8月25日 墜落現場(4)
口の中がざらざらと気持ち悪い。舌を動かしてみると枯れた草と粘土のような味がする。どうやら地面の表面を口の中に入れてしまったらしい。火山灰や芝生に土、そこに唾液と血が混ざった物が口の下半分に溜まっている。しかも後頭部がズキズキと痛い。
(俺は、どうして、何があったんだ?)
望はにじみ出た唾液を使って不快な塊を外に吐き出しながら、重たい瞼を開けた。目の前には白目を向いた女の死体があった。肌は血を白いペンキに入れ替えたように白く、額には弾痕がある。
「ゾ? ゾンビ?」
望は慌てて起き上がると腰に手をまわした。だがそこにナイフは無く、革製の鞘が空っぽの状態で揺るだけだった。反対側に挿していた拳銃を手に取り構えたが、よく見ればゾンビはもう動いていない。周囲を見渡せば、同じ様に頭を撃ち抜かれたゾンビの死体が二十近く散乱していた。
麻痺していた嗅覚が徐々に復活する。腐った肉とチーズを混ぜたような匂いが鼻につき、思わず胃の中身を吐き出しそうになる。そして、霞んでいた記憶もゆっくりと戻ってくる。墜落したヘリコプターの乗員を救助するために、ゴルフ場に来た。越後という老人を手当中に別の生存者グループが現れた。そして、
「気づいたようだね」
記憶を思い出している最中に声をかけられ、そちらを振り向くと、ヘリコプターの残骸に寄りかかっている老人がいた。確か、この老人が越後だ。その手には拳銃が握られ、周囲には真鍮色の薬莢が無数に散らばっている。
「このゾンビ、あなたがやったんですか?」
「上手いものだろ?」
老人は手にした拳銃を持ち上げて見せた。望の持っている西部劇に出てきそうな回転弾倉式の銃とは異なり、近代的なフォルムをした自動拳銃だった。
「太平洋戦争で戦死した私の父は優れた射手だったそうだ。一度も会った事は無かったし、最近は思い出す事もなかったが、人生の終盤になって自分の中に流れる父の血を感じたよ」
「父……」
望は自分の父親の事を思い出した。冠木十三は最重要人物、生存者のリーダー格である屋宜という男がそう言っていた。冠木はマイナーな苗字だし、望の祖父がつけたという漫画のキャラクターに因んだ十三という名前は風変わりなので人違いでは事はないだろう。望の父は世界がこうなる事を知っていた。にも関わらず、妻や子供達を直接助けようとはしなかった。その事に対して望は怒りを覚えた。だが、その怒りは大きく無い。今の望にとっての優先事項は父親では無かったはずだ。大切なもの。記憶が鮮明になるにつれ、自分の隣にいるはずの少女がいない事に気が付く。
「そうだ、音葉っ 俺と一緒にいた女の子はどこですか!?」
「彼女なら屋宜という男とその仲間に連れて行かれたよ」
「くそっ」
望は直前の出来事をはっきりと思い出した。男たちが音葉に向ける目、吉敷という細身の男に切り掛かったがあっさりと返り討ちにあったこと、そして連れ去られる音葉の声。
斜面の下には既に屋宜達の車はなかった。その痕跡は大量のゾンビの足跡で踏み潰されており、わずかに残されたタイヤの跡が彼らが既に遠くに行ってしまった事を表していた。未だに痛む後頭部を押さえながら地面に落ちていた自分のナイフを拾い上げ、林の向こうに置いてきた車に戻ろうとする。
「待ちたまえ。どこに行くのかね」
「音葉を助けに行きます」
「一人でか? あの連中はおそらく数十人はいるぞ。君だけでは彼女を助ける事はできない。それとも何か作戦があるのかね?」
「……今は思いつきません。でも、とにかく行かないと」
「落ち着きたまえ。物事の成否を決めるのは準備だ。何の計画も無しに行動しても成功は望めん」
「ならどうしろと言うんですか?」
そこで望は墜落したヘリコプターの残骸を見た。機体には真っ赤な日の丸が描かれている。
「あなたは日本の、国の人なんですよね。なら、俺達を助けてください。音葉を助けるために警察か自衛隊を出してください」
「それはできない。確かにシェルターには戦力がある。だがそれはシェルターを守るためだ。私の救助にすら来んよ。ましてや外部の少女の為に部隊が動くことはあり得ない」
越後に拒否され望は失望した。だが驚ろく事もなかった。知事一人を救出するために百人を殺すような人間の集まりだ。善意の救助などありえない。
「そうですか。なら俺は行きます。一人でも何とか方法を見つけます」
「無駄に命を捨てる事は無い。残念だが彼女の事は諦めるべきだ」
「何を!?」
老人の冷酷な言葉に望は絶句した。
「君が助かったのは偶然だ。連中は君と私をゾンビに食わせるつもりだったんだからな。私が銃を隠し持っていなければ二人とも今頃ゾンビの腹の中だ。もう一度、連中の前に姿を出せば、君は、今度は確実に殺される。それは彼女も望まないだろう。今は生きる事を選ぶべきだ」
「ふざけないでください! 今頃、音葉がどんな目にあっているかっ」
「酷い目にあっているだろうな。だが、命までは取られまい。連中だって彼女には長く生きていて欲しいだろうからな」
「あなたはっ!」
望の全身にかっと血が上った。望と音葉は越後を助けに来た結果、困難に陥っている。にもかかわらず、この老人は音葉を諦めろという。思わず殴りかかりたくなる欲求を拳を握りしめて抑える。身動きの取れない老人を殴ったところで状況は変わらない。とにかく今は音葉を助ける方法を考えなくてはいけない。だが望の手にある武器は拳銃が一丁とナイフ一本だけ。しかも屋宜達がどこに音葉を連れていったのかもわからない。一つずつ問題を解決しようとしても焦りで思考がまとまらない。答えの見えない迷路に嵌まり込み気持ちばかり先走った。
「迷っているな。なら君に提案がある」
越後はそんな望の葛藤を見通したかのように語りかけてきた。音葉を助ける方法があるのかと藁にすがる思いで顔を上げる。だがその口から出てきたのは身勝手な要求だった。
「私を助けてくれんかね。私はある任務を帯びている。日本の未来に関わる、重大な任務だ。今、ヘリは落ち、私も負傷して動けない。だから君に頼みたい。私をある場所まで連れて行って欲しい。引き受けてくれたら、君がシェルターに入れるよう手配しよう。本来は部外者を入れる事はできんのだが、冠木十三の息子なら問題無いはずだ」
「はっ? 何を言っているんですか? あなたを何処かに連れて行ったら音葉を助けてくれるんですか?」
「違う。彼女の事は諦め、ただ私に力を貸して欲しい」
「……お断りします」
望はキッパリと言い切った。
「俺はあなたや日本の未来に興味はありません。シェルターだってそうです。音葉を見捨てて一人だけ生き残る、そんな選択肢は俺にはありません」
「日本の次の千年の為だったとしてもかね?」
「音葉が生きられないのなら、千年だろうが一万年だろうが、そんなのは糞食らえです」
「時には個人の命よりも大切な物もあるのだがな」
「そんなに大切なら自分達でなんとかしてください。俺は行きます」
「待ちたまえ。二つ目の提案がある」
斜面を下りようと背中を向けた望に越後がさらに声をかける。今度は無視しようかとも思ったが、音葉を助ける手段が見当たらない状況は変わっていない。タイヤ跡を追跡すればアジトはわかるかもしれない。だがその先が見えない。夜の闇に紛れて忍び込むか、あるいは仲間になった振りをするか。どちらも成功するとは思えない。望は気持ちを落ち着かせ、もう一度だけ老人の話を聞いてみることにした。
足を止めた望に越後が満足そうに話しかける。
「私が彼女の救助に協力しよう。無事に取り戻せたら、今度は私に力を貸して欲しい。どうかな」
「あなたが? 射撃の腕はいいみたいですが、その足では……」
「君の言う通りだ。今の私では戦力になれん。そもそも私は学者だ。戦闘は本職では無い。私が君に貸せるのは少しの装備と情報だ」
そう言って越後はヘリコプターから投げ出され斜面に転がっているコンテナの一つを指差した。
「あれを開けてみたまえ。解除コードは一二三四だ」
望は言われた通り、そのコンテナに近づく。コンテナは軍用の頑丈な物で、ダイヤル式のロックがかかっていた。老人に言われた通りの数字を入力すると、鍵が外れる。コンテナは回転式の金具でフタと本体を密着させており、合計六箇所の金具を緩めることでやっとフタが開いた。コンテナの中には様々なケースや武器が詰まっていた。
「それを持って行きなさい。銃と爆発物があれば少しは有利に戦えるはずだ」
コンテナの中には銃だけでも三種類、一メートルくらいの長さがある小銃、越後が持っている物と同じ拳銃、単発式のグレネードランチャーが入っていた。さらにオリーブドラブ色の金属製の弾薬箱や灰色のハードケース等が入っている。見るからに強力そうな武器だったが、映画やゲームの中でしか見たことのない暴力装置の数々に望は戸惑っていた。それを見た越後が助け舟を出す。
「使い方は教えよう。まずは情報を得るんだ。PCとラベルの貼られたハードケースがあるだろ。それを開けてみなさい。中にパソコンが入っている」
「……これですか?」
越後指示通り、ブリーフケースを手に取り開けてみる。中には野外で使えそうな頑丈そうなノートパソコンが入っていた。
「よし、それと、一番下に入っている大きなケースを私の所に持ってきなさい。表面に送受信機と書かれているケースだ。その次は発電機のボックスだ」
越後は何かを組み立てようとしているようだった。だが望一人の作業ではどう考えても十分以上の時間がかかりそうだ。
「こんな事をしている時間は無いんです。俺は早く行かないと」
「焦るな、冠木少年。君は彼女がどこに連れ去られたかを知っているのかね」
「タイヤの跡を追います」
「途中で消えていたら? 火山灰だって全ての道に積もっているわけでは無い。あるいはそこと同じようにゾンビの群れに踏み潰されているかもしれん。その時はどうする?」
「それは……」
「急ぎたい気持ちはわかる。だが今は落ち着くんだ。私には君が必要だ。だから彼女を救出して戻ってこれるよう出来る限りの情報を渡そう。その点は信じてもらいたいな」
「……わかりました。でも急いでください」
音葉を連れ去られた事は痛恨のミスだった。それをいくら悔やんでも悔みきれない。だが今必要なのは怒りと焦りに突き動かされた自暴自棄な突撃ではない。限られた武器とたった一人の人数で音葉を救出するための冷静な判断と行動だ。望は気持ちを沈め、老人の指示に従う事にした。
それから望は老人の言う通り様々な機器をコンテナから出した。パソコン、大型の送受信機とパラボラアンテナ、小型の発電機、それらを指示通りに配置し、ケーブルをつなげ、電源を入れていく。発電機が震え、電気の入った送受信機に緑色のランプが点灯する。越後の立ち上げたパソコンのソフトウェア上のコンソールに次々と「READY」も文字が並んで行った。
「ふむ。どれもきちんと動作するな」
老人がパソコンを操作する。横から覗く望には様々なオプションをカットしているように見えたが、表示が英語だったのと越後の操作が早すぎたので実際に何をしているのかはわからなかった。やがて画面に地図が表示される。
「これは?」
「この周辺の衛星写真だよ」
そこにはグーグルマップのような上空からの衛星写真が表示されていた。中央にはゴルフ場、その近くには川があり、南側に高速道路も見える。
「リアルタイムではないが二十四時間以内に撮影された衛星写真だ」
「このピンはなんですか?」
地図上の様々な箇所にはピンがあり、それぞれZM○二三やAS〇〇一といったアルファベットに文字と数字三桁のラベルがついていた。
「ZMはゾンビグループ、ASは生存者の武装グループだ。過去二十四時間以内の話だがね」
ゴルフ場周辺には生存者グループは一つしかなく、逆にゾンビの集団は三つ存在しているらしい。画面の端には望達が暮らしていた丘の上の家もあったが特に印はついていない。
「あなた達は、衛星で生きている人を見つけても助けもしなかったんですか」
「我々の目的は我々の生存だからな。このデータもシェルターに接近する脅威を知るためのものだ。そのおかげで君は彼女の居場所が分かるのだよ」
越後はパソコンを操作し、ゴルフ場から数キロ離れた場所を拡大した。地図には陸上自衛隊習志野駐屯地と書かれている。だが老人は駐屯地ではなく、すぐ隣にある施設を指す。そこはこの周辺で唯一生存者グループのピンが置かれていた場所だった。
「ここは日垣製薬の習志野研究所だ。ここからは十キロ程度だな。あの屋宜という男達が拠点にしているのは間違い無くここだ」
そこは正方形をした敷地で、Lの字型に建物が配置されていた。周囲には住宅地が広がっていたが、研究所そのものは壁で囲まれているようだった。越後がピンをクリックすると小さなウィンドウが表示され、脅威判定「大」、推定人数「三十〜五十」と情報が出る。さらに文字と写真の追加情報があった。
「日垣製薬の社員が中心となったグループ、隣の習志野駐屯地から合流した自衛官もいるそうだ。ふむ、これはあの屋宜という男で間違いないだろう」
追加情報で表示された衛星写真には、集団に指示を出す白衣の男が写っていた。背後には紺色の制服を着た二人の男もいる。解像度の関係で顔の細かな部分まではわからなかったが屋宜達で間違い無いだろう。さらにグループが保有している武器についての写真もあった。男達が手にしている小銃や猟銃の推定の種類が記載されている。
「八九式小銃にブローニング ハンター。ふむ、衛星から見た限り、猟銃や小銃以上の武器は保有していないようだ。よかったな少年。グレネードランチャーがある分こちらの方が火力は上だ」
「……どのみち、自衛隊と撃ち合いになったら俺に勝ち目は無いですよ」
「もちろんだ。だが相手にどんな武器があるか全く知らないよりはいいだろ」
「……心しておきます。近くにゾンビのグループがいるんですね」
施設の一キロ程南、近くにある習志野演習場の中、そしてかなり離れたところの三箇所に「ZM」の表示がある。
「一部のゾンビは群れを作る事が報告されている。街中と演習場にいる集団は避難所に集まった人間がゾンビ化してそのまま群れになった物だろうな。日垣製薬までこれらゾンビの群れに遭遇しないよう、避けて行くといいだろう。施設までのルートや建物の配置をよく覚えておく事だ。この装置は手では持ち運べないからな」
「……メモさせてもらいます」
望はリュックサックから西山の手帳を取り出すと白紙のページに道順と避けるべきゾンビの群れの位置を記載した。さらに衛星写真から施設に侵入できる場所に目星をつけようとする。上空から見える入り口は正門だけだった。写真からは、正門の近くに櫓の様な物が建っているのがわかる。正面突破は難しいだろう。しかし、正門以外は全て壁に囲まれている。中に侵入するには何か作戦が必要だった。
望がパソコンのデータを紙に写し終えると、越後が小銃とグレネードランチャーを持ってくるように言った。
「両方とも二百メートルくらいの射程がある。特にグレネードランチャーなら適当に撃っても相当な衝撃と混乱を与えられるはずだ」
越後は望に簡単なグレネードランチャーのレクチャーをした。といってもグレネード弾の装填の仕方と発射の仕方を口頭で説明するだけで、望がゴルフ場のスタート地点にむけて一発を試し撃ちするまで越後自身も実射を見るのは初めてだった。
グレネード弾には「HE」と書かれた爆発するタイプと「SMOKE」と書かれた発煙弾があった。コンテナに入っていた各一ダースを自分のリュックに詰める。
「次は小銃だな。どこか高い所に陣取って小銃で狙撃してもいいかもしれん」
越後は小銃の使い方を望に教えた。ターミナル駅で拾った短機関銃と同じような操作方法だったが、あれよりも大きく取り回しは悪い。だがその分威力があった。試し撃ちをした細い松の木は、たった一発の弾丸で真っ二つに折れてしまった。人間に命中すれば高い確率で致命傷になるだろう。
「もし撃つなら躊躇なく撃つんだ。間違っても相手に情けをかけようとは思わない事だ」
「人間を撃ち殺せって事ですか?」
「そうだ。誰も傷つけずに住めば一番だが、それは非現実的だ。連中を皆殺しにする覚悟がなければ助けられんぞ。少なくとも君は、一度ナイフで切り掛かった返り討ちにあっているのだから」
「……」
望は何も答えられなかった。人は殺したくない。だが、誰一人傷付けず音葉を助ける事は不可能というのも理解はできた。
結局、準備と訓練に一時間近い時間がかかってしまった。ここから日垣製薬の施設までの移動にはさらに時間がかかる。その間に音葉が受けている恥辱を考えると望の気持ちは焦り、はらわたが煮えくり立った。だがそれでも、助けられないよりはまマシだ。
準備を終えた望は、小銃一丁と弾倉を六つ、拳銃を一つと弾倉三つ、グレネードランチャー一丁、グレネード弾と発煙弾を十個ずつ、手榴弾と発煙試榴弾を三つずつ、それだけの武器をリュックサックに入れた。
「幸運を、少年」
「……一応、お礼はいっておきます」
「まだ早い。それは君があの少女と一緒にここに戻ってきた時に聞こう」
「すぐに戻ります」
望は老人に背を向けると武器の詰まったリュックサックを背負い、駆け足で車に戻った。
*2020年5月2日 望がゴルフ場から持っていく武器を「手榴弾二つ」から「手榴弾と発煙試榴弾を三つずつ」に変更。




