8月25日 シェルター(6)
「これはどういう事ですか?」
ピアノのコンクールで学校を休んでいる内にクラス委員にさせられた時の三倍は戸惑いながら音葉は婚姻届を両手で持って路貝に尋ねた。
「施設に入所するために必要な手続きだ」
「結婚がですか?」
「そうだ。理由については順に説明する。まずは一番上に置いた入所者登録書の内容を確認してほしい。内容に間違いなければ一番下の欄に署名と捺印を」
路貝はブリーフケースから高級そうなボールペンと印鑑ケースを二つずつ取り出し、テーブルの上を滑らせるように望と音葉に渡した。受け取ってケースを開けてみると、そこには自分達の苗字が書かれた印鑑が入っていた。
「……あの、一つ聞いていいですか」
音葉が控えめに顔を上げる。
「何かな」
「本当に書類が必要なんですか。サインをしようがしまいが、私達はあなたに従う以外に選択肢はないんですよね。ならこんな物は無意味だと思います。それにこの書類はほとんど埋まっていますよね。私達が書く事なんて無いように見えます」
音葉の言う通り、入所者登録書をはじめとする他の書類は既に二人の個人情報が記載されていた。国民番号、住所、氏名、身長と体重、血液型、病歴、あらゆる情報が印刷されており、顔写真まで貼ってある。二人とも制服姿なので生徒手帳に使った物が流用されているようだ。
「確かに形式的かもしれないが意味はある」
路貝はブリーフケースの中から陶器で出来た湯呑みを取り出すとそこにポットのお茶を注ぎながら言った。
「このシェルターは日本人とその文化を未来に残す事を目的としている。そのために施設は厳格なルールに則って運営されている。あらゆる物事はルールに基づいて判断され、一切の例外は許されない。くだらないと思うかもしれないが、書類への署名捺印は必要な手続きだ。君達の存在を他の入所者が知った時、必ず我々運営本部に質問と抗議が来る。みな大切な人を切り捨ててシェルターに来ているからね。君達が正規の手続きを経て入所したと証明する為にこれらの書類が必要だ。理解してもらえたかな」
音葉は不満そうだったが、渋々と頷いて返した。
「……わかりました。名前を書けばいいんですね」
「それと捺印だ。十二種類の書類に目を通し、サインをし印鑑を押す、それだけだ。スムーズに行けば日付が変わる前には終わる」
「望はどうしますか?」
「どうって、書くしかないだろ?」
望の目的は音葉の安全を確保する事だ。そのためなら書類が何百枚あろうとサインするつもりだった。望が勢いよくボールペンを手に取ると音葉も諦めて自分の個人情報の確認を始めた。
望はボールペンのペン先で項目を一つずつタッチしていった。生徒会時代に覚えたやり方で、ペンで指差す事で確実に内容を確認できる。書類には基本的な個人情報に加え、家族の名前や学校での活動、過去の受賞歴、犯罪歴、海外渡航歴などの項目があった。書かれていた情報はほとんどが正確だったが、なぜか生年月日の年が一年ずれている。
「すみません、誕生日の年が間違っています」
「望もですか? 私のも一年ずれてます」
「音葉も?」
音葉の登録書に目を向けた望は少しばかりのショックを受けた。そこには明らかに望の物よりもたくさんの情報が書かれている。受賞歴の欄には国内外のピアノコンクールで優勝や上位入賞した事が書かれており、海外への渡航履歴も十回以上ある。特記事項には世界的な音楽家と家族ぐるみで交流ありともあった。華やかな音葉に比べ、望の登録情報は地味で空白が多い。わずかに学歴の部分に「高校生徒会に所属」の一文があったのがせめてもの救いだった。
「望?」
名前を呼ばれ、音葉の個人情報に圧倒されていた望は慌てて意識を取り戻した。そう誕生日が間違っているのだ。それを直さなくてはいけない。生徒会の仕事で行った書類の訂正方法を思い出す。
「ええと、ボールペンで二重線を引いて上から印鑑を押せばいいですか?」
「いや、そのままでいい」
路貝が首を横に振った。
「どういう事ですか?」
「君達をシェルターに入れるにはいくつか手続きが必要だ」
そう言って、路貝は婚姻届を二人の前に差し出す。
「基本的にシェルター封鎖後に新たな入所者を迎える事は許可されていない。だがいくつか例外もある。その一つが入居者に欠員が出た場合だ」
そう言って路貝はブリーフケースからタブレット端末を取り出し電源を入れた。いくつか操作をするとリビングの壁に掛かっていたモニターに一人の女性の情報が表示される。二十代くらいの知的な雰囲気のある女性だったが、その顔写真の上には大きく「死亡」と赤い文字があった。
「彼女は藤咲彩。越後先生の助手を務めていた女性だ。日本の古典研究の分野で若くして頭角を現した非常に優秀な学者だった。だが本日、ヘリが墜落した際に命を落としてしまった」
「……知っています」
望はモニターから目を背けた。その女性の顔はまだはっきりと記憶に残っている。ゴルフ場に到着してすぐ、望が倒した女性ゾンビのものだ。あの時、女性は既にゾンビになっていた。彼女を倒した事に後悔はない。だが生前の写真を見せられれば自分の行いが正しかったのか、確信が揺らいでくる。望は動揺し俯いた。そんな望を音葉が慰める。
「大丈夫ですよ。あれは必要な事でした。この人もきちんと眠れて感謝しているはずです」
音葉の言葉を聞いた路貝が目を細める。
「そうか。藤崎さんは君の手にかかったのか。すまない。少し配慮が欠けていた。現在のところ、ゾンビになった人間を元に戻す方法は発見されていない。脳を破壊し、行動を停止させる事が唯一の供養だ。君は間違った事はしていない」
「……ありがとうございます」
望は自分を納得させるように何度か頷いた。
「話を戻そう。藤崎さんが亡くなった事でシェルターには民間人の女性一名分の枠が空いた。基本的に追加の入所者は認めないことになっているが、運営委員の越後先生の要請と人口維持に必要な若い女性を確保する為に例外を認める事にした。奥山音葉さん、それが君だ」
「嬉しく無い理由ですね。人口維持に必要な若い女性ですか」
言葉の不快感に音葉が眉をひそめる。
「噴火前であれば問題発言なのは理解している。だが今は非常時だ。過去の常識は通用しないと考えてほしい」
「努力します。それで、私が認められたのはいいですが、望はどうなるんですか?」
「基本的に現行のルール上で入所が認められるのは奥山さんだけだ。だが越後先生の頼みもあり、例外に例外を重ねる事にした。このシェルターの目的は日本人と日本文化の保存だ。だが優秀な学者やエンジニア、アーティストを集めただけでは後世まで知識や文化を継承する事ができない。我々には次世代を生み出す義務がある。そのため、入所者には一定数の配偶者や子供の同伴が認められている。この規定を望君に適用する」
「それで私達の生まれた年を変えたんですね」
「察しが良くて助かる。我が国では女子は十六歳、男子は十八歳からしか結婚できない。書類上に不備が出ないよう、君たちの誕生日を変更させてもらった。同様に未成年の婚姻に必要な両親の同意もこちらで取らせてもらった」
路貝の言う通り、婚姻届には望と音葉、それぞれの母親の名前が同意書の部分に記載されていた。書類の体裁を整えるためとはいえ、見知らぬ人の字で書かれた母親の名前を見て望は小さな怒りを覚えた。それは音葉も同様のようだ。
「勝手に私の親のサインをして、誕生日を変えて、これでルールに従っていると言えるんですか?」
「ルールに合う様に物事を調整するのは大切な事だよ。要は第三者が書類を見た時に不備が無ければ良いのだ。書類に問題がなければその先の問題も起こらない」
「大人の世界ですね……好きになれそうにありません」
「全てはシェルターを存続させるためだ。さあ、入所登録書と婚姻届にサインを。書類はまだたくさんある」
音葉は仕方なくボールペンを持ちサインをしようと紙を手前に引き寄せた。その動きを望が慌てて止める。
「ちょっと待ってください。事情はわかりました。でもいきなり結婚っておかしくないですか? 俺の父、冠木十三がシェルターの関係者だって聞きました。父がここにいるなら、俺はその家族枠で入れませんか」
「冠木十三か」
路貝は湯呑みのお茶を一口飲んだ。妙に和のテイストがあるリビングに陶器の湯呑みはよくマッチしている。むしろ望達が使っているプラスティック製の透明なカップの方に違和感があった。
「彼はこのシェルターにはいない。よって冠木十三の家族として望君を入所させる事はできない。もし二人が結婚したくないのなら、入所後に離婚してくれて構わない。とにかくルール上、新規に入所が認められるのは奥山さんとその配偶者だけだ。そこは理解してほしい」
「それは……でも急に結婚って」
「望は私と結婚するのが嫌ですか?」
戸惑う望の目を音葉が真っ直ぐ見つめた。
「嫌とかそういう問題じゃなくて、突然過ぎるから」
「私は望とならいいと思っています。それとも、こんな腕の女は嫌ですか」
音葉がペンを持った右手をちらりと見る。長袖に薄い手袋をしているので外からでは見え無いが、その中身はゾンビと同じ白い腕がある。
「そんな事ない! 俺は音葉の事が好きだよ」
「じゃあ結婚しましょう。それが一番の近道です」
「それは、そうだけど……」
音葉を守るためならなんでもする、そう思っていた望だったが結婚となるとなぜか即決ができなかった。無意識に左手首を触る。そこに水色の腕時計が無い事に気がつき、迷っている理由を自覚する。
望の動きと表情を見ていた音葉は腕の力を使ってさらさらと自分の名前を書き、婚姻届の紙を押し付けるように望に渡した。
「紙の上だけのことです。そんなに真剣に悩まなくてもいいじゃないですか」
「そうだよな……」
望はペンを持ち直し婚姻届の紙を手に取った。正直、昔の彼女への後ろめたさがまだあった。彼女に告白したのはわずか三週間ほど前だ。今は音葉が世界で一番大切とはいえ、彼女への思いも記憶の中にしっかりと残っている。だが彼女の最期、ゾンビ化し地下鉄のトンネルを這いずり回っていた姿を思い出すと迷っている場合では無いと思えた。今生きている音葉を守る、そのために結婚が必要ならするべきだ。望は意を決して婚姻届に自分の名前を書き込んだ。
「……書きました」
「確認をさせてもらうよ」
路貝は望から書類を受け取ると内容を確認しはじめる。その間、望は落ち着かない気持ちでいた。だがその手を、音葉ががっしりと力強く掴んだ。
「音葉?」
「例えどんな理由があっても、望と結婚できて嬉しいと思っています。私は望が好きです」
ストレートな告白に望の心臓が高なった。
過去は過去。死んだ人間は戻らない。別に彼女の事を忘れる必要は無い。ただ思い出にし、その上で音葉のために生きればいい。そう考えると望の心を乱していた荒波が凪いだ気がした。
書類を確認していた路貝が望達の婚姻届にいくつかの事項を記入している。
「我がシェルターでは将来的な苗字の多様性を維持するために夫婦別姓を推奨している。君達もそれで構わないね」
望と音葉が頷くと路貝はブリーフケースから取り出した大きな印鑑を押した。
「これで書類は完成だ。成田特別避難所の責任者として、冠木望君と奥山音葉さん、二人の婚姻届を受理しよう。今この瞬間、君たちは法的に夫婦となった。おめでとう」
路貝の宣言の後、ボフボフという手袋を叩く音がした。部屋の入り口近くに立っていた兵士二人が拍手をしてくれている。フルフェイスのマスクで表情は見えないがどうやら笑顔で祝ってくれているらしい。
「ありがとうございます」
望はどこか晴れやかな気分で路貝と顔の見えない二人の兵士に頭を下げた。音葉も望に続いて頭を下げる。そして改めて部屋の中を見回して苦笑いした。
「私、結婚に夢を持っていないつもりだったんです。でもこんな所でするとは思っていませんでした。空の見えない地下室で、ウェディングドレスも指輪も無し。人生、何が起きるかわからないものですね」
リビングは白い壁に所々木材を使った中途半端な和風。壁には青いキキョウの花を描いた日本画、テーブルの上には食べ終えた弁当の空と大量の書類。二人の家族や友人はおらず、神父や神主もいない。立ち会い人は今日あったばかりの男と顔も名前も知らない兵士二人。一般的な結婚式のイメージからは程遠い。
何か音葉にできる事は無いか、望は部屋の中を見渡し、白い箱の上に置かれた荷物で目を止めた。
「ちょっと待って!」
望は大急ぎで席を立つと、兵士が持ってきてくれたリュックサックを開け、中からスマートフォンを取り出した。噴火の以来、充電できなかったのでただの薄い板だったがケースには一本のストラップが結ばれており、そこに母親の形見である銀色の指輪があった。望は紐を解くと指輪を手に音葉のところに戻る。そして椅子に座り直すのではなく、音葉の前に跪いた。
「今はこれしか持ってないけど、もらってくれないか」
突然の望の行動に驚いた音葉はぽかんと口を開き、それから左手で口を塞ぎ吹き出しそうになるのを必死に堪えていた。路貝も指輪を取り出した望を見て「ほう」と声を上げる。
「もう、なんですか急に?」
「少しでも結婚式っぽくしたくて」
「ありがとうございます。でもその指輪、おばさんの形見ですよね。いいんですか私がもらって?」
「きっと母さんも喜ぶと思う」
「……なんだか希美に怒られそうですね。お兄ちゃんを盗るなって」
音葉はその指輪をしばらく見つめた後、コクリと頷いた。
「はい。わかりました。お受けします」
音葉は椅子から立ち上がると少し笑いながら背筋をピンと伸ばし左腕を望に差し出した。望はゆっくりと音葉の薬指に指輪を嵌める。幸運なことに、指輪は少しきつめだったがなんとか音葉の指におさまってくれた。音葉は手を広げ天井に向けて掲げた。指輪は作られてから長い年月が経過しているからか、細かな傷が多い。それでもリビングの照明を受けて満月のような美しい銀色に輝いていた。
「ありがとうございます。大切にしますね」
「俺も音葉の事を一生をかけて守る」
跪いたままの望と立ったままの音葉、二人はお互いに顔を見合わせ、しばらく照れくさそうに笑い合った。路貝は遠い目で音葉の指輪を見守りながら、何も着いていない自分の左手をそっとさすっていた。
それから二人は残った書類を全て埋めて、印鑑を押していった。誓約書や規則への同意書など十枚以上の書類をろくに読まずに処理していく。どれか一つでも同意を拒否すればシェルターには入れないので最初から選択肢は無かった。それでも本人の署名が必要らしいので機械的にペンを走らせる。
路貝が書類の説明をし、二人が署名捺印、さらに路貝の確認、それを十回ほど繰り返し、三十分ほどかけ全ての作業終わった。長い梅雨が終わり初夏が来たような爽快感だ。
最後の一枚を書き終えると三人は同時に肩の力を抜いた。見ず知らずの他人同士でも一緒に仕事をすれば連帯感が生まれる。
「これで君たち二人は正式に成田特別避難所の一員だ。ようこそ成田シェルターへ」
路貝が和やかな表情で手を差し出してくる。まず音葉が、次に望がその手と握手をする。肩のこる仕事を終え、二人がほっとした瞬間、路貝の表情が険しくなった。その雰囲気の豹変具合に望と音葉は体を硬くする。もし手元に武器があれば手を伸ばしていただろう。
「早速だが冠木望君、君に任務を与える」
「えっ、任務ですか?」
「そうだ。シェルターの外に出て、君の父、冠木十三を探し出し、ここに生きたまま連れてくるんだ」
路貝の顔は穏やかな役人から厳しい軍人のものに変わっていた。不意打ちをくらった望は真夏の青空の下で突然ゲリラ豪雨に襲われたような気分になった。
「父を連れてくる? あなた達の仲間ではないんですか?」
「かつてはそうだった。だが今は違う。冠木十三は人間をゾンビ化させるウイルスについて我々に無い知識を有している。それは奥山さんの腕を見ても明らかだ。このシェルターを存続させるため、我々には彼の持つ知識が必要だ」
「でも、ここにいないのならどこに?」
「我々が最後に入手した情報では、冠木十三は関東地方を移動しながら身を隠しているらしい」
「身を隠す? すみません、最初からきちんと説明をしてもらえませんか。俺にはさっぱり状況が掴めません」
戸惑う望に路貝が頷いて見せた。
「君の言う事はもっともだ。我々が冠木十三を探す理由、それは彼が日本にゾンビウイルスを広めたからだ。今外の世界で起きている惨劇は自然災害では無い。一人の男によって引き起こされた人災だ」
その言葉は望にとって直下型の巨大地震だった。足元の地面が崩壊し暗闇に放り出されたような絶望的な浮遊感が望を襲った。




