪を自分の指にはめようとしたが入らなかったので充電の切れたスマートフォンのストラップに括り付けることにした。
それからリビングに横たわる母親を見ないように床に視線を落としながらキッチンのドアから廊下に戻った。そのまま玄関に向かう。鍵はかかっていない。
まず履き馴れたスニーカーを履く。念のため玄関の収納を開いてみたが入っていたのは父親の革靴や母親と妹のレインブーツとビーチサンダル、自転車の空気入れなどで使えるものはなさそうだった。
「野球でもしていればバットがあったのに」
そんな独り言をつぶやきながら、望は靴ひもを結び直し立ち上がる。目の前には家のドア。望の部屋やリビングとは違う重厚な作りだ。この一枚のドアが外と内を隔てている。外にはゾンビがいるかもしれない。急に二階の自室に戻りたくなったが頭を左右に振って臆病さを追い出す。
「大丈夫。行こう。この先へ」
望はもう一度後ろを振り返る。この位置からでは、もう母親の姿は見えない。
「さよなら、母さん。行ってくるよ」
望は正面を向き、一気にドアを開けた。