序幕 西山千尋の決意
八月が終わる。
いつもなら、外は輝く陽光に満たされ、空はどこまでも青く、大地は溢れる緑で覆い尽くされているはずだった。だが富士山が噴火した今、空も大地も火山灰に覆われ、空の色を映す海も灰色一色だ。
そんな絶望的な世界でも人間はしぶとく生き延びていた。ゾンビに支配され死の列島となった日本だったが、かつて千葉県だった房総半島の南部にある海上自衛隊館山基地には多くの生存者がいた。基地は海に突き出た四角い飛行場のような形をしており北と東西の三面は陸地と接していない。さらに南側の半分近くが川によって館山の市街地と隔てられている。ゾンビから身を守るにはうってつけの場所だった。市街地と地続きの部分には元からあった壁に加え、トタン板などで三メートルの壁が作られていた。
この要塞化された館山基地には、広島県から護衛艦「いずも」に乗って逃れて来た人々と関東中から集まった人々が身を寄せ合い暮らしていた。家族を全員亡くし天涯孤独となった十五歳の少女、西山千尋もそのキャンプのメンバーの一人だった。
館山基地にある女子寮の一室で西山千尋はベッドに横になっていた。時刻は午後十二時過ぎ。空が火山灰で覆われ日光が大地に届かないとはいえ、昼間はかなり暑く、開けっぱなしの窓から吹き込む海風が心地よかった。
千尋は午前中の労働でくたくたに疲れた体をベッドのスプリングに預け、ただ時間が過ぎるのを待っていた。千尋の仕事は洗濯。発電機の燃料を節約するため洗濯機は使用禁止なので、一日中かけて基地で暮らす人々の服を洗っている。今は昼休みなのだが、千尋はさっと昼食を済ませると一人で自室に戻っていた。他の同年代の少女は基地の空き部屋でおしゃべりに興じているようだが、千尋はそんな気分にはなれなかった。
「どうして私なんかが生き残ったの……」
千尋は館山基地に来てから何十回と繰り返した問いを呟く。もちろん、誰も答えてはくれない。
寝返りを打ち、近くの机を見る。そこに置かれた日めくりカレンダーは八月四日のまま止まっている。その隣には写真立てがあり、自衛隊の礼服を着た二十くらいの女性とその両親らしい年配の男女が写っていた。千尋が今寝ているベッドの本来の主人だ。富士山が噴火したのは八月三日。その翌日、この女性は部屋から出勤し、帰って来なかった。ゾンビに襲われて命を落としたか、あるいはゾンビになったのか、その最後はわからない。千尋の姉、西山千明と同じだ。
千尋はぎゅっと目を閉じ最後に見た姉の姿を思い出す。
避難所となっていた大学から脱出した直後、千尋の乗っていた車が横転した。その事故で足を挫いた千尋を助けるため、姉の千明は囮となってゾンビの大群を引き付けて姿を消した。千尋と他の生存者は何とか動く車を見つけ、千明が戻って来るのを待った。だが、結局姉は現れる事なく、一行は館山に向かった。その道中、千尋達はさらに半数の仲間を失った。負傷していた千尋が無事だったのは、仲間がみな帰ってこなかった千明に責任を感じ、千尋を守ったからだ。結果的に勇敢な人達が命を落とし、足手まといの千尋が生き残った。
「お姉ちゃん……早く来てよ」
基地に到着してから一週間以上が経つ今も、千尋は姉が館山に現れるのを待っている。
館山に到着した生存者は二種類に分かれる。やっと辿り着いた安全な場所に喜び、力を合わせて困難を乗り切ろうとする前向きな者、そして家族や友人を失い、先行きが見えない世界に絶望して生きる気力を失った者だ。千尋は絶望した側の人間だった。
母親は千尋の目の前でゾンビになり、姉は千尋を庇って姿を消した。おそらく、もう生きてはいない。
「私じゃなくてお姉ちゃんが生き残るべきだったのに」
千尋は自分が生きている理由がわからなかった。
姉の千明は昔から存在感のある少女だった。高校では生徒会で活躍し、噴火後の避難所でも周囲を明るくし、絶望に挫けそうになった人々を勇気づけていた。自分のできる事を精一杯行い、銃の扱い方を教わってゾンビとも戦っていた。生き残りの一人はそんな姉をまるでジャンヌダルクだと言っていた。実際、千明が生きていれば館山でも中心的な存在になっていたはずだ。だが、千明はいない。ここにいるのは出来の悪い妹、西山千尋だけだ。人を励ます事も、ゾンビと戦う事もできない。せいぜい洗濯機の代わりに洗濯をするだけだ。
「いっそ窓から飛び降りようか」
そんな黒いもやもやとした衝動が胃の辺りで蠢いている。この世界にはもう両親はおらず、きっと姉もいない。そんな世界のどこに未練があるのか。千尋は首を傾け、開けっ放しの窓を見上げた。その時、ふいに部屋の扉がノックされた。
「西山さん、いい?」
同じ女子寮で暮らしている波多野という女性の声だ。かなり大きな生存者グループのサブリーダー的な立場にあり、寮の中でも顔役的な存在になっている。塞ぎ込みがちな千尋にいろいろと気を使ってくれている親切な人だが、時々鬱陶しくも感じていた。リーダシップを発揮する女性を見ているとどうしても姉の事を思い出してしまう。
「……なんですか。まだ休み時間ですよね」
「西山さんに会いたいって人が来てる」
「またミウですか?」
ミウは館山基地に避難している民間人の一人で、広島から逃れて来た護衛艦「いずも」に乗って来た少女だ。地元ではアイドル活動をしていたらしくよく通る声と底なしの明るさが特徴で、館山基地の存在を知らせる放送を読み上げたのも彼女だ。ミウはこんな状況でもアイドル活動をしたいらしく、学校で軽音部に所属していた千尋にギターをやってくれとやたら勧誘して来る。鬱陶しい人、その二だ。だがこの日の訪問者はミウではなかった。
「いえ。会いたいって言っているのは昨日基地に着いた男の子よ」
「男の子……?」
「ええ。西山さんと同じくらいの。その、お姉さんの事で話したい事があるって」
その一言で千尋はベッドから飛び起きた。姉が生きていたのか、希望と期待が夜空に咲く花火の様に広がった。だがそれは花火の様に一瞬で萎む。もし姉が生きているのなら真っ先に本人がここに来るはずだ。そうでないという事は、男の子は姉の死を伝えに来たのだろう。千尋はベッドの上で破けそうになるくらい強くシーツを握りしめ、閉じたままの扉から目を逸らした。
「会いたくありません」
「どうして? 理由を聞いてもいい」
会ってしまえば姉の死が確定してしまう、そんな子供じみた言い訳はできず、千尋はただ俯き黙った。だが扉の外にいる波多野の気配が消える様子はない。
「西山さん、あなたに会いに来た男の子は冠木望って言うの。実は私達、ここに来る前に彼に助けてもらったことがある。勇敢でとてもいい子よ。もし西山さんがよければ会ってあげてほしい」
「冠木望?」
千尋はその名前を知っていた。数年前から、姉が時々口にした少年の名前だ。最初はストーカー扱いしていたが、やがて姉が彼に恋をしている事がわかった。噴火のあった日、ついに告白されたと浮かれていた千明の姿が思い浮かぶ。あの瞬間が、姉の人生で最も幸せなひと時だったのかもしれない。
姉の彼氏が生きていて、一人で会いに来た。それが意味する事はやはり最悪の結果だとしか思えない。だが、冠木望が自分に会いに来たということは、彼は姉に会えたのだろう。それなら、彼は姉の最後を知っているかもしれない。もし姉が千尋に何か言葉を残していたら、それを頼りにこれから生きていけるかもしれない。あるいは、姉や両親の所に行く決意ができるかもしれない。千尋は顔を上げるとまっすぐ扉を見つめた。
「……わかりました。行きます」
「良かった! 彼は一階の玄関にいるから用意ができたら来てね」
そう言って波多野は扉の向こうから去って行った。
千尋はベッドから降りると、解いていた髪を縛りなおし気を引き締める。それから部屋を出て、まだ本調子でない足を引きずりながら階段を降り、女子寮の玄関に向かった。館山基地に避難してきた生存者達はトラブルを避けるために女性の独身者は女子寮で生活している。当然、男子禁制で、建物内には銃を持った女性が警備に当たっていた。
玄関を出ると、一人の少年が大柄な男性と話していた。男性は確か野瀬という名前で、波多野と同じ生存者グループのリーダーだ。そして千尋は少年の顔も知っていた。姉に何度も写真を見せてもらっていたから。わずかな期待を持って少年の周りを見たが姉の姿はない。
少年が千尋の顔を見た。その瞬間、少年、冠木望は泣きそうな顔になり千尋から視線を逸らした。
(ああ、やっぱりお姉ちゃんは死んだんだ)
千尋は自分の心も死んでいくのを感じながら、その少年に近づく。
「……あなたが望さんですね」
「ああ。君が西山千尋さん?」
「そうです。千明の妹の千尋です。姉がお世話になりました」
姉の名前を過去形と共に口にした時、望の表情が沈む。
「……俺の事、知っていたんだ」
「はい。姉が、よく話していましたから」
「そっか。どんな風に言ってたのか気になるよ。あいつは、千明さんは、遠慮なく物を言うタイプだからな」
「望さん。姉はどうなりましたか」
会話の間合いを探っていた望に千尋が無造作に切り込んだ。望は口を開きかけ、それから手にしていた手帳を千尋に渡した。その手帳には見覚えがある。姉の千明が避難所で手に入れた物で、日記をつけていた物だ。
「……ごめん。俺は君のお姉さんを助けられなかった。この手帳に、君へのメッセージがある」
「そうですか。姉は死んだんですね」
千尋は無表情でその手帳を受け取った。望は表情をさらに暗くし、少し離れた位置で二人を見ていた野瀬と波多野も何とも言えない顔をする。
「どんな最後だったんですか」
「それは……」
「教えてください。真実を知りたいんです」
「……西山は、ゾンビに足を噛まれていた。地下鉄で見つけた時には、もうゾンビになっていた。だから、俺が、止めを刺した。ごめん」
「そうですか」
不思議だ。涙が流れない。自分の心はとうの昔に死んでしまっていたらしい。千尋は姉の死の知らせに驚く事も悲しむ事もできなかった。ただずっと目を背けていた現実と向き合い、絶望を再認識しただけだ。姉の性格的に、生きていればすぐに千尋のもとに戻ってきたはずだ。それができなかった時点で、もう希望が無いのは明らかだった。そして、姉がいなくなったあの日から自分もただの抜け殻になっていた。
「手帳、ありがとうございました」
千尋は姉の形見を受け取ると、望に背を向けた。望は何かを言いたそうにしていたが、その言葉が出る前に千尋は玄関をくぐり建物の中に入っていた。そして部屋に戻る。一人になれば泣けると思っていた。だが結局、涙は流れなかった。
それから一週間が過ぎた。
千尋はまだ生きていた。姉が最後に書き残した言葉に「私の分も楽しく生きて!」と書かれていたからだ。千尋にとって、それはほとんど呪いの言葉だった。先に天国で待っています、などと書いてあればそれを理由に死ねたのに、「生きて!」と言われてしまっては生きるしかない。だが、千尋にはその気力が残っていなかった。何を目的に生きればいいのかわからない。食事を取り、与えられた仕事をこなし、寝る。無気力に機械的にただ流されるまま毎日を送っていた。休み時間も他の人と交流する事なく自分の部屋に引きこもり窓の外を見て過ごした。時々、冠木望が様子を見に来ているようだったが、特に話す事はなかったので会うことはしなかった。
館山基地に集まる避難民の流れが一息したところで、冬に備える事になった。基地にいる自衛隊の生き残りや戦える大人がチームを作り外に食料を集めに行くらしい。姉の彼氏だった冠木望もその調達隊に志願していた。ゾンビとの戦いに慣れた望はすぐに頭角を表した。他のチームが大きな被害を受けたり全滅したりする中、望のいるチームだけは常に死者無しで帰って来た。九月の終わり頃には冠木望は館山キャンプのちょっとした有名人になっていた。洗濯作業中、千尋は同年代の少女達が彼の噂をしているのを何度も聞いた。彼の上着が洗濯物に入っていた時は誰が洗うかで取り合いすら起きていた。
ある昼休み、千尋がいつも通り部屋に引きこもっていると、窓の外が少し騒がしくなった。ベッドから起き上がり窓の外を眺めてみると、望が三人の少女に囲まれ何か頼まれ事をされていた。基本的に基地の中にいると自由に物を手に入れる事はできない。私物の保有も大幅に制限されていた。だが調達隊は、目的の食料や医療品さえ確保してくれば他に物を持ち帰っても大目に見てもらえる。少女達は何か欲しい物を望に頼んでいるのだろう。望が頷くと三人の少女は嬉しそうに嬌声をあげた。
「なによ、あれ」
窓越しに望を見下ろしながら、千尋は胸がムカムカしてきた。少女達に笑顔を見せる少年を見ていると、怒りが湧いて来る。あの笑顔は姉に向けるべきものなのに。千明が死んでからまだ一ヶ月しか経っていないのに、あの男はもう姉の存在を忘れたように他の女子に笑いかけている。
「あれじゃ、お姉ちゃんが可哀想だ」
千尋は姉の形見の手帳を手に取った。この世界で、西山千明の事を覚えている人間はわずかしかいない。千尋と、千尋を守ってくれた生存者グループの生き残り、そして冠木望だ。ただ、生存者グループが知っているのは非常時に無理をしていた姉の姿。噴火前の、本来の西山千明を知る人間はもう千尋と望しか残っていない。その望に忘れられたら、姉の人生が全て無になってしまう、そんな風に千尋は感じていた。
どうすれば望に姉を忘れさせずにすむのか。手がかりを求めて手帳を開くと、一枚の写真があった。唯一残った千明の写真として望が千尋に渡したものだ。姉と望が高校の生徒会役員になった時に撮ったものらしい。日付が去年のものなので千明の顔つきは少し幼く、今の千尋によく似ていた。
「そうか」
千尋は何度も繰り返した問いへの答えをようやく見つけた。
「そうだったんだ」
写真を机に置き、両手で髪をかきあげポニーテールにしてみる。窓ガラスには写真の姉によく似た顔が映っていた。
「私がお姉ちゃんになる。そうすれば」
そうすれば姉は死なない。死ぬべきだった西山千尋が消えて西山千明が戻ってくれば、きっとみんなの為にもなる。冠木望だって姉を忘れる事はなくなる。千尋は歪んだ決意をすると、手帳を閉じて立ち上がった。




