8月25日 研究所(1)
冠木望は音葉が囚われている日垣製薬の習志野研究所に向かって軽トラックを運転していた。トラックの屋根に取り付けられたスピーカーからは、陽気な音楽と共に「ご不要な品物を無料でお引き取りします」と明るい女性の声が鳴り響いていた。廃品回収のアナウンスだ。望の隣にはこの車の持ち主だった作業服姿の男性ゾンビの死体がある。噴火の後、仕事に出て、そのままゾンビ化したらしい。腐ったチーズのような強烈な腐敗臭が狭い車内に充満している。だが死体を外に捨てるわけにはいかない。軽トラックもゾンビの死体も音葉救出の為に必要な物だった。
大音量を流しながらゆっくりと進む軽トラックは住宅街に入り、製薬会社近くにある小さな交差点の手前で停車した。望はバックミラーで後方を確認する。
「よし、ついて来ているな」
そこには百体を優に超えるゾンビの大群がいた。研究所の周辺にいた二つのゾンビ集団を集めたもので、動く死者達はスピーカーの音に吸い寄せられるように一心不乱にトラックの後に着いてきている。
ゾンビ達の歩みは遅く、望がいる交差点に到着するまで十分近くかかりそうだった。望はスピーカーをつけたまま、車外に出、交差点に面した住宅のブロック塀から少しだけ頭を出し、目的地の様子を伺った。正面、百メートルほど先に日垣製薬の研究所の正門が見える。正門は学校などにもあるスライド式の太い鉄格子で、その左側には箱のような形をした一階建てのコンクリート製の受付兼警備員の詰所があった。その平らな屋上には土嚢が積まれ、二人の銃を持った見張りがいた。さらに正門を出た道路の上にも銃を持った三人の男達がこちらに向かって来ている。廃品回収のアナウンスを不審に思った見張りが偵察に出したのだろう。屋上にいたどこか見覚えのある男が無線機で路上にいる男達に指示を出しているようだった。
「このままトラックを突っ込ませても潰されるだけか……」
望は予め近くに停めておりた野瀬の車からグレネードランチャーとグレネード弾を取り出し、大きな筒のようなランチャーに、拳大の大きな弾丸を込めた。望はグレネードランチャーを路上にいる三人の男達に向ける。グレネードは強力な武器だ。ゴルフ場で何度か試し撃ちをしたが、半径五メートルくらいにあった草木は原型を留め無いほどズタズタに引き裂かれていた。
「……」
望は照準を男達のかなり手前に合わせ、引き金を引いた。ポンっと軽快な音が響き、グレネード弾が発射される。コンマ数秒後、道路上で爆発が起きた。白い煙が舞い上がり、コンクリートの破片が飛び散る。三人の男達からは距離があったので致命傷にはならなかったが、彼らは爆発に驚き、飛んできたコンクリートの破片で軽く無い怪我を負った。それを見た詰所の屋上にいた男が大声で「戻れ」と叫ぶと三人の男達は背中を見せ、一目散に研究所に逃げ帰る。男達の走る姿を見て、望はほっと息をついた。
次のグレネードを装填するために望がブロック塀に身を隠した直後、銃声が響きブロック塀に着弾、コンクリート製のブロックが大きく抉れた。詰所の上にいた男達が撃って来たらしい。
「門の前に見張りを。できれば逃げてくれよ」
音葉を助ける為なら人殺しも厭わない覚悟はできている。だが、殺さずに済むならそれにこした事はない。望は新しいグレネード弾を装填すると、わざと大きな動作でブロック塀から飛び出し詰所に狙いを定めた。遠くで銃声が鳴り、足元でアスファルトが破裂する。次弾を撃たれる前に、望も引き金を引く。グレネード弾は詰所の壁に命中し巨大な煙を巻き上げた。煙が収まった時、屋上にいた男達の姿は無かった。爆発に巻き込まれたのか、あるいは避難したのかはわからない。身の安全を確保したところで、望は次のターゲトに攻撃を移した。
「次は門だ。トラックとゾンビが通れる穴を」
望は立て続けに正門に向けてグレネードを放った。最初の数発は目標を外れて施設の中に飛び込んだり、横の壁を破壊したりしたが、四発目が正門に直撃した。装甲車も撃破できる強力なグレネード弾が命中し、強力な爆発力と貫通力で門に大きな穴が開いた。
「よしっ。これでトラックを……・。ん、あれはバリケードか」
正門の向こうで男達が荷台に乗せられた金属板の壁を転がしていた。可動式のバリケードのようだ。ゾンビの群れはもうすぐ交差点に近づいてくる。このまま残っていれば真っ先に望自身が食われてしまう。それでは本末転倒だ。望は可動式のバリケードを設置した男達の姿が見えなくなるのを待たず、残りのグレネード弾を打ち込んだ。ゾンビや人間には有効だっただろうバリケードも、グレネード弾の前では無力だった。あっさりと破壊され、地面に残骸を残しただけだった。それでも男達は戦意を失わず、五人ほどが壊れた正門の残骸や壁に身を隠しながら銃を撃って来た。望は交差点に身を隠したが、集中的に射撃を浴びせられ、ブロック塀がどんどん削れていく。
「簡単にはいかないよな。でも、これなら間に合う。次は煙幕を」
頭の中で描いていいた音葉救出作戦を先に進める。第一段階がゾンビの群れの誘導、第二段階が正門の破壊、第三段階は発煙弾でゾンビとトラックを隠し
第四段階でトラックとゾンビを施設に突入させる。そして第五段階、混乱に乗じて音葉を救出だ。
望は、「SMOKE」と書かれた白いグレネード弾をろくに狙いもつけずに次々と研究所の敷地内に放った。着弾するたびに、白い煙が吹き出し周囲の視界を塞いで行く。正門の周辺にいた男達も煙に巻き込まれ姿が見えなくなる。さらに三発の発煙手榴弾を手に取り、ピンを抜いて交差点に放り投げた。ついでに元々軽トラックに積まれていた発煙筒も使う。あっという間に、路上に白い煙の壁ができた。
「これでしばらくは時間が稼げる。ゾンビは、来てるな」
ゾンビの群れは望のすぐ近くまで近づいていた。数百体のゾンビが住宅街の細い道路を埋め尽くす様は地獄のような光景だったが、望には頼もしく思えた。望は軽トラックに戻るとまず荷台を確認した。壊れたブラウン管テレビや大型スピーカーの間にガソリンの入った赤いポリタンクがロープで固定してある。
「荷台はこれでいい。次はハンドルとアクセルだ」
望は車内に戻ると、軽トラックを動かし交差点を曲った。煙の壁で見えないが、直線方向には研究所がある。助手席にどけていた作業服のゾンビの死体を引っ張り、運転席に座らせた。車にあったステンレス製トングをハンドルの穴に通し、ゾンビの身体を利用して固定する。
研究所の方から銃声が響き、ほぼ同時に軽トラックに弾丸が命中した。煙の向こうからこちらは見えないはずだが、車体の上部に取り付けられたスピーカーからは大音量で「ご不要になりました、テレビ、パソコン、家電などがありましたら〜」と放送が流れ続けている。研究所の見張り達は音を頼りに銃を撃ったようだ。
「まだ荷台には当たるなよ……」
断続的に銃撃を受ける中、ゾンビの死体の足をアクセルに乗せブレーキを解除すると軽トラックは正門に向けて歩くような速度で前進を始めた。スピーカーのボリュームは最大に設定してある。深夜のように静まり返った無人の住宅街なら数百メートル先にも届きそうだ。交差点を曲がってしまったがゾンビの群れにも間違いなく聞こえているだろう。
軽トラックが煙の中に消える。望は野瀬の車に戻るとエンジンをかけ、その場から離れた。
***
望が現れる少し前、銃を持った岡本涼は日垣製薬習志野研究所の正門にある警備員の詰所を訪れていた。詰所の中では三人の仲間が退屈そうにグラビア誌を眺めたり、漫画を読んだりしている。岡本は窓ガラス越しに彼らに軽く挨拶をすると梯子を登って屋上に上がった。屋上には土嚢がコの字形に積まれ、その中でスコープ付きの猟銃を持った男が折り畳み椅子に座り周囲を見張っている。屋上に上がって来た岡本を見て、見張りの男が怪訝そうな顔をした。
「岡本さん、どうしたんですか?」
岡本達の所属する屋宜グループでは三交代制で全員に役割が振られている。先ほどまで外に調達に出ていた岡本は今は休みの時間のはずだった。
「ちょっとムシャクシャする事があってな。ストレス解消に来た」
見張りの男は岡本の猟銃を見て、ああと納得する。先ほどこのグループのリーダーの屋宜や岡本が戻った時、島田という仲間がゾンビにやられたと聞いていた。見張りの男は島田と大した面識が無かったので特に思うところはなかったが、岡本にとっては噴火以前からの知り合いだったらしい。その敵討ちにゾンビを撃ちに来たのだろう。
「残念ですけど今日はゾンビは一匹も来てないですよ」
「なんだよ。それなら吉敷の方に行くんだった」
「なんかあるんですか?」
「ああ、生きている女がいてな、ん?」
岡本は眉をひそめ自分の耳を疑った。遠くから「ご不用品を回収します」という女性の声が聞こえた気がした。音の方向に意識を集中してみるとやはりアナウンスが聞こえる。
「女ですか。もうしばらく見てないなあ。なんだか女の人の声が聞こえる気がしますよ。幻聴ですかね」
「馬鹿野郎、現実だ。何かいる」
噴火前ならありふれた光景だったが、今は違う。生きている人間がほぼ全滅した世界でどこの誰が廃品回収のサービスなど利用するのか。見張りについていた男も異常に気がつき銃を構えて住宅街の方に向き直った。
音はどんどん大きくなっていく。間違いなく、この研究所に近づいて来ていた。
「何なんでしょうね?」
「さあな。おい、無線を貸せ」
岡本は見張りから無線機を奪うと下の詰所にいるグループに指示を出した。
「不審者が近づいて来ている。廃品回収車のようだ。三人ほど出て行って様子を見て来い」
詰所にいた男達は文句を言いながらも岡本の指示に従った。高校時代に競技射撃で全国大会まで行った経験のある岡本はその戦闘力の高さで屋宜グループの中でも一目置かれていた。
詰所から出て来た三人の男が正門の横にある通用口を通って外に出る。岡本と見張りの男は銃を構えて彼らの進路を見守った。廃品回収の放送はどんどん大きくなり、やがて研究所近くの交差点の辺りで止まる。すぐそこにいるようだが、交差点に面した住宅のブロック塀の影に隠れており姿は見えない。
『止まったみたいです。岡本さん、どうします?』
路上にいる男から通信が入った。
「そのまま進め。正体を確かめるんだ。何かあったら銃で援護する」
『うへえ、とんだ貧乏くじだ』
ふいに、交差点の辺りで何か影が動いた。小さな煙が上がり、次の瞬間路上で爆発が起こる。
「なんだ⁉︎」
岡本はその音と衝撃に驚き、思わず無線機を落としてしまった。路上では三人の男達が倒れている。
「おい大丈夫か!」
岡本が叫ぶと、三人の男達はなんとか立ち上がる。爆発から距離があったおかげで怪我は軽いらしい。岡本はすぐに無線機を拾い上げた。
「こっちに戻れ! 急げ」
叫び終わると、無線機を見張りの男に押しつけ猟銃のスコープを覗いた。一瞬、交差点に人影が見えた。岡本は銃で人影を追いながら躊躇なく引き金を引いた。心地よい反動が銃床を通じて肩に響き、人影が隠れたブロック塀が爆ぜた。
「誰かいる交差点の右側だ!」
「ええと、どこですか? 右? 右??」
見張りの男の手には高性能な猟銃があったが、射撃の経験がほとんどないため敵がどこにいるのかも把握できていない。岡本は舌打ちをするとレバーを引き次弾を装填する。岡本の使っている猟銃は一発ごとに弾丸を装填し直すタイプだった。精度は高いが連射はできない。
再び交差点に人影が現れた。それは見せつけるように、大きな筒のような武器を構える。岡本に武器の知識は無かったが、それがバズーカなど強力な武器の類である事は想像がつき、同時に動揺した。他人から敵意を持った銃口を向けられたのは人生で初めてだ。何とか心を鎮め猟銃を撃つが、弾丸が人影に命中する事は無かった。人影が大きな筒状の武器を研究所の詰所に向ける。
「くそっ、逃げるぞ!」
岡本は戸惑う見張りの男の襟を掴むとそのまま屋上から飛び降りた。間髪入れず、詰所で大きな爆発が起こる。飛び降りた衝撃か、あるいは爆発で砕けた詰所の壁がぶつかったのか、見張りの男の額はバックリ割れ、大量の血が流れ出ていた。
「うわ、何が? 目が、目が見えません」
「騒ぐな。血が入っただけだ」
岡本は急いで見張りの男の止血をする。そうしている間に、路上に出ていた三人が戻って来た。
「おいっ、本部に敵襲だと伝えろ!
岡本は地面に落ちていた愛銃を拾いながら、戻って来た男達に指示を出した。そうしている間に、正門の辺りで次々と爆発が起こる。岡本達は身動きが取れず、大穴の開いた詰所の影に隠れて攻撃が止むのを待った。何回目かの攻撃で正門が破壊される。鋼鉄でできた数百キロの門が飴細工の様に捻じ曲がり、大きな穴が開いた。
「あいつら門から来るつもりですよ」
「バリケードだ!」
「でも、あれはゾンビ用で」
「つべこべ言うな。行くぞ」
岡本は逃げ腰の見張りの男を引っ張り、詰所の裏側に置いてあった移動式のバリケードを動かした。ゾンビの襲撃に備えて用意したもので、何台もの台車の上に鉄板を並べたものだ。キャスターで地面の上を転がし、穴の開いた正門のすぐ後ろに展開させる。だがその簡易バリケードは一発の攻撃であっさりと破壊されてしまった。
「だから言ったんですよ」
見張りの男が泣きそうな顔で言った。岡本は彼を無視し、無線を持った男の方を見る。
「応援はまだ来ないのか」
「今呼びました。吉敷さん達、少し時間がかかるそうです」
「クソ、吉敷の野郎、女で遊んでいるから……。まあいい、俺達でやるぞ」
「えっ、逃げるんじゃないんですか?」
「やられっぱなしじゃ気が収まらない」
岡本は他の四人を無理やり連れて正門まで移動した。仲間の為や施設を守りたいという思いがあったわけではない。ただ島田を殺され苛々しているところに、攻撃を受け気持ちが昂っているだけだった。敵をぶち殺してやりたい、その黒い思いが岡本を突き動かしていた。
岡本は壊れたコンクリート壁に体をつけると猟銃を交差点に向けた。先ほどと同じ人影が筒で爆弾のようなものをこちらに放っている。
「あそこだ、撃ちまくれ!」
岡本と四人の男達は手にした銃で敵を攻撃した。すると攻撃の手が止む。
「やったか!」
誰かが叫ぶ。
「馬鹿! 油断するな」
岡本の叫び声とほぼ同時に、交差点にいた人影が新しい弾丸を放った。高速で飛来する弾丸の影が真っ直ぐと自分に向かってくるのが見え、岡本は死を覚悟した。だがそれは数メートル先の地面に落ちると白い煙を上げただけで爆発はしなかった。弾丸は何回かバウンドして岡本達の後ろに転がって行った。途端に弾丸は大量の煙を吐き出し、岡本達の視界を見えなくする。
「煙だ、ごほっ、ごほっ」
「駐車場側に移動するんだ」
催涙ガスや毒ガスの類ではないらしい。息苦しく、薬品臭がしたが体に異常は無かった。五人が煙を払いながら駐車場に逃げると、背後から廃品回収のアナウンスが聞こえてきた。音は先ほどよりも大きくなっている。
「岡本さん、放送がこっちに近づいてきてます」
「くそっ、舐めた真似を」
岡本達は音を頼りに煙に向かって銃を撃ち続けた。だが視界が悪いので命中しているのかしていないのかさっぱりわからない。
「岡本さん」
「なんだ!」
「宮道さんが無線で本棟に戻れって」
「ちっ、あの野郎、覚えておけよ」
岡本は煙で見えなくなった正門に背を向けると他の四人を連れて研究所のオフィスが入っている黒い建物に向かって走りだした。
***
研究所に向かってゾンビの群れを誘導した後、望は住宅街の中を大回りして研究所の側面に向かった。建物の屋上には見張りがいたのだが、運が良いことにその見張りは正門の混乱に気を取られそれ以外の場所に気が回っていなかった。
望は研究所の外壁に車を寄せる。外壁は二メートル半ほどのコンクリート製でさらに上部は有刺鉄線があったのだが、高さは車の屋根に登る事で解決し、鉄線も廃品回収車に積まれていたニッパーであっさりと切断できた。望は小銃と武器の入ったリュックサックを手に研究所の中に飛び降りた。
施設内に侵入した望だったが、どこに行けばいいのか見当がつかなかった。エル字型に配置された三つの建物のどこかに音葉がいる。何かヒントが無いか、望は外壁と施設を隔てるように植えられた生垣に身を潜めながら様子を伺った。望の目の前には大きな倉庫のような建物がある。壁は薄い金属板でできており、一階部分に窓は無い。その代わり、二階部分には採光のためかかなり狭い感覚で窓が設置されていた。一階に入り口があったが、その扉は外からチェーンが何重にも巻かれロックされていた。倉庫の二階部分からは空中廊下が出ており、隣にある黒いビルに続いている。
「音葉がいるとしたら、あのビルか?」
倉庫の向こう側、駐車場から多数の銃声が連続して響き、廃品回収のアナウンスが止まった。そしてすぐ、倉庫の向こう側で巨大な火柱が上がる。軽トラックの荷台に積んでいたガソリンのタンクに銃弾が命中したのだろう。これで望の敵はさらに混乱するはずだった。さらにゾンビの呻き声も聞こえて来た。ゾンビの大群が研究所に到着したらしい。だが、大群といっても数は多くても数百程度。銃で武装した数十人の男達の前ではあっという間に殲滅されるだろう。
「急がないと」
望は生垣から飛び出すと黒い建物に向かって駆け出した。




