幕間1 冠木タケミのぼやき
その年の八月三日、富士山が噴火する直前、東京都二十三区外れにある住宅街の一軒家、その二階のベランダに一人の女性が現れた。年齢は四十代手前。手には家族四人分の洗濯物の入ったカゴを抱えている。女性はエアコンの室外機の上にカゴを置くと、大きく伸びをしてから遠くの南西の空に目を向けた。そこにはいつもと変わらない夏晴れがまるで空色のキャンパスの様に広がっている。
「今日もいいお天気ねー。青い空が気持ちいいわ」
女性は鼻歌を歌いながら洗濯物を干し始めた。会社員の夫、高校生の息子、中学生の娘、それぞれ形と大きさの違う制服のワイシャツを順番に物干し竿に掛けていく。最近高校二年生になった息子のワイシャツはついに父親である夫と同じサイズになった。女性は子供の成長を喜ぶ嬉しさと巣立ちの日が近づいた寂しさを半々に感じながら微笑んだ。
「望ももう十七歳か。そりゃあ大きくなるわね」
もう一度鼻歌のメロディーを繰り返しながら今度は娘の靴下を干そうとする。昨日、部活の合宿に出かけたので本当なら今日は娘の洗濯物は出ないはずだった。この靴下や制服のシャツはベットの上に丸まっていたものだ。
「あの子ったら、脱いだ服は洗濯に出せって言ったのに。一体誰に似たんだか」
女性は苦笑しながら娘の靴下を洗濯バサミで挟んで吊るした。次にタオルを干そうと手を伸ばした時、遠くの方で空気と大地が震えた。女性は洗濯バサミを持った手を止め、目を細める。
「何かしら? ああ、パパからの電話か」
エプロンのポケットで振動していた携帯電話に気付き、通知を見る。夫からの電話だった。女性は手にしていたタオルをカゴに戻すと一呼吸を置いてから通話ボタンを押す。
「はーい、どうしたの?」
電話の向こうで夫が切羽詰まった声で怒鳴った。相当動揺しているらしく早口で言葉がうまく聞き取れない。
「今? 家にいるわよ。洗濯物を干していたところ。えっ、富士山が噴火? それは残念ね……ええっ、冗談じゃないの?」
女性は携帯電話を耳に当てたまま南西の空に顔を向けた。気持ち、青空がくすんだように見えるが富士山が直接視認できるわけではないので本当に噴火したのかはわからない。
「ウチからじゃ見えないわね。でも少し空が曇ってきたかも。霞というかモヤというか」
女性は目を凝らしてみたが、それ以上の大きな変化は感じられなかった。その代わり、日の丸をつけた大きな航空機が飛行機雲のようなものを引きながら飛んでいるのを見つけた。
「自衛隊の輸送機が飛んでるわよ。流石に行動が早いわね。え、避難? 必要ないって」
電話の向こうで夫が必死に考えを変えるよう促していたが、女性は全く意に介する様子はない。
「心配ないってば。慌ててもしょうがないわよ。それにうちには水も食料もたっぷりあるから。それで十分でしょう。あのまずい塩飴もリュックサック一杯に。ええ、希美は吹奏楽部の合宿で長野。望は生徒会の用事で学校に行ってるわ。流石に帰ってくるんじゃないかしら」
再び夫が携帯電話の向こうで叫ぶ。逃げろとか身を守れとか立て続けに言葉を浴びせてきた。普段温厚な夫にしては珍しく命令口調で、それはやがて懇願に変わっていった。
「大袈裟ね。まるで世界が終わるみたいに。私は大丈夫よ。ほら、今だって東京にはなんの影響も出てないんだから。もう、心配性ね。あなた、鹿児島の桜島が年に何回噴火するか知ってる? 富士山の噴火だって長い歴史を見れば珍しいことじゃないし、その度に日本人は乗り越えてきたんだから。そうだ。落ち着いたら私もボランティアに行こうかしら。静岡とか大変な事になってるでしょうし」
気楽に話す女性に、夫はついに諦め電話の向こうのトーンが落ち着いてくる。
「とにかく家の中にいろって? 火山灰に気をつけて? わかったわ。あなたはどうするの? 帰ってこれそう? そう、難しいのね。じゃあ、これから大変でしょうけど身体には気をつけて。うん、私も愛してるわ。それじゃあね」
夫はまだ何かを言いたそうにしてたが、女性は思い切って通話を終えた。携帯の画面に現れた通話終了の文字を少し名残惜しそうに見て、それから女性は空を見上げた。先ほど通り過ぎた自衛隊機が残した飛行機雲が拡散し薄めすぎた水彩絵の具の様にぼんやりとし始める。遠く南西の空にはハッキリと白い煙のようなものが見え徐々に広がっていた。風に乗って東京にも飛んできそうな雰囲気だ。
「あれが富士山の火山灰か。せっかく洗濯物を干したのに、まったく迷惑な話だわ」
女性はまだ水分を含み重みのある洗濯物を物干し竿から下しカゴに戻していった。娘、息子、夫のワイシャツや靴下等を一つずつ外しカゴに戻す。ふと何かを思い出し、先ほどの鼻歌を再開する。ちょうどサビの入った時、女性はメロディーに歌詞を乗せた。
「富士山なんてー、大嫌いー」
少し調子の外れた歌を歌いながら洗濯物を取り込み、その女性、冠木タケミは家の中に戻って行った。
2020年12月14日 改稿