8月25日 研究所(4)
望は鎖に繋がれたままの音葉を背に、部屋の入り口を塞ぐ吉敷と対面した。拳銃の照準はぴったりと相手の頭部を捉えている。だが、ゴルフ場で完敗した記憶のためか少しも有利な気がしない。それに、目の前にいる男は人間だ。ゾンビでは無い。
「……ここから出て行ってください。今なら見逃します」
無駄だとは思いつつ、望は敵に撤退を促した。しかし吉敷はその言葉を鼻で笑う。
「はん? 何を言ってやがる。この俺に勝てるつもりか」
「こっちには銃があります。前回みたいにはいきません」
「きっちり扱えるならな。だがよ、お前、人間を撃った事無いだろ。さっきから銃が震えているぜ? それじゃあ当たらねえよ」
「……っ」
事実を指摘され望は言葉に詰まる。音葉を助けるために排除すべき敵なのに、未だに引き金を引けない。相手は優れた格闘戦能力がありまともに戦って勝てる相手でないことはわかっている。今すぐ撃ち殺すべきだと頭では理解していた。だが、決心がつかない。
「出て行ってください。最後の警告です。でなければ、撃ちます」
「やってみろよ!」
「くっ、言ったな!」
望は意を決した。吉敷の頭部を睨みつけながら引き金を引く。乾いた破裂音が上がり、オレンジ色の発泡炎と白い煙が銃口から噴き出す。両腕の骨にずっしりとした反動が響き、真鍮色の薬莢が右側に回転しながら飛んでいった。そして仮眠室の扉に穴が開く。しかしそこに吉敷の姿は無い。
「!? どこに」
「望、左!」
視界の隅で黒い影が動いた。望はそれが何かを確認する間もなく、銃で影を追いかけながら引き金を何度も引いた。銃声が連続して炸裂し、弾丸に撃ち抜かれた枕や布団から羽毛や綿が宙に舞う。だが影には当たらない。黒い影はあっという間に距離を詰め、下から何かを振り上げた。金属製の棒でしたたかに打たれた左手に激痛が走り、両手で保持していた拳銃が手から離れ床に落ちる。
「まだだ!」
望は右手で腰のナイフを抜いて影に突き立てようとしたが、金属の刃は黒い影、吉敷の体にかすりもしない。
「そらよっ」
吉敷の声と同時に警棒が望の側頭部を容赦無く打つ。ハンマーを打ちつけられたような衝撃だ。ダメージが大き過ぎたからか、なぜか痛みは感じなかったが一瞬意識が飛んだ。脳と五感との繋がりもコンマ数秒途絶え、視界が真っ暗になり全身の感覚が消えた。気が付いた時には足が床を離れ、横向きに倒れるところだった。急いで腕を伸ばして受け身を取り、反動をつけて布団の上を転がりながら吉敷から距離を取り、なんとか立ち上がる。そこは部屋の入り口付近で、床に広がったウイスキーのアルコール臭が脳を刺激した。おかげで意識がはっきりとする。完璧とはいえないが、望はふらつきながらも再び吉敷と向かい合う。吉敷は部屋の中央に、その後ろには鎖に繋がれたままの音葉がいる。
(強い! ナイフで勝てるのか? 何とか銃を当てられれば……くそっこの位置じゃ使えない)
望は上着の下に隠した回転式拳銃の重さを触らずに確かめた。吉敷の動きを止め、銃弾を撃ち込めれば勝機はまだある。だが、今のふらついた状態では正確な射撃は難しい。最悪の場合、後ろにいる音葉に当たってしまう。望はふらつく体を無理やり動かし、ナイフを構えた。
吉敷はそんな望を爬虫類の様な冷たい目で見下しながら追撃に移ろうとする。だが、その動きが止まる。
『聞こえますか? 聞こえていたら応答してください』
吉敷の腰の辺りからスピーカーを通して男の声がした。
「ちっ、いいところを。屋宜さん? 聞こえてますぜ」
すぐにでも獲物に飛びかかれる前傾姿勢からまっすぐ普通の姿勢に戻った吉敷は腰から小型の無線機を取り出すと目の前の望や背後の音葉など意に介せず通信を始めた。
『吉敷さん、どこにいるんですか? こちらは脱出を始めていますよ?』
「ちょっと野暮用を思い出したんでさ。後からバイクで追いつきます。先に行ってくれて構いませんぜ」
『野暮用ですか……。分かりました。合流は例の沼で』
「へいへい、了解です。すぐに行きますよ」
そう言うと吉敷は無線を切り、面倒臭そうに頭をかく。その後ろで、音葉が気配を殺しながら足元に落ちていたビールの缶を拾おうとしていた。吉敷は無線機を操作しており、身動きの取れない音葉をほとんど警戒していない。
(あれで隙を作ってくれるのか。それが最後のチャンスだ。今度こそ、仕留める)
望ははっきりとしてきた頭と若干ふらつきの残る体に気合を入れてナイフを強く握りしめた。
音葉はゆっくりと床に屈み込み左手でビール缶を拾い上げる。音を立てない様に慎重に下手で空き缶を吉敷に投げようとした。だが、腕を振りかぶった瞬間、右腕に固定された鎖が小さな音を立てる。
「ん、てめえ⁉︎」
吉敷が半身を捻り音葉の方に顔を向けた。空き缶は中に残っていたビールをまき散らしながらクルクルと飛んでいく。吉敷が顔を庇おうと左腕を動かした時、望は雄叫びを上げながら突進した。
「うぉぉぉぉっ!」
ナイフの柄を腰のベルトの上に載せ、腹に押し付けて固定し、そのまま吉敷に体当たりを仕掛ける。吉敷は左腕を振って空き缶を叩き落とすと、すぐに突っ込んでくる望に気がつき振り返りながら右腕の警棒を横薙ぎする。望は、最初に吉敷が銃弾をかわした時のように、身を屈めて攻撃を避けると身体ごとぶつかった。ナイフは吉敷が身につけている警備員の制服の脇腹を貫いた。だが、刃は金属製の網の様な物の上を滑っただけ。肉を切り裂く手応えは無い。
「なっ!? 鎧が」
望は一度身体を離すと吉敷の首目掛けてナイフを一閃させようとする。だが、相手の反撃の方が早かった。警棒の先端でナイフを持った望の右手を激しく打ち、さらに返す刀で望の顔面目がけて振り上げる。距離が近すぎたため、警棒では無く拳の甲がぶつかったが、それでも十分な威力があった。望はナイフを落としただけでなく、顔を殴られた衝撃で後ろに吹き飛ぶ。床には布団が敷かれていたので倒れたダメージは少なかったが、殴られた衝撃で口の中が切れ鉄の味が広がった。
「今のはヒヤッとしたぜ。防刃ベストもたまには役に立つな」
吉敷は切られそうになった脇腹をさすりながら望に飛びかかり馬乗りになった。
「今度はきっちり止めをさしてやる!」
吉敷の両腕が望の首を締める。
「うっ、ぐあっ……」
蜥蜴の様に細身だが圧倒的な力で首を締め付けられ望は身動きが取れなかった。ただ馬乗りしているだけでなく、望の動きを制限する制圧術を使っているらしい。望は手足をばたつかせて抵抗するが吉敷はピクリとも動かず、首を締める力も緩む気配がない。
「望! この、離しなさいよ」
音葉が近くにあった枕や雑誌を投げつけているが何も状況は変わらない。
首の骨が折れそうだ。呼吸の止まった肺が焼ける様に痛い。顔に血がたまり涙が吹き出る。あと数十秒で死にそうだ。だがここで死ぬわけにはいかない。
望は呼吸のできない苦しさで強張る左手を何とか腰に伸ばし、上着に隠れていた回転式拳銃を抜くと吉敷の脇腹に押し付けた。
「あん?」
金属の感触に違和感を覚え、吉敷は首を締める力を弱めず視線だけを下に動かす。そこに銃を見て驚愕した。
「て、てめえ!」
望が回転式拳銃の引き金を引く。くぐもった音が部屋と吉敷の体内に響く。一発目の弾丸は防刃ベストをやすやすと貫き、吉敷の内臓を破壊した。銃創から吹き出た温かい血が拳銃を握る望の手に浴びせられる。その傷口に銃口を押し込み、二発目、三発目とさらに銃を発射する。その度に、吉敷の肉が弾け、血が飛び散り、銃声が消音器代わりになった男の体の中に響いた。破壊された臓器の破片が血と一緒に外に流れ出し、どろっとした感触を望の手に残す。四発目を撃とうとしたが、その前に吉敷の身体から力が抜けた。望に馬なりになっていた男はそのまま床に倒れ、脇腹から勢いよく赤い血が流れ出た。微かに口が動いているので息はある。だがもう助からないのは明白だった。
望は吉敷の身体をどかすと、近くにあった枕で手と拳銃の血を拭い立ち上がった。そして、しばらく床の上で目を泳がせている男を呆然と見ていた。初めて人を殺した。自分の手で人間の命を奪った。その事実が鉛の様に重くのしかかる。
「望、大丈夫ですか」
音葉の声に望は今やるべき事を思い出した。音葉を助けるために覚悟をしてここに来ている。まだ敵地で、敵は大勢残っている。後悔している時間は無い。
「ああ。俺は大丈夫。すぐにここから出よう」
望は床に落ちていた自動拳銃を拾い上げ、オイルヒーターに固定されていた鎖を撃って破壊した。自由になった音葉は残った鎖を腕に巻きつけると望が落としたナイフを拾い上げ吉敷に向かう。
「音葉?」
「この人は虫の息です。止めを刺します」
そう言って音葉はナイフを振り上げようとする。
「ダメだ!」
音葉の行動が慈悲の心から来たのか、それとも復讐心から来たのか望にはわからなかった。だが彼女に人殺しをさせるわけにはいかない、そう思った望は慌てて音葉の手を掴んだ。ゾンビ化していない方の左腕は、利き腕で無いこともありあっさりと取り押さえる事ができた。
「放っておこう。音葉が手を汚す事は無い」
「……わかりました」
音葉はあっさりとナイフを下ろす。
畳の上には吉敷から流れた血が小さな川を作っている。赤い液体は部屋の出入り口側に流れて行き、そこで琥珀色の液体と混ざってどす黒いオレンジ色を作っていた。
「……てめえ、ら……ぶっ殺し……」
瀕死の吉敷が口をわずかに動かした。それを見た音葉は、ナイフを持ったまま倒れた男に近づく。
「音葉!」
「殺しはしません。でも仕返しをさせてください」
音葉は倒れたままの吉敷の目に向かって唾を吐いた。
「……な、にを」
「今の唾には私の血が混ざってる。口の中に怪我をしてるの。あなたに殴られたからね。これで、あなたも死んだらゾンビになる。永遠の絶望の中で苦しむといい」
音葉はわざとらしく自分の右腕を見せつけた。吉敷は絶望的な目で赤い血が滲み出ている歯形の傷と白化した腕を見上げていた。
「く……そ、が」
「もういい。行こう」
望はさらに何かをしそうな音葉の肩を強引に掴んだ。吉敷達が音葉にしたであろう事を考えれば、復讐したくなる気持ちはわかる。だが望はこれ以上音葉に手を汚して欲しくなかったし、銃声を聞きつけた他の敵が来る可能性もあった。
望は部屋の隅に転がっていた靴を拾い音葉に履かせると、二人は死にかけの吉敷を後にし、部屋から出た。




