8月25日 墜落現場(1)
望と音葉が丘の上の家に辿り着いてから四日が過ぎた。
音葉のゾンビ化が進行する事はなかったが、元に戻る事もなく、右腕は指先から肩の辺りまで白く変色したままだった。体調自体は回復してきており、最初は望に肩を借りなければ移動もままならなかったが今では大抵の事は一人で出来るようになっていた。
日の出と共に起きた二人は簡単な朝食や掃除を済ませた後、裏庭でそれぞれの作業をしていた。音葉は右手にゴム手袋をはめ、望がタライで洗った洗濯物を物干し竿にかけている。二人が寝巻きに使っている浴衣や枕カバー、バスタオルやハンドタオルなどが風を受けてはためいていた。空は鼠色の絵具を溶かしたように均一に灰色で、青空が顔を見せる気配はなかったが望の心は晴れやかだった。望は音葉の様子を気にかけながらバケツを持って家と裏庭を往復していた。動かなくなった水道の代わりに裏庭にある井戸で水を汲み、それを家の中のトイレタンク、キッチンの流し、浴槽などに入れ、今日の分の水を用意していたのだ。
望は井戸のポンプの前にバケツを置き、少しだけ休憩した。一回八リットルくらいの水とはいえ何十往復も運ぶと流石に腕が痛くなる。作業を中断しながら、望は少しふらつき気味の音葉の様子を見守っていた。強目の風が吹き、音葉が干そうとしたタオルが一枚流される。ちょうどこちらに来たので望は右手を伸ばしてタオルを空中でキャッチした。
「あ、望? 助かります」
エプロン姿の音葉がサンダルをパタパタさせながらタオルを回収しに来た。いつもは両脇で纏めていた髪は背中で一つにしており、家にあった年配の女性向けの服を着た姿は若奥さんに見えた。音葉の事を意識してしまった望は少し赤くなった顔を隠すために明後日の方向を向きながらタオルを渡す。
「ありがとうございました。掴んだつもりでも思ったよりも力が入らなくて。なかなか慣れないものです」
「まだ本調子にはならないか」
「はい。時間がかかると思います。あるいはもうこれ以上は回復しないのかもしれません」
この四日間、望と音葉は様々な事を話した。思いがけず見つけてしまった安全な場所には水や食糧が十分にあり、二人は時間を持て余していた。特に夜は電気が無いので太陽が沈んでしまった後にできる事は殆どない。貴重な電池を温存するため、二人は二階の和室に布団を並べ、夜の明かりを頼りに様々な話をした。お互いの家族や友人、学校での出来事。望の生徒会の事、音葉のピアノの事、一度だけ西山千明の話題も出た。その中で望は音葉がピアニストを目指していた事、右腕が戻らなければもうピアノは弾けない事も聞いていた。
「きっと良くなるさ。のんびりいこう」
「そうですね。早く刀を振るえるようになって館山に行きたいです」
「……音葉のペースでゆっくりリハビリすればいいよ。時間はいくらでもあるんだから」
洗濯干しに戻る音葉を見ながら望は少し寂しく感じた。あの日、音葉がゾンビ化から帰って来た夜以来、彼女は変わった。かつては生き抜く事や以前の生活を取り戻す事を目標にしていたが、今は別の何かのために生きているようだ。それが何かはわからなかったが、二つの意味で寂しいと感じていた。一つは、それが望のためではなさそうな事、もう一つは音葉が過去を過去として乗り越えてしまった事だ。望もこの世界に慣れて来た。だが未だに全部の過去を切り捨てられないでいる。再び学校に通うような日常生活が戻ってくる、そんな期待を諦め切れないでいた。
すれ違う部分もあれば進展もあった。二人の仲はぐっと親密になったし、お互いを名前で呼ぶようにもなった。最初、音葉は敬語も止めていたのだが、あまりしっくり来なかったらしく気がついたら元に戻っていた。二人の関係は恋人というよりは家族の方が近かったが、噴火から三週間程経った今、日常的な生活を取り戻しつつある事が望には嬉しかった。
望はバケツに溜まった水を持ち上げようとすると、一通りの洗濯物を干し終えた音葉が近づいてきた。
「お風呂、溜まりそうですか?」
「あと五往復ってところかな」
「お疲れ様です。私はお昼の準備をしようと思います。何か食べたい物はありますか?」
「カレーと蕎麦以外で」
「ここ数日、それのローテーションでしたものね。ちょっと考えてみます」
音葉はエプロンをつけたまま、勝手口からキッチンに向かって行った。右利きの音葉が左手で勝手口のドアノブを回している。
(まだまだ無理はさせられない。少なくとも、俺はこの子の為に生きよう)
望は小さな背中を守る決意を新たに、水汲みを再開した。
望はラスト五往復を終え、バスタブを満タンにする。夜になったら、鍋に水を汲んでキッチンで温め、バスタブに戻す、それを何十回も繰り返すとちょうどいい温度になる。結構な重労働だが、温かい湯船のリラックス効果は相当なものだったし、どの道時間はたっぷりある。左腕の時計を見ると時刻は午前十時過ぎ。風呂の用意は夕方前でいいので数時間は空き時間がある。
キッチンに入ると音葉がテーブルについて待っていた。望が入って来たのをみると、ピッチャーに入れた麦茶をガラスのコップに注いだ。
「どうぞ。お疲れ様です」
望はお礼を言うとコップを受け取り音葉の対面に座る。音葉はパラパラと手書きのノートを捲っていた。
「それは?」
「この家の人が残してたレシピブックです。おばあちゃんの部屋にあったのを思い出したんです」
おばあちゃんの部屋は一階にあるミシンや裁縫道具が置かれている部屋だ。二人は家の各部屋に名前をつけており、他にも、おじいちゃんの部屋、大きな和室、二階の空き部屋、二階の寝室などがあった。
「今日は肉じゃがなんてどうですか?」
「和食か、いいね」
カレーとあまり変わらない気もしたが口にはしない。音葉は今まで二回カレーに挑戦していたが、右腕が上手く動かず野菜が上手く切れなかったり、火加減を間違えて玉ねぎを黒焦げにしたりと一度も成功していない。どうやら音葉は納得ができるまで挑戦を続けるタイプのようで黙っていると延々とカレーを作りそうだった。ピアニストとしてはいいのかもしれないが、料理のバリエーションが増えないのは少し困る。あの晩、音葉は自分の事を我儘だと言っていたが、この数日でその意味はすぐに理解できた。
「玉ねぎ、にんじん、じゃがいもはまだ納屋にありましたよね。しょうゆと酒と、砂糖、みりんはキッチンにあります。問題はお肉とグリーンピースですけど」
「確かマメの缶詰があったよ。あとカレーの時と同じコンビーフを肉代わりにできると思う」
望は台所の棚に積まれた缶詰の山を目でチェックしながら言った。つまり、カレー粉が入っていないだけで材料はほぼ同じだ。
「そうですね。それでいきましょう。ガスが使えたのは本当にラッキーでした」
電気と水道は使えなかったが、ガスだけは家の裏側にあったプロパンガスのボンベから供給されており、ガスコンロだけは使う事ができた。ガスの残量はかなりあるようだったので二人は燃料を気にせず料理をし熱い風呂に入る事ができた。
音葉はレシピに目を戻す。望は麦茶を飲みながら自分はこれから何をしようか考えた。音葉は作業には一人で集中したいタイプなので料理の邪魔はしない方が良さそうだ。屋内の掃き掃除やトイレのタンクへの水の補充は終えている。そういえばトイレットペーパーが残り六ロールだった。しばらくは問題ないが、ずっとここで暮らすには心許ない。
「なあ音葉」
「何ですか?」
レシピに集中していた音葉が少し面倒臭そうに顔をあげる。
「俺達、別に館山に行く必要はないんじゃないか?」
「ずっとここにいるって事ですか?」
望が頷いて返すと音葉は少しだけ考えすぐに首を横に振った。
「だめですよ。私が回復したらすぐに館山に向かいます」
「でも、音葉のその腕、それを見せたら素直に受け入れてもらえないかもしれない。問答無用で撃たれる事はなくても自由を奪われるかも」
「確かに、片腕ゾンビの私が拒否される可能性はありますね。でも、まずは行って確かめないと。これから秋になって冬が来ます。空が一日中火山灰に覆われているんです。きっと厳しい冬が来ますよ。私、ピアノのコンクールやワークショップで東北地方に良く行ったんです。向こうの秋はこんな感じの空でした。冬になったら、きっとたくさんの雪が降ると思います」
「まあ、そうかもな」
「そうですよ。電気が使えないこの家で冬が乗り切れるかはわかりませんから。それに今のところ安全ですけど、ゾンビの群れに囲まれたらどうなるかわかりません。何かあってもお医者さんもいませんし」
望がそうだよなと頷くと、音葉は「そうです」と繰り返しレシピ本に目を戻した。トイレットペーパーの調達に行く必要はなさそうだ。では何をするか、そういえば車の掃除をしていなかった、そんな事を考えていると突然家の防犯シャッターが震え始めた。バタバタと金属が波打つ音が家中に響く。
「ゾンビの襲撃か!?」
望は腰から下げていたナイフを掴みその場で身構えた。音葉もレシピを閉じ、椅子から立ち上がると、音を立てているシャッターの方に耳を傾ける。
シャッターの揺れにはリズムがあり、どこか遠くで規則正しく発生する衝撃波を受けて震えているようだった。その音に望は聞き覚えがあった。
「これはヘリコプターの音か?」
「館山の自衛隊かもしれません。あるいは、東京都の職員を殺した悪い人達かも。とにかく外に出てみましょう」
武器を手に二人は玄関から外に出、納屋に身を姿を隠しながら空を見上げた。空を覆う火山灰の下に小さな茶色い点が飛行している。横にしたご飯粒の様な迷彩柄の物体で、細くなった尻尾の部分に日の丸が描かれていた。
「自衛隊のヘリだ。でも後ろから煙が!」
そのヘリコプターは機体の後部から黒い煙を出していた。規則正しいと思われたヘリコプターのエンジン音はよく聞けば波がある。音は大きくなり、小さくなり、その間隔は急速に不規則になっていく。黒い煙もどんどん太くなっていき、やがて小さな白い光が瞬いた。
「爆発した!?」
大気を震わせていた爆音が聞こえなくなり、ヘリコプターのローターが一本、機体から外れて明後日の方向へ飛んで行った。ヘリコプターは残ったプロペラを緩やかに回転させながら急降下するように高度を落としていく。やがて遠くに見える公園のような場所に落ちていった。しばらくして黒い煙が森の中から立ち上る。
「墜落したのか……」
ヘリコプターが墜落した位置はかなり離れていたが、家が小高い丘の上に建っていた事と立ち昇る黒煙のおかげで大体の位置はわかった。
「どうする?」
望の問いに、音葉は治りかけの自分の右腕を見た。
「行きましょう。もしかしたらまだ生存者がいるかもしれません」
「でも人殺しの仲間の可能性もある」
「そうですね。野瀬さん達の時と同じで行きましょう。まず様子を見て、危険なら逃げます。いずれにせよ、あれが何なのか情報は必要です」
「そうだよな。もし館山の人なら助けないわけにはいかないし、悪い連中でもここで何をしているのかヒントが手に入るかもしれない。でも……」
「迷っている時間がもったいないですよ。すぐに出発しましょう。持ち物は救急箱と武器があれば十分ですから」
すぐに家の中に戻ろうとする音葉を望は一度引き留めた。
「待ってくれ音葉。俺も助けに行くのに賛成だ。でも、このままこの家にいた方が安全じゃないか。君はまだ戦えないし、あれだけ大きな音を立てればゾンビが群れで近寄ってくるかもしれない。リスクが大きい」
「そうですね。でも私は行きたいです」
音葉は即答した。ホームセンターの時は躊躇を見せていたのに、今は迷う素振りすら見せない。「でも……」と続けようとする望の前に白くなった右腕を突き出す。昼間の明かりの下で見れば多少血の気があるとはいえ、事情を知らなければゾンビの腕に見える。
「今までゾンビに噛まれた人は大勢いたと思います。その中には私よりもこの世界に求められていた人がいたはずなんです」
音葉は一瞬だけ視線を望から外した。その目は望の腕時計に向けられたのだが、当の望は音葉の右腕に意識が集中していたため気づいていない。
「でも私がゾンビにならなかった。これには、きっと意味があると思うんです。それが何かはわかりません。でも、何かをしなくちゃって思うんです」
「それが人助け?」
「今は、それくらいしか思いつかないんです。……でも、お兄さんはここに残っていてもいいですよ。車は片腕でも運転できます」
呼び方を昔に戻され望は苦笑した。
「それはずるいよ。音葉が行くなら俺も行くよ。もう離さないって言ったろ」
「そうでしたね。私はそんな望が好きです」
予想外の言葉に望は目を丸くした。
「なんだよ急に」
「そういえばまだ言った事なかったなって。今度は望の番ですから」
「が、がんばるよ」
「期待しています」
そう言って二人は笑い合った。
望にはわからなかった。
音葉が生き急いでいるのは何となくわかる。だが、それが未来に続いているのか、破滅に向かっているか、判断ができなかった。ヘリコプターの乗員が野瀬達のような善人ならいい。だがもし悪人だったらどうだろうか。たとえ善人でも、彼らを受け入れれば音葉と自分の二人だけの穏やかな生活は終わってしまう。心の中では未だに何もせずにじっとしている方が賢いのではないかとも思っていた。だがそれは、来るかどうかわからない春を待って冬眠に入るようなものだ。永遠に冬が続くのならその冬の中で生きていく方法を見つけなければならない。だから状況を変えて行こうとする音葉は正しいのだと思う。そう思う事にした望は音葉の背中を追って家に戻った。
二人はすぐに服を着替え、武器を手に車に乗り込んだ。音葉はいつもの日本刀を振り回すほどには回復していなかったので小ぶりなナイフだけ、望はサバイバルナイフと拳銃を身につけた。車の後部座席には薬や包帯、タオル、アルコール度数の高い酒など応急手当ができる物を積み込んだ。ヘリコプターが墜落してから十分も経たない内に、二人が乗った車は現場に向かって走り出していた。
「西の方だったよな」
野瀬から借りた青い車で灰の積もった道を進んで行く。左右は田園なので視界は開けていたが、丘の上から降りてしまったため墜落現場の煙は遠くの建物や木々に隠れてしまって見えない。
「たぶんここにあるゴルフ場だと思います。次を右に。まっすぐ行くと橋がありますから渡ってください」
音葉が地図を見ながらハンドルを握る望を誘導した。その地域は田畑が多く、家屋は少なかった。おかげでゾンビに悩まされる事なくスムースに道を進む事ができた。
十五分ほど走ると、目の前にフェンスで囲まれた巨大な森が現れた。森の中から黒い煙が上がっている。
「ここみたいだな。どこから入ればいいんだ?」
木々の向こうにゴルフ場のコースが見えたが、近くに車が入れそうなフェンスの切れ目は見当たらない。
「地図によると入口は反対側みたいですね。右にずっと進めば周り込めるはずです。急ぎましょう。煙が細くなってきています。目印が無くならない内に」
「了解」
望はフェンスに沿って車を走らせた。その道はかなり狭く、すぐ隣には住宅地がありゾンビの姿も見られた。望は早くゴルフ場の中に入りたかったが、なかなか入り口にたどり着かない。しかも、行く先に横転したトラックが現れた。
「道、塞がっていますね」
「まいったな。隣の住宅街を抜けられればいいけれど……」
すぐそこには住宅街に続く道があった。だが五十メートル先に複数のゾンビが立っており、虚な目をこちらに向けている。以前と違い、ゾンビを轢き殺す事に躊躇はなくなっていたが、十や二十のゾンビに囲まれた時、この車がゾンビの群れを突破できるのか自信が無かった。
「望、あそこのフェンスなら車で突っ切れませんか? だいぶ劣化しているみたいですし」
なかなかゴルフ場に入れない事に業を煮やしたのか、音葉が強引な意見を出した。音葉が言う通り、太い針金で出来てたフェンスは経年劣化が激しく、緑色の塗装は半分以上剥げ落ち、一部の支柱は過去に車でもぶつかったのか大きく曲がっていた。
「そうだな。ヘリコプターの乗員が怪我をしているのなら、急いだ方が良さそうだ。野瀬さんには悪いけど」
「人命優先です。きっと理解してくれますよ」
望はフェンスの脆そうな部分に向かって車を進めた。その部分のフェンスの支柱は錆びてボロボロになり、しかも半分抜けかかっている。網も下の部分が破れており猫や狸が通り抜けているのか獣道のようなものが前後に出来ていた。
望は車の頭をフェンスに当て、アクセルを思いっきり踏み込んでみた。支柱が抜け、周囲のフェンスが傾く。だがまだ足りない。フェンスの金網部分が車の進路を塞いでいる。
「もう一息ですね。助走をつけてみたらどうですか?」
「了解。ちょっと車を下げる」
望は一度車を離すと、フェンスから十メートルほど距離を取る。
「じゃあ行くよ」
音葉が左手で車内の手すりを掴み身体を固定したのを確認してから、望は勢いよくアクセルを踏み込んだ。急加速した車がフェンスに突っ込み、錆びていた針金が支柱から千切れ、フェンスが倒れる。望たちの車は倒れた金網を踏み潰しながらゴルフ場の中に侵入した。
「やった」
「馬鹿、前! 前を見て」
フェンスを突破した勢いでアクセルを踏み続けていたため、車は加速し続け、森の木々が目の前に迫っていた。慌ててハンドルを切りブレーキを踏みこんで木への激突を回避する。
「ぐっ」
シートベルトが身体にめり込み音葉が悲鳴を上げる。
「ごめん、大丈夫?」
「……いつも言っていますが、次に何が起こるかをもう少し考えて行動してください」
「うっ、気をつけるよ」
音葉に叱られた望は慎重に車を運転しながら森を抜けた。ゴルフ場はコースと、コース間を区切る細い林で構成されていた。コース全体にうっすらと灰が積もっている。ヘリコプターのものらしい薄っすらとした煙が、別のコースからあがっていた。望は灰にタイヤ跡を残しながら車を進めた。
「止まってください」
林の向こうに墜落現場が見えはじめた時、音葉が望に車を停めさせた。
「あの木の先にヘリコプターがあります。近くで降りて身を隠しながら近づいてみましょう」
「そうだね。いい人達ならいいんだけど」
望は林の近くに車を停め、丘の上の家から持ってきたジャケットを羽織ると車外に出た。ジャケットのポケットにはキッチンペーパーや折り畳みナイフ、ハンカチ等が入っている。後部座席からタオル、洗浄用の水や消毒用の酒が入ったリュックサックを取り出し背負い、ナイフの収まった鞘をベルトに下げた。すぐに行動できるように両手は自由にしておき、拳銃はベルトに差し、上からジャケットで隠した。ヘリコプターの乗員が銃を見て驚かないとも限らない。
音葉は男物のジャケットを羽織り、ナイフ一本を腰から下げただけの身軽な格好に、救急箱を手に外に降りた。
ゴルフコースは元々は林の中の緑の草地だったが、今では全体に灰が積もり灰色の空間となっていた。遮るものが無いため、コース上にはかなり強い風が吹いていた。車から降りた音葉の髪が風で巻き上げられ無秩序に広がる。
「うわっ、髪をまとめて来るべきでした」
音葉の左手は救急箱で埋まっており、不自由な右手で髪を整えようとするが上手くいかない。
「望、お願いします」
「わかった。でも、どうすればいいんだ」
望はとりあえず音葉の背中にまわり髪を手でまとめてみた。だがヘアゴムを持っているわけでは無いので押さえたまま動けなくなる。手で掬いきれなかった髪が後れ毛になり、風に揺れて白く細い首筋を撫でていた。
「ええと、三つ編みにでもする?」
「できるんですか」
「希美が小さい頃よくやったから」
「なら期待できそうですね」
音葉が子供っぽく笑い、しかしすぐに表情を引き締める。
「でも時間がかかります。怪我人がいるかもしれないので急ぎましょう。タオルを頭に巻いてくれませんか、海賊みたいに」
「ああ、なるほど」
望はリュックサックから長めのフェイスタオルを取り出すと、髪を丁寧に包みながら音葉の頭に巻いた。この数週間、不十分な食糧と過酷な環境で過ごして来た音葉の顔からは少女らしさが薄れており、長い髪を隠した姿は本当に少年海賊といった感じだった。
「きつく無い?」
「ちょうどいい感じです」
音葉は頭を上下させてタオルが固定されている事を確認すると「ありがとうございます」と礼を言い、墜落現場に向かうため林に入った。
二人はコースとコースを遮るため密集して植えられた松の木々に身を隠しながら墜落現場に向かって進んだ。そこはなだらかな斜面で、スタート地点からはピンのフラッグしか見えない丘を登るようなコースだった。頂上となるグリーン近くの斜面に迷彩柄の大きなヘリコプターが墜落している。機体の一部に赤い日の丸があるので自衛隊の機体だろう。斜面を滑りながら止まったらしく、機体後方の地面が大きくえぐれている。
二人は林とコースの境目で一度止まり、草むらの陰に隠れながら五十メートルほど離れたヘリコプターとその周辺を観察した。機体の上部からはまだ煙が上がっていたが、その量は少なく色も白くなっていた。燃料の匂いや、周囲で燃えている物も無い。ヘリコプターはある程度の原型を保った状態だったが、コクピットの損傷は大きく、キャビンは潰れ、またテールブームと呼ばれる後部の尻尾の様な部分は半分くらいで折れ、胴体から離れた位置に転がっていた。ヘリコプターの周囲には他にも折れたローターの一部や何かの部品、搭載していたコンテナ、布の様な物が散らばっていた。だが人影は無い。
「外には誰もいないな」
「怪我人がいるとしたら中でしょうか。あるいは残骸の影に隠れているのかもしれません。近づいてみましょう」
二人は林から出て、墜落現場に向かって進んだ。
・2020年4月18日 後半19行を消去し、代わりに48行(1,444文字)を追加。追加部分の始まりは後半の「望は林の近くに車を停め、丘の上の家から持ってきたジャケットを羽織ると車外に出た」からです。




