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8月25日 シェルター(1)

 バックミラーに見える研究所の建物がどんどん小さくなっていく。望が運転する車は、施設から脱出した屋宜達が向かった北とは逆の南に進路を取り、住宅街の中を進んでいた。助手席には音葉がおり、周囲を警戒している。やがて車は住宅街を抜け、見通しのいい田園地帯に入った。誰かが自分達を付けている気配は無い。


 「これでひとまず安全かな」

 「そうですね。追手が来る様子はありません。望、本当にありがとうございます。おかげで助かりました。それに、」


 音葉は何かを言い淀んだ。

望は、彼女が何を言おうとしたのかわからなかった。だがその姿を見て後悔で胸が押し潰されそうになった。音葉が身につけていた服は全て破かれ、今はシーツ一枚を身体に巻きつけ素足に靴を履いているだけだ。左腕には拘束されていた時の鎖が残っており、右腕の傷は開いてしまい血が歯形の形に滲み出ていた。


 「その、ごめん。時間がかかってしまって」

 「どうして謝るんですか? 望は私を助けてくれたんですよ。むしろ、私の方こそ申し訳無かったで。望に、手を汚させてしまいました」


 そう言って音葉は少し俯き、もう一度「ごめんなさい」と呟いた。


 「音葉が気にする事はないさ……あいつらは、死んでも仕方無い奴らだった。ゾンビと同じだよ」


 そうは言ったものの、望の左手には吉敷を撃った時の感触がまだ残っていた。彼の体内から吹き出た血液の生暖かさ、こびり付く肉片、そして声にならない声をあげて床に倒れる吉敷。その記憶は一生消える事は無いのかもしれない。しかし望には、悪人を手にかけた事よりも悔やんでいる事があった。


 「それよりも謝るのは俺の方だ。音葉が酷い目に遭っているってわかっていたけど、どうしても時間が必要で。本当に、ごめん」

 「私ですか? 私は大丈夫ですよ。確かに酷い事はされました。ガムテープでぐるぐる巻きにされ、ベタベタ触られ、服を破られ、殴られました。でもそこまでです」


 音葉は剥き出しの右腕を持ち上げて見せた。本物のゾンビに比べれば多少血色は残っているが火山灰の様に真っ白だ。歯形の傷はくっきり包帯に現れており、シーツは胸のあたりまでしか隠せていないので音葉の上腕部分から肩にかけてゾンビと人間の境目がはっきりと見て取れた。

 

 「この腕を見たら、あの人達怖気づいちゃいましました。私に触れたらゾンビが感染ると思ったみたいです。だから大丈夫ですよ」


 音葉の様子は拍子抜けする程いつも通りだった。望の為に優しい嘘をついているようには見えない。それに、望は音葉のゾンビ化が止まっている事を知っているが他の人間が見たら間違いなくあと一時間もしない内にゾンビになるように見えただろう。


 「本当に何もなかった?」

 「望が心配するような事は何も。だから自分を責めないでください。望は最高のタイミングで助けに来てくれた私のヒーローなんですから」

 「そうか……。よかった、本当によかった」


 音葉の言葉に望は心の底から安堵した。胸につかえていた重りがすっと去っていく。


 「それに、たとえ何があっても私は望が助けに来てくれただけで十分です。本当にありがとうございます。それよりも、望は警棒でたくさん殴られていましたよね」

 「俺は大丈夫だよ。こう見えて結構頑丈なんだ」

 「でも傷がありますよ」


 吉敷に殴られた望の頬を見て、音葉は無意識に右手を伸ばそうとした。だが、自分の腕が白化している事に気がつきすぐに引っ込める。


 「俺は別に気にしないよ。その手で触られてゾンビになるんだったら、俺はとっくの昔にそうなってるさ」

 「そうですね。腕だけのゾンビでは無いと思いたいです」


 音葉は右手を開いたり閉じたりして感覚を確かめていた。だが思ったようには動かない。ゾンビ化する最中、自分が自分で無くなるような感覚があった。右腕がまだ意思の通りに動かないのはどこかにゾンビの要素が残っているからなのかもしれない。音葉は少し表情を暗くしたが、すぐに気を取り直す。


「とにかく、傷の治療は早い方がいいです。少し車を停めませんか? 私もこのシーツをしっかり留める安全ピンが欲しいです」


 音葉の身体を隠すシーツはバスタオルのように巻かれているだけ。研究所から脱出する際、走ったり屈んだりを繰り返していたので既に解けそうになっている。かけられる上着でもあればいいのだが望が着ていた物は吉敷の血で汚れた為仮眠室に置いてきてしまっていた。確かに、治療や格好を整える時間が必要だ。そう思った望は水田の横にある広めの空き地を見つけ、そこに車を停車させた。


 「救急箱、確か後ろにあったはずですよね」


音葉は身を乗り出して後部座席に手を伸ばす。そこにはヘリの乗員を治療するつもりだった救急箱があった。音葉は右手で救急箱を取り前の座席に運ぼうとしたが、上手く力が入らず下に落としてしまう。


 「俺が拾うよ」


 望は手を伸ばして床に落ちた救急箱を拾い音葉に渡す。音葉は寂しそうに「ありがとうございます」と礼を言い、箱を開き、ガーゼに消毒液を染み込ませピンセットでそれを摘んだ。


 「顔、こっちに向けてください」

 「なんでピンセット?」

 「右手で直接触らない方がいいですから。念のためです。あとリハビリも兼ねてます」

 「そうか。じゃあ頼む」


 望が顔を近づけると音葉は弱々しい手つきでピンセットを操り望の頬にできた傷に当てた。乾き始めていた傷口に消毒液が染みる。消毒が終わると、音葉は大きめなガーゼを望の頬に当てテープで止めた。


 「これでいいと思います。他に怪我をした所はありませんか」

 「大丈夫。音葉は?」

 「私も平気です。じゃあ、ちょっと向こうを向いていてくれませんか? シーツを巻き直してピンで留めます」


 望は頷くと、音葉に背を向けるように運転席の窓ガラスから外を見た。日は後少しで完全に沈み夜が来る。夕日が空を覆い尽くす火山灰の層を赤黒く照らしており、不気味さと神々しさが混ざった不思議な光景を作り出していた。火山灰が晴れ、普通の夕日を見れるのはいったいいつになるのかわからない。しかし、その日まで、そしてそれからも、自分は音葉の側にいる、そう望は心に決めた。


 「終わりましたよ」


 振り向くと少しだけ身支度を整えた音葉がいた。緩んでいたシーツはしっかりと巻き直され大きな安全ピンで固定されている。救急箱にヘアゴムも入っていたらしく、髪はいつものように二つにまとめられていた。見慣れた髪型を見て、望はもう一度ほっとした。


 「本当は手の鎖も外したいんですけれど、救急箱の中身じゃ無理ですね。家にあった工具でなんとかなればいいんですけど」

 「戻ったら試してみよう。それじゃ食事も大変だろうし」

 「そうですね。右手が思うように動かないので左手には頑張ってもらわないと。そういえば水ってありましたっけ。少し喉が乾きました」

 「後ろに無かった? じゃあこれを」


 望は運転席のドアのホルダーに入れておいた未開封の水のペットボトルを手に取ると、蓋を緩めてから音葉に渡した。音葉は鎖を巻いたままの左手で受け取ると、力の入らない右手でキャップを外した。余程喉が乾いていたらしく、音葉はあっという間に五百ミリリットルの水の半分以上を飲み干してしまう。


 「ふう、生き返りました」


 音葉は右手に持っていたキャップをペットボトルに乗せると、ゆっくりと蓋を閉めた。


 「これくらいはできるんですけど。刀でゾンビと戦うのは当分無理ですね」

 「回復するまでは俺がなんとかするよ」

 「頼もしいです。それにこの腕にも助けられましたから感謝しないとです。危うく殺されるところでしたけど」

 「そうなのか?」

 「はい。私がゾンビになるからすぐに始末しようって人もいて。でも助けてくれた人がいたんです。そうだ、望は枝野って人に会いませんでしたか? その人のおかげで私は殺されずに済んだんです」


 音葉が少し嬉しそうに言った。


 「ああ、ケインの事だよな。会ったよ。そいつに途中まで案内してもらったんだ。でも音葉がいる部屋に着く前に別の男達が来て。俺が隠れている間にケインがそいつらを連れてどこかに行ってくれたんだ。その後はどうなったかわからない」


 それを聞いた音葉は少し表情を曇らせる。


 「もし会えたらお礼を言いたかったんですけど。無事に脱出していればいいんですが」

 「リーダーの屋宜って人と一緒に行ったから、きっと無事だと思う」

 「そうですね。私達が外に出た時、あの人達は車で逃げるところでしたね」


 研究所からの脱出は予想外にスムーズだった。本部棟の二階にある仮眠室から出た二人は、渡り廊下を使って倉庫に移動し、そこから地上に降りた。ちょうど施設にいた男達が脱出するところで、物陰に隠れた二人の前を何台もの自動車が通り過ぎて行った。正門までの間には多くのゾンビがいたが、彼らが車で引き倒したり、小型トラックの荷台から銃を撃って倒したりして一掃してくれていた。思えばその中に屋宜やケインの姿もあったような気がする。彼らが道を開いてくれていたので望達はゾンビを気にする事なく正門から外に出ることが出来た。


 「悪い人達ばかりでしたけど、ケインはいい人でした。今度は違う形で会いたいです」

 「そうだな……」

 

 音葉が無事だったとわかった途端、望の中で張り詰めていた緊張が途切れ、精神に余裕ができていた。すると、見当違いだとわかっていたが、他の男の事を心配する音葉を見て少しだけ嫉妬してしまう。望の表情の変化を見た音葉は小さく笑うと左手から右手にペットボトルを持ち替え、その底を望の腕に当てた。無機質なプラスチックとボトルに残っていた水が望の腕から体温を奪う。


 「ケインには感謝しています。でも私の一番は望です。私は、望の一番ですか?」

 「音葉……」


 望はペットボトルの下から手を伸ばし、音葉の白い手を直接握り締めた。

 

 「望、やめた方が」

 「俺は気にしないって言ったろ」


 音葉の手は冷たいが柔らかい。わずかだが体温があり、意識を集中すれば心臓の鼓動すら感じられる。ちゃんと血が通った生きた音葉がそこにいる。望はそのまま手を引き音葉の顔を自分に寄せようとする。


 「どうしたんですか」

 「俺はもう君を離さない」

 「ふふ。何ですか急に。でも、まあ、嬉しいですよ」


 音葉は望の水色の腕時計をチラリと見た後、身体の力を抜いた。ペットボトルが床に落ちて転がるが、望は拾おうとはしない。望が音葉を引き寄せる。音葉は引かれるまま顔を望に近づけ、そしてシートベルトに動きを止められた。

 勢いが良すぎたのか、長さの限界に達てしまったのか、音葉のシートベルトにロックがかかり、それ以上望に近づけなくなる。ぽかんとして見つめ合っていると、やがて音葉はシートベルトに負けて席に引き戻されていった。

 

 「あ……」

 「うん……」


二人はお互いに顔を見合わせると、声を上げて笑い合った。

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