8月27日 終幕 それぞれの新天地
奥山音葉は中身がほとんど入っていない私物入れの箱を持ってシェルターの第五層に上がった。四十八時間の隔離期間を終え、今日から他の入所者と同じフロアで暮らすことになる。
エレベーターを降りた瞬間、自分が歓迎されていないことがわかった。住人らしい白い服を着た人々が遠巻きに自分を見ている。彼らは小さいが明らかに聞こえる声で「あれがゾンビになった子か」「どうしてこのフロアに連れてきたんだ」「ウイルスが完全に消えた保証はあるのかよ」とささやきながら恐れや恐怖が宿った目を向けてきた。
(これが普通か。命の危険が無いだけマシなのだろうけど)
音葉は好奇心二割と敵意八割の視線を浴びながらも平然とホールを見渡した。すると壁際にいた一人の少女が恐る恐る近寄って来る。背が高く、綺麗な長い髪をしていた。年齢は望と同じくらいで音葉よりは少し年上のようだった。
「奥山音葉さん、ですね?」
少女は長袖と手袋に覆われた音葉の右腕を一瞥した後、学校の先輩が初めて後輩を迎えるような笑顔を見せた。
「そうです。あなたが案内役の方ですか?」
「ええ。針条良子って言うの。よろしくね、音葉さん」
良子は一瞬ためらいを見せた後、右手を差し出してきた。遠巻きに二人を見ている野次馬の間で緊張が高まる。外の世界でゾンビと格闘をしたり、動いているゾンビに体当たりをした経験のある音葉からすれば、触れるだけではウイルスが感染しないことは経験として知っている。だが、シェルターの住人にとっては白化した腕そのものが恐怖の対象なのだろう。音葉は良子の腕をじっと見た後、自分の左手を差し出した。
「こっち側の手でお願いしてもいいですか?」
「ごめんなさいね。気を使わせてしまって」
「いえ。知らない物を警戒するのは当たり前だと思います」
二人の少女が軽く握手を交わす。それを見ていた野次馬は包囲の輪を広げていた。
良子は苦笑した後、音葉を新しい部屋に案内した。そこは第九層とまったく同じレイアウトを持つ家族向けの部屋だった。わずかな違いは壁にかかっている日本画が鳥の絵になっている事くらいだ。
良子は部屋の機能を一つずつ音葉に説明した。ほとんどは第九層の部屋と同じだったが、こちらには他の部屋と通話や買い物、劇場予約などコミュニケーションとエンターテイメント関係の操作ができる端末が用意されていた。タッチパネル式の端末を当たり前のように操作する良子を見て、音葉はシェルターの中にいる事を実感する。外の世界ではスマートフォンもパソコンも電子機器は一切使えなかった。乾電池で動く懐中電灯やCDプレイヤーが一番文明的な道具だったと考えるとまるで別世界のようだ。
説明が終わると、良子は仕事があると言って部屋から出ようとする。
「仕事ですか?」
「ええ。このシェルターでは高校生以上は職業に就かなくてはいけないの。私は水の浄化設備のエンジニア。始めたばかりだから仕事を教えてもらっているところだけどね。音葉さんは何かやりたい仕事はある?」
「どうでしょう」
音葉は自分の右手を動かしてみる。指は動く。だがぎこちなく、鈍い。
「噴火の前にはピアニストを目指していました。でもこの手じゃ無理そうです」
「そう。それは残念ね……。端末からシェルター内の職業についての動画にアクセスできるから時間のある時に見てみるといいわ。私は隣の部屋に住んでるから何かわからないことがあったらいつでも聞いてね」
「隣も家族用の部屋でしたよね。針条さんはご家族とここに?」
「良子でいいわ。私もあなたと似た状況よ。シェルターに入るために結婚したの。でも、夫になった人はここに来る前に死んでしまった。だから広い部屋に一人っきり」
「そうだったんですか。ごめんなさい」
「いいのよ。それじゃあ、また。夕食の時にも来るから」
そう言って良子は部屋から出て行った。
一人残された音葉は白い箱を開き、私物の整理を始めた。だが入っているのは丘の上の家やホームセンターで手に入れた服と小物だけ。本当の意味での音葉の私物と言えるのは望からもらった指輪だけだ。もう一つの愛着のある品、日本刀は危険物ということで没収されてしまいここには無い。シェルター内では白い制服の着用が義務付けられているので、前の服の出番はなさそうだ。役に立ちそうなのはLEDライトくらいだが、地下深くのシェルターで停電になる事態は考えたくない。
服をクローゼットに入れ、壁に望と決めた家事当番表を貼り付けてしまうとやる事がなくなってしまう。
「シェルター生活の手引きがあるんだっけ」
音葉はリビングの端末を使って動画を再生しようとした。端末を操作中、買い物機能を見つける。シェルター内では基本的な衣食住は支給されるが、嗜好品や趣味の道具は働いて得た給料を使って購入する仕組みらしい。音葉の個人アカウントには五万円が入金されていた。
「ピアノ、あるかな」
買い物サイトで検索をしてみるとアップライトのピアノがあった。しかし金額は百万円を超えている。とても手が届かない。電子ピアノもあったが十万円近いため手持ちでは足りない。検索を続けると学童用品の項目に鍵盤ハーモニカがあった。金額は二万円。ずいぶんと高い気もするがなんとか購入できる。音葉は一つカートに入れ、決済に移ろうとした。ふと学童用品にスポーツの項目があるのを見つけた。何度かタッチしていると、思っていた物が見つかる。
「もう二度と使わないとは思うけど……」
音葉はスポーツ用品の所にあった一番頑丈そうな木刀をカートに入れると決済を終わらせた。
***
冠木望の運転する車は灰の積もった田園地帯を抜け、都市部に入る。道の左右にコンビニや店舗、住宅などが現れる。目的地である館山の町に入ったようだ。道路に放置されていたらしい車はどれも脇に避けられており、所々に手製の看板で「海上自衛隊館山基地 この先右折」などの看板があった。
「もうすぐだな」
望はハンドルを握る手はそのまま、警戒心を少しだけ緩めた。周囲には明らかに噴火後に人の手が加わった形跡がある。館山にいる自衛隊が避難してくる人々のために道を開き看板を立てたらしい。道路脇の所々には死体を焼いたと思われる黒い山が散在しており、今まで当たり前のように目にした道路沿をさまようゾンビの姿は一体も見えない。この周辺の脅威は一掃されているようだ。
左手に線路を見ながら片側一車線の小さな国道を進む。所々にヤシの木に似たシュロの木も生えており、南国っぽい雰囲気に東京から遠くに来た事を実感した。やがて周りの緑が減っていき、地面はすべてコンクリートやアスファルトで覆われた。町の中心部に入ると五階建てのビルや数多くのビル、学校なども見えて来る。激しい戦闘の跡や大量のゾンビを焼いたらしい跡もあった。所々に置かれた看板を頼りに進むと、ついに館山基地が見えてきた。
基地はぐるりと白い柵で囲われ、さらにその後ろには三メートルくらいのトタン板などで壁が作られていた。所々に即席の見張り台があり、銃を持った人間が見張りについている。その内の一人が望の車を見つけ「あっちに向かえ」と身振りで示す。その方向に進むと、両脇に十メートルくらいの見張り台がある正門に辿り着いた。正門の前にはさらにバリケードがあり、迷彩服を着た陸上自衛官や私服の避難民らしい男達が銃を持って警備に当たっていた。
「止まれ!」
兵士の一人が手を上げて望の車を停止させる。望は素直に指示に従うと、エンジンを切って車の外に出た。護身用の拳銃をポケットに入れている以外武器は持っていない。バリケードの可動式の壁が開き、中から銃を持った陸上自衛隊員二人が出て来た。シェルターにいた隊員に比べると服や装備は汚れ、少し疲れているようにも見える。
「ようこそ館山へ。君一人か?」
「俺一人です」
「そうか。たった一人でよくここまで。大変だったな。だがもう安心していい。ここは安全だ」
「ありがとうございます」
「冠木! 冠木じゃねえか!」
バリケードの可動式のゲートの奥にいた男の一人が望を見て声を上げた。見ると、ホームセンターで出会ったグループのリーダー、野瀬だった。その様子を見ていた自衛隊員の一人があっさりと望に背中を向け野瀬に尋ねる。
「野瀬さんの知り合いですか?」
「ああ。ここに来る前、仲間を助けてもらった。まだ子供だが、頼りになる男ですよ」
「それは頼もしいな。戦力は一人でも多い方がいい」
野瀬が望のところにやって来る。まず望を、次に望に預けていた自分の愛車を見て懐かしそうにした。だが車中に他に誰もいない事を確認し、表情を曇らせる。
「……奥山は?」
「音葉は、ここにはこれませんでした」
「そうか。すまなかったな」
野瀬は音葉がゾンビに噛まれたことまでしか知らない。空っぽの車を見て彼女が既に亡くなったと思ったようだ。音葉がいるシェルターの存在は外部には絶対に秘密なので、望は特に訂正はしなかった。他にも音葉を知る人間がいるのなら彼女は死んだ事にしておく必要がある。
「野瀬さん達も無事にここまでこれたんですね」
「ああ。みんな無事に辿り着けた。お前が助けてくれた牧野や小笠原、サトルも一緒だ」
「良かったです。音葉もきっと喜んでいると思います」
「そうだな。そうだといい」
「野瀬さん、問題ないようでしたら彼に中に入ってもらってください」
自衛官の一人が言った。
「わかった。冠木、基地に入ったら一日だけ隔離期間がある。それが終わったら、他の連中も連れて会いに行く。あの時の礼をさせてくれ」
「お礼なんて。俺にできる事をしただけです。でも皆さんに会えるのを楽しみにしています」
そう返す望に、野瀬が少し驚きを見せる。
「お前、少し変わったな」
「そうですか? 色々ありましたから。いつまでも高校生気分ではいられませんしね」
「そうか」
野瀬は、望の変化は音葉を失った事が原因だと思い、それ以上は深く踏み込まなかった。
「ゲート開門。車両一台、入ります」
正門の方で声が上がり、バリケードとその奥にある門が開く。その先には広大な敷地を持つ館山基地があった。入り口の近くにはオリーブドラブ色の軍用車両が置かれ、機関銃を正門に向けている。成田シェルターでも似たような光景を見たが、ここには装甲車や戦車、ミサイルは無く、正門や見張り台に立つ警備の大半は私服の民間人だ。
(とりあえず、成田の脅威になりそうな武器はないか)
すっかりシェルター側の考えをしながら、望は車に戻ろうとする。
「そうだ冠木、その車、あとでちゃんと返せよ?」
冗談めかして野瀬が言う。望は「もちろんです」と笑って返した。
望は運転席に戻るとエンジンをかけた。鈍い振動が体を揺らす。周囲ではほとんどの警備が望から基地の外へ注意を向けていた。だれも高校生の少年を警戒してはいないようだ。これから、ここで自分の命を守り、父親の行方を追っていく。その間は自分がシェルターから来た事は隠さなければならない。スパイじみた自分の立場に罪悪感とわずかな興奮を覚えながら望はこれから暮らすことになる新しい環境に向けて一歩を踏み出した。
「デッド・フロム・フジヤマ」をご覧のみな様、ここまで読んでいただきありがとうございます。この終幕で第一章は終わりとなります。長々とお付き合いいただき本当に嬉しく思います。望と音葉の物語はこれからも続く予定です。第二章からは館山基地で他の生存者と共に戦いながら父親の行方を探す望を中心に、時々成田シェルターで暮らす音葉の様子も書きたいと思っています。一応、物語の最後までの流れは考えてあるのでそこまで持って行きたいと思っています。今後も引き続きお付き合いいただけると嬉しいです! よろしくお願いします。




