8月25日 シェルター(9)
「望、ちょっと待って」
音葉が納得のいかない顔で望を引き留める。
「望のお父さんを探す必要がある事はわかりました。でも、そんなに大切な人ならどうして自衛隊の人を送らないんですか? 素人の望を送り出してもお義父さんを見つける前にゾンビに殺されてしまうかもしれないじゃないですか」
「もっともな質問だ。我々も最初はそのつもりだった」
路貝がタブレットを操作すると壁のモニターに組織図が表示される。自衛隊のものらしく、運営委員会の下にシェルター守備師団があり、師団長の下に二十以上の部隊があった。
「これはシェルター上層に駐留している部隊の物だ。見てわかるとおり、部隊は細分化されている。戦車中隊は戦車の操縦に特化しているし、監視中隊はドローンやセンサーを使ってシェルター周辺を見張るプロフェッショナルだ。逆に言えば、専門以外の分野では彼ら本来の能力を発揮できない。ゾンビが跋扈する外の世界で人間を探せるような技能を持った隊員は少ない」
路貝が壁のタブレットを操作すると安座間班という表示と五名の自衛隊員の写真が現れた。だが隊長らしい人物は行方不明、それ以外の四名は死亡と書かれている。
「彼らは越後先生を護衛していた部隊だ。この安座間三佐の部隊は外でゾンビと戦いながら人員を捜索する能力を持っていた。だが先の任務で残念ながら全滅してしまった。外に出れば未知のゾンビウイルスに感染する恐れもある。実際、藤咲さんはワクチンを摂取したにも関わらずゾンビ化した」
路貝が望と音葉を真っ直ぐ見つめる。
「その点、望君は特殊なワクチンを摂取している可能性がある。誰よりも安全に外の世界を探索できるのは君だ。それに冠木十三も息子の説得なら耳を貸すだろう」
「なら私も行きます。私だって望のお父さんの作ったワクチンをもらったかもしれないんです」
「それは許可できない」
路貝は即座に音葉の言葉を否定した。
「奥山さんにはシェルターに残り、ワクチン開発に協力してもらう。君の言う通り、冠木十三が作った抗体を持っている可能性があるからね。それに成田には望君が帰ってくる場所が必要だ」
それを聞き、音葉は露骨に眉をひそめた。
「……つまり、私は人質なんですね」
「理解が早くて助かる。その通りだ。冠木十三がどんな目的でゾンビウイルスを広めたのかは不明だ。理由によっては、望君が父親に共感してしまい、我々の敵に回る可能性もある。だから奥山さんには成田に残ってもらう」
「さっきの結婚もそのためだったんですね。望を私に縛りつけるために」
「手続き上の理由が第一だ。しかし、その意図もあった事は否定しない。全てはシェルター存続のためだ」
「やることがいちいち汚いですね。気に入りません」
「自覚はしている。だが綺麗事だけでは守れないものがあるのだ」
開き直る路貝にこれ以上何を言っても無駄だと悟った音葉は申し訳なさそうに望の方を向いた。
「ごめんなさい。私のせいでまた危険な目に」
「いいんだよ」
望は音葉に笑って見せる。また外の世界に戻るのは怖い。音葉を一人で残して行くのも不安だ。だが、彼女を守るにはこれ以外に方法がなかった。選択肢が無いので悩む必要は無く。かえって気楽だった。
「俺は音葉を守れるならなんでもするって誓ったんだ。それに父さんが関わっているならその真意を確かめたい。それが出来るのは多分俺だけだから。俺は俺にできる事をするよ」
音葉は何もできない自分が歯痒くなりぎゅっと左手を握りしめた。その肩に望の手が軽く触れ音葉の身体を引き寄せる。
抱き合う二人から目を逸らした路貝はタブレットをブリーフケースにしまうと席を立った。
「では望君、私はこれで失礼する。出発だが、早速で申し訳ないが明日の昼には出てもらいたい」
「ずいぶんと急ですね」
「我々には余裕がないのでね。君の血液や奥山さんから入手できるだろう抗体はあくまでも一部のゾンビウイルスにしか効果を発揮しない。今この瞬間、冠木十三が新しいウイルスを開発している可能性もある。善は急げだ」
「俺達のやる事に善い事なんてあるんですか? 同じ日本人を一億人以上殺して、それでも生きる事が善だとは俺には思えません」
「どうだろう。私はそうだと思っているよ」
路貝は席から立ち上がると壁にかかった日本画に目を向けた。
「きっと人類そのものは滅びない。破滅の冬が何百年続こうと、どこかで誰かが生き延び、いつか文明を再建する。だが我々が失敗すれば、新しい人類史に日本は名前すら残らない。あるいは恐竜やマンモスと同じように、単に記録として博物館に展示されるだけの存在になるかもしれない。私は日本を愛している。だから国と文化を存続させたいのだ。どんな手段を使ってもね」
「大きすぎる話です。正直、俺にはわかりません」
「いずれわかる日が来る。君達はこれから何十年もの時をこの世界で過ごすのだからね。そしてそのためには君の父親の持つ情報が必要だ。我々の未来は君にかかっている。頼んだぞ」
それは上司や上官からの命令というよりも同志として頼んでいるようだった。あるいは若い頃の路貝は同僚の冠木十三にこんな風に話しかけていたのかもしれない。この言葉に嘘はない、望はそう感じた。
「わかりました。俺ができる範囲で全力を尽くします。だから路貝さんも音葉の安全だけは約束してください」
「もちろんだ。彼女の身は我々が守ろう。私の愛する国に誓って約束する。他にも何か要望はあるかな。できる限りのことはするつもりだ」
「なら路貝さん、最後にもう一つ教えてください。俺の妹、冠木希美については何か知りませんか」
「ふむ、希美さんか」
路貝が立ったまま天井を見上げる。
「彼女は別のシェルターで保護されている」
「本当ですか? どこで?」
「それは話せない。基本的に他のシェルターの位置は極秘事項だ。運営委員以外には知る権利は無い」
「そうですか。でもよかったです。あいつは無事なんですね」
ずっと抱えていた後悔の一つを下ろすことができ、望はほっとした。だが音葉は険しい表情を路貝に向ける。
「路貝さん、どうして希美が保護されているんですか? お兄さんの望だって越後さんに会うまでシェルターとは無関係だったのに。あの子が一人でシェルターを見つけ出せるとは思えません」
「……上斎原シェルターの件が各シェルターに伝わった後、それぞれが生き延びるために人員を外に派遣した。多くがなんの成果も得られなかったが、ある調査隊が生存していた冠木希美を発見し、シェルターに保護した。父親の冠木十三との交渉材料にするためにな」
「つまり、人質ってことですね」
「そういう捉え方もある。どんな理由であれ、外にいるよりはシェルターにいた方が安全だ」
「希美に、妹に会いに行くことはできませんか?」
「それは難しいな。シェルターは原則として完全独立だ。下手にシェルター同士で交流を持つとウイルスが広まり全滅する可能性があるからな。所長である私も緊急時以外にシェルター間での通信は禁じられている。だが君が冠木十三を発見すればそれを他のシェルターにも伝える必要が出てくる。その時に望君と妹さんが話せるように手配してみよう。約束はできないがね」
「わかりました。よろしくお願いします」
「こちらこそだ。それでは私はこれで失礼させてもらうよ。二人とも、また明日会おう」
今度こそ、路貝と兵士二人は部屋から出て行った。
二人きりになった望と音葉はリビングの椅子に座り直す。
「望、ごめんなさい。今日の私は足を引っ張ってばかりですね」
「音葉のせいじゃないさ。悪いのは、……悪いのは誰なんだろうな」
路貝達が悪いのか、父親が悪いのか、望にはわからなかった。大切なモノを守るため、別の何かを犠牲にする。それは今日、望自身も日垣製薬の研究所でしてきたことだ。直接手を下したのは吉敷一人だが、研究所に誘導したゾンビとの戦いで少なく無い人数が犠牲になっている。冷静に考えれば望に路貝を非難する資格など無かった。それに父親も、無意味に人を苦しめるような人物ではない。何か理由があるのだろう。
沈黙が二人の間に流れる。このシェルターは地下の中にあるからか、あるいは隣の部屋に誰もいないからか、恐ろしいほどに静かだった。時計はいつの間にか零時を回っている。怒涛のような一日が過ぎ去り、望の全身にも疲労がどっと押し寄せていた。
椅子に深く腰掛ける望の隣で、奥山音葉は自分の無力さを噛み締めていた。今までずっと今一つ頼りにならない年上の男子を自分が守っているつもりだった。それが気づけば、望に助けられてばかりだ。彼には与えてもらうばかりでちっとも恩返しができていない。自分は望のために何ができるのか、一緒に外に出る事は許されない。もし許可されてもゾンビ化した右腕では戦力になれない。今の自分にできるのは、シェルターで望の帰りを待つだけ。それなら、しっかりと守られる役割を果たそう、そう音葉は考えた。望の方に向き直ると、彼は疲れが出たのか椅子に深く腰掛けうつらうつらし始めていた。
「望、疲れていますよね。今日はもう寝ましょうか」
「あ、うん。そうだな」
望は椅子から立ち上がり布団の敷かれた和室に向かおうとする。だがその服を音葉が引っ張った。
「えっと、音葉?」
「望、歯は磨きましたか?」
「え?」
「歯磨きです。寝る前に。それと寝巻きに着替えてください。あの部屋のクローゼットに入っていました」
急に望の身の回りの世話をしようとする音葉に面食らいながらも、望は素直にその指示に従うことにした。音葉はテキパキと歯ブラシを用意し、まるで母親が小学生の息子を見守るように歯磨き中の望をじっと見ながら自分の歯も磨く。それが終わると、クローゼットから望に合うサイズの寝巻きを出してきた。洋風のパジャマでは無く、浴衣のような和風の寝巻きだ。
「サイズ、これでいいですよね」
「ああ、うん。ぴったりだと思う。でも、突然どうしたのさ」
「望は自分に出来ることをするだけって言いましたよね。私も同じです。私がここで出来ることをしっかりとやっておきたいんです」
外に出れば、望は再び一人になる。望に出会うまでの数日間、音葉は孤独に耐えきれず命を断つ事すら考えた事があった。望の帰る場所になれれば、きっと彼の生きる活力になれる、そう考えた音葉は自分の母親が父親や弟にしていたように振る舞うとした。もう失われた奥山家の日常、それが音葉の知っている帰る場所のイメージだったから。
「和室に入る前にスリッパは脱いでくださいね」
「わかったよ」
望は苦笑しながら、母親のように細かな事を口にする音葉を見て嬉しくなった。この数週間、寝る前に歯を磨く、風呂に入る、着替えをする、そんな当たり前の事すら叶わなかった。食べ物や飲み物の心配をし、地面の上で寝て、常に武器を手元に置いて襲撃に備えていた。だがこれからは、少なくとも音葉は、当たり前だった日常に戻っていく。
二人は別々の部屋で寝巻きに着替え、寝室に入った。
「じゃあ、電気を消しますね」
近未来的なシェルターにも関わらず、寝室は畳の和室で天井には和紙っぽい素材でできた照明器具があった。寝巻きをきっちりと身につけた音葉が布団の上に立ち照明器具の紐を手に取る。
「ありがとう。何からなにまで」
「今日だけです。帰ってきたらきっちりと家事の分担はしますからね」
「へえ、それはおっかないな」
望が布団に入ると、音葉が三回紐を引いて部屋の照明を消した。部屋の壁に設置された障子の嵌まった窓風の照明がぼんやりと月明かりを模した光を発する。部屋の中は真っ暗闇にはならず、音葉の白い肌の輪郭はぼんやりとだがわかった。
すぐ隣で横になった音葉の左手が望の布団に入ってきた。望はそれを優しく握り締める。手をつなぎ合った二人は、言葉を発する事は無く、そのまま夜は更けていった。
翌日、配給された朝食を済ませた望と音葉はシェルター第九層のエレベーターホールにいた。望の背中には西山の腕時計や手帳が入ったリュックサックがある。
エレベーターホールには先に路貝と護衛の兵士が来ていた。
「よく眠れたかな?」
「おかげさまで」
「それは良かった。今エレベーターを呼ぶ」
兵士の一人がスイッチを操作すると上層にあるエレベーターがゆっくりと降りてくる。ここは地下五百メートルほどの位置にあるのでしばらくは時間がかかりそうだ。
「先に伝えてはあったが奥山さんと私はここまでしか君を見送れない。別れはすませてきたかな」
「はい。大丈夫です。俺が戻ってきてからの家事当番を二人で決めました」
「そうなのか? ユニークな別れ方だ」
「うちの家は母さんが専業主婦だったのですが音葉の家は共働きだったので、色々とルールがちがくて……」
「おばさんが甘かっただけですよ。私はビシビシいきますから」
「色々と苦労しそうだな」
「今から楽しみです」
それは望の本音だった。もう二度と戻らないかと思った日常生活を音葉とおくれる、そう考えれば一刻も早く父親を見つけてここに戻ってきたくなった。路貝達の狙い通りなのは気に食わないが、帰る場所があるというのは悪い事ではない。
「路貝さんの家は三日に一度シューズボックスの掃除をしますか? 奥山家ではそれが当たり前みたいなんですけど、ちょっと多いですよね」
「私が下駄箱を掃除するのは年末の大掃除くらいだ。結婚をしていればまた違うのかもしれんが」
「意外ですね。路貝さんなら結婚されていると思ったのに」
音葉の言葉に路貝は懐かしそうに過去を顧みた。
「昔、悪い女性に引っかかってね。それで結婚の機会を逃したんだ」
そう言って路貝は望に向かって笑ってみせた。
それから三人は他愛もない会話をしエレベーターの到着を待った。やがて、チャイムと共にエレベーターの扉が開く。
別れは既に済ませたとはいえ、名残惜しかった望と音葉の二人は人目を気にせずもう一度抱き合った。
「望、絶対に死な無いでください。私、十代で未亡人なんて嫌ですからね」
「約束するよ。俺は必ず生きて音葉のところに帰ってくる」
「はい。できれば早くお願いします。広い部屋に一人は寂しいですし、せっかく決めた当番表がもったいないですから」
「ああ。そうだな。でも役割分担については帰ったらもう一度話し合いたいな」
「いいですよ。私、待ってますから」
音葉が望の唇に軽く自分の唇を当てる。ほんのわずかな時間、二人が重なり、そしてすぐに離れた。
「いってらっしゃい」
「いってきます」
音葉と路貝に見送られながら望はエレベーターに乗り込んだ。すかさず、中にいた兵士が上層のスイッチを押す。ドアが音も無く閉じて行く。その向こうで、音葉が左手を振っていた。その薬指に嵌まった銀色の指輪が天井の照明を反射させて小さく光る。その銀色の瞬きが消えない内に、エレベーターの扉は完全に閉じた。
「いってきます」
望はエレベーターの中でもう見えなくなった音葉に向かって別れを告げた。
シェルター上層部に上がった望はそこでシェルター住人の制服である白い服を脱ぎ、昨日まで着ていた服に着替える。それから装備一式を手渡される。自衛隊が使っている八九式小銃とその弾倉、連絡用の衛星電話、そして万が一のために栄養剤の瓶に偽装したBウイルスのワクチンも受け取った。地下鉄で手に入れた拳銃も基地の隊員によって整備され、予備の弾丸と共に戻された。
道具の説明を一通り受けた後、今後の方針を指示される。まずは館山の自衛隊と合流しろとのことだ。そこが関東地方で最大の生存者グループで、冠木十三の情報も入ってくるはずというのが理由だった。
シェルターの外に出ると、そこには野瀬の青い車が置かれていた。こちらも燃料は給油され、窓が綺麗に拭かれていた。望が車に乗ると、シェルターの隔壁が閉じて行く。巨大な壁や森がスライドしながらトンネルの入り口を塞いでいき、やがてそこは完全に森とその後ろにあるただの崖になった。
望は車に乗ってエンジンをかける。もう周囲には誰もいない。空っぽの助手席に顔を向けると音葉が飲みかけていたペットボトルがそのままボトルホルダーに残っていた。
「昨日までが夢みたいだな」
音葉は常に望の隣にいてくれた。初めて家から出たあの日から、地下鉄や駅の中、ホームセンター、そして丘の上の家まで、いつも一緒だった。頼れる彼女がいたからこそ、望は今日まで生き延びてこれた。だが今はいない。誰もいない空き地を吹き抜ける風が一人ぼっちの車の横を吹き抜けた。
「さて、行こうか」
望は音葉がいるだろう地下深くに一度目を向けた後、しっかりと正面に向き直り、力強くアクセルを踏み込んで車を発進させた。




