8月21日 丘の上の家(3)
望が意識を取り戻した時、周囲は淡い闇に包まれていた。シャッターの隙間から漏れた月明かりが僅かに部屋の中を照らし、ベッドや本棚の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせている。
「眠っていたのか?」
身体を少し動かすと、冷たい床板が心地よかった。どうやら部屋の入り口で倒れて寝てしまっていたらしい。腕時計のバックライトを点灯させると時刻は午前零時をまわっていた。日没前にこの部屋に入ってから既に六時間以上が経過している。次第に眠気が引き、思考がはっきりしてきた。
「ここは、洋室? ……そうだ、音葉ちゃんは!」
望は床から飛び起きると部屋のドアノブを思いっきり引いた。だが意識を失う前にかけていた鍵が邪魔をする。
「くそっ、鍵が。いや落ち着け、落ち着くんだ」
今すぐ駆け出したい気持ちを抑えるためドアノブを爪が食い込むほど強く握り締める。慌てて部屋から出て「ゾンビ」に襲われては音葉に合わせる顔が無い。望は扉に耳をつけると、意識を集中させ部屋の外の様子を伺った。風でシャッターが撓む音がする。木々が揺れる音、生き残った僅かな虫や蛙のか細い鳴き声が屋外から聞こえてくる。だが、近くにゾンビがいる気配はない。屋内は限りなく無音だった。
音葉がどうなったのか、まだわからない。
「寝ているならそれでいい。でも、もし、」
もしゾンビになっていたら。
望の脳裏にゾンビになった母親の姿が浮かんだ。壊れかけたゼンマイ仕掛けのロボットのような動きで牙を剥いて襲いかかってきた母親。そこに厳しく優しかった生前の面影は無かった。続けて西山千明の姿が浮かぶ。望の恋人だった少女。考えるよりも行動する方が早く、感情豊でカリスマ性があり多くの人に好かれていた。そんな彼女もゾンビに噛まれ、暗い地下鉄の地面を這いずり意味のない呻き声を上げる怪物となってしまった。ゾンビになっても外見は生前と変わらない。だが、その内面は人間を食らう事しか考えていない化け物だった。
音葉が言っていた。ゾンビ化してしまった人達にできる最後の事は止めを刺す事だけだと。ターミナル駅で会った早見も、ゾンビ化する直前にそれを頼んできた。死と生の狭間に囚われたらきっと自分も同じ事を思うだろう。それは彼女も同じはずだ。
「音葉ちゃん……」
望は身につけたままだったサバイバルナイフと拳銃を確認した。ナイフを手にするともう一度耳を澄ませて部屋の外の様子を伺う。足音やうめき声のようなものは聞こえない。
「大丈夫。きっと回復している。だから、それを確認しに行くんだ」
自分に言い聞かせる様に呟いた後、望はゆっくりと扉を開いた。蝶番の軋む音が誰もいない廊下に響く。望は半歩外に出て、ライトで左右を照らした。人影は無い。
望が意識を失っていた洋室の斜め前には和室の入り口があり、その襖の向こうで音葉が眠っているはずだった。望は板張りの床の上をすり足で移動しながら和室の襖の前にたった。
望はサバイバルナイフを構えたが息苦しさで呼吸が早くなる。もしこの向こうにいるのがゾンビなら、躊躇する余裕は無い。狭い屋内とリーチの短いナイフ。音葉の姿に惑わされれば命を失う事になる。
(俺に音葉ちゃんの姿をしたゾンビが刺せるのか? いや、迷うな。音葉ちゃんならどうする。何を望む。それを考えろ。それに、まだ決まったわけじゃない)
深呼吸を繰り返し息を整えた望は、左手で襖をノックした。
「音葉ちゃん?」
部屋の中から返事はない。
望は少しだけ安心し息をついた。もし音葉がゾンビになっているのなら、声に反応して動き出すはずだ。何も動かないという事は、まだゾンビになっていない可能性が高い。望は汗で濡れたナイフの柄を一度服の袖で拭うと、気持ちを落ち着けてからそっと襖を開け、そして唖然とした。
「なっ!?」
そこに音葉はいなかった。
部屋の中央には望が敷いた布団があった。掛け布団は丁寧に畳まれており、枕元に音葉がこの家に来る前に着ていた服と寝かせる前に望が着せた浴衣が並んで置かれていた。どちらも綺麗に畳まれている。音葉の姿は布団の中にも、部屋の中にも、どこにもない。望は慌てて布団に駆け寄り、敷き布団に触れた。布団は、冷たかった。音葉はかなり前に部屋から出て行ったようだ。
「そんな、まさか、外に出たのか。どうして……俺の、ためなのか」
完全にゾンビ化する前に望の前から姿を消す、音葉ならやりそうだった。枕元に置いてあったペットボトルの水は封が切られており、中身はほとんど無くなっていた。薬とビタミン塩飴は全て使われ空の小瓶や飴の小包装が丁寧に並べられていた。食料には手がつけられておらず、他の荷物や日本刀も部屋に置かれたままだった。
「独りで行くなんて、そりゃないだろ」
望はその場に崩れ落ちそうになったが必死に堪えた。外に出たとしてもまだ追いつけるかもしれない。
望は和室から出て、玄関に向かった。不思議な事に、音葉の靴はそのまま残っており、玄関の鍵も掛かったままだった。
「外に出ていないのか? いや、違う。外のゾンビが入ってこないように玄関の鍵はかけたままにして行ったんだ。なら二階から外に出たのか」
望は逸る気持ちを押さえながら、できるだけ音を立てないように階段に向かった。音葉は最後の力で二階の窓から外に出て、そのままどこかに姿を消したのだろう。だが、外に出る前に力尽きた可能性もある。ゾンビ化した彼女がこの家のどこかに潜んでいるかもしれない。不意打ちに備え、手に持つナイフをギュッと握り締める。
階段の手前に立った時、二階から風が降りてきた。外から聞こえる虫の声も大きくなる。この家に侵入した時、窓ガラスを割っているが、その部屋の扉はきちんと閉めている。誰かが部屋の扉と窓を開けたらしい。二階には防犯シャッターは無いので月明かりだけでかなりの視界が確保できそうだった。階段で襲われた場合、ナイフでは不利になる。望は武器を拳銃に持ち替えるとヘッドライトを消し、ゆっくりと階段を登った。
二階の廊下は一本の直線で、右手に望が家に入る時に使った洋室、左手に空き部屋の和室があった。洋室の扉は閉じられたままだったが、和室の襖は少しだけ開いていた。銀色の月明かりが襖の隙間から漏れ、廊下に光の影を落としている。
望は足音を殺し、銃を構えたまま隙間に近づき中を覗いた。和室の奥にある出窓に浴衣を着た長い髪の女性が膝を崩して座っている。背格好は音葉と同じだ。その人は間違いなく音葉なのだが、それが音葉なのか望は確信が持てなかった。
女性はこちらに背中を向け、出窓の張り出し部分に上半身を預けていた。窓は全開に開いており、吹き込む風が女性の長い髪を揺らしていた。出窓から外を見ていて寝落ちしたようにも、窓から外に出ようとして力尽きたようにも見える。女性は張り出しの上に腕を組んで頭を乗せているので、望からはその表情は窺えない。眠っているのか、死んでいるのか、それすらもわからない。開け放たれた窓から見える夜空は灰で薄らと覆われており、拡散した月明かりで全体がぼんやりと光っていた。夜の明かりに照らされる女性の首筋や足は普段よりも白く見える。きっと月明かりのせいだ、望はそう思いたかった。
「おとは、ちゃん?」
望は襖を開けると恐る恐る少女の名前を呼んだ。しかし座ったままの少女は微動だにしない。近づいて確かめるべく、望が部屋の中に足を踏み入れる。畳がわずかに軋み、その振動が床を伝わって女性に届く。それで目が覚めたのか、うなだれ気味だった女性の首がすっと伸ばされた。長い髪が流れるように背中に落ちていく。
「……音葉ちゃん」
声に反応し座っていた女性が立ち上がった。その動作はどこかぎこちなく、身体が左右に小さく揺れていた。浴衣の袖から覗く右手首から先は蝋のように白くなっている。月明かりのせいでは無い。そして、女性はまだ一度も望の呼びかけに応えていない。
この世界はそんなに優しく無い。
野瀬の言葉が耳の奥で響いた。
女性が頭を揺らしながらこちらに振り向こうとしている。望は絶望が確定する瞬間を少しでも先延ばしにするため顔を下に向け、目を閉じた。
畳みが軋む音がする。女性が望に向かって歩いて来ている。速度は早く無い。だがもう時間は無い。あと数歩で女性の腕が望を捉えるだろう。
望は銃口を下に向けたまま拳銃を両手で握った。一発で頭部に命中させるには銃を安定させなくてはいけない。目の前に音葉がいる。妹の友達で、ピアノ教室の子。望が外の世界に出るきっかけを与えてくれ、ゾンビとの戦い方を教えてくれた少女。そして望を庇ってゾンビに噛まれた命の恩人。
望は自分が許せなかった。この世界が憎かった。何も出来なかった自分が悔しかった。怒りと後悔と絶望で涙が溢れて来る。だが今は泣いている場合では無い。
「ごめん」
望は銃の狙いをつけるために、大きく目を開いた。目の前には音葉がいた。
「怖い顔」
望の目の前にはいつも通りの、音葉がいた。顔色は青白いが、目はまだ黒い。眠そうな表情をしているが顔には知性があり、その視線は望の拳銃に向けられていた。
「それはまだ早いんじゃ無いですか?」
寝起きなのか気怠そうに音葉が言った。
「音葉ちゃん!? 君なんだよな。生きているんだよな?」
「はい。まだ私です」
音葉は白くなった右腕をぎこちなく振って見せた。
「正直まだ痛みますし、上手く動きません。でもゾンビ化の進行は止まったみたいです」
音葉が浴衣の袖を大きくめくる。右腕は上腕部分まで白くなっていたが、肩に届く前に止まっていた。よく見れば右腕の白化もゾンビほどは白く無い。僅かに血色もあり、歯形に巻かれた包帯からは赤い血が少しだけ滲んでいた。
「よかった。てっきり、もういってしまったのかと思った」
「飴と鎮痛剤と解熱剤をいっぺんに飲んだのが良かったのかもしれません」
「どうしてそんな事を?」
「正直、あの後心が折れたんです。痛みと苦しさに負けて、早く楽になりたいって。小笠原さんがくれた睡眠薬を飲もうとしたら見当たらなかったので、仕方なく他の薬と飴を全部飲み込んだんです。そしたらこの通りです」
「そんな奇跡みたいなことが起こるなんて」
「神様が助けてくれたみたいです」
そう言って音葉が微笑んだ。その時、空を覆う灰の層に切れ目ができた。本来の満月の光が部屋に差し込み、まるで天国に続く階段の様に音葉を照らした。
「行っちゃダメだ!」
望は手にしていた拳銃を畳の上に放り投げると、音葉に向かって駆け出し、押し倒す勢いでその身体を抱きしめた。
「えっ、ちょっと、お兄さん?」
浴衣一枚の音葉の身体は熱で体力を無くしていたからかひんやりと冷たかった。だが生きている。抱きしめた掌越しに音葉の体温と心臓の鼓動が感じられた。
「急にどうしたんですか?」
音葉は望を振りほどこうとしたが、消耗して力が出ないのと望が泣きながら自分を抱きしめていたのでしばらくこのままでいる事にした。
「月の光に君が溶けてしまいそうだったから」
「そんなロマンティックな消え方ができたらいいですね」
音葉は右手を垂らしたまま、左手を望の背中に回し、赤ん坊をあやすように軽く背中を叩いた。
「でも私はまだ人間ですから。この世から消えるのは、殺されるか、病気になるか、事故に遭うか、あるいは皺だらけのおばあちゃんになって老衰するかのどれかですよ。光で溶けたりはしません。ゾンビになる可能性は残ってはいますけど」
「もうゾンビにはならないよ。君は助かったんだから」
「どうでしょう。でもそんな気はします。噛まれた後、私が私で無くなる感じがずっとしていたんです。何かが身体と心を書き換えて行く様な。でも、今はその感覚はもうありません。全身の痛みもだいぶ落ち着きましたし、直感ですけれど、これ以上ゾンビ化は進まないと思います」
「良かった。音葉ちゃん、本当に」
望はさらに力を込めて音葉を抱きしめた。
「お兄さん、ちょっと窮屈です」
「俺はもう君を離さない」
「……そうですか。悪い気はしませんけれど」
望は立ったまま音葉の身体を支えていた。病み上がりの少女は自分の足で立っている事はできず、自然と望がその身体を支える事になった。音葉は華奢で軽かったが、それでも昨日の戦闘と長時間の運転で疲弊した望の脚には大きな負担だった。筋肉痛もあり、限界が近いと感じた望はゆっくりと膝を崩していく。
「ちょっと、お兄さん?」
「ごめん。でも離したくないんだ」
「まったく。子供ですか」
音葉も仕方なく望に合わせて膝を崩す。二人はまず膝立ちになり、やがて畳の上に並んで横になった。
望は音葉を自分の胸に抱きしめ、左腕を音葉の右腕に伸ばした。
「右腕には触らない方がいいですよ」
しかし望は音葉の忠告を聞こうとはせず、逃さないと言わんばかりに白くなった少女の右手に自分の指を絡めた。
「困った人ですね」
音葉はそれ以上は何も言わず、望のしたいようにさせた。
冷え切っていた音葉の身体が望の体温で暖められた頃、音葉が頭を上げた。二人は横になった姿勢で向き合う形になる。少女の温かい呼吸が望の首筋をくすぐった。音葉は浴衣の下には何もつけていなかったので、望は薄い木綿の生地越しに少女の柔かな肌の感触や身体の膨らみをはっきりと感じてしまっていた。実際のところ、望は音葉生存の奇跡に平静さを失っていた。だが徐々に気持ちが落ち着いて来ると自分が彼女を押し倒し身体を密着させている状況に気がつく。音葉から離れるべきだと思う一方で、もう二度と離したく無いという感情もあった。迷った挙句、望は感情のまま音葉を抱きしめ続ける事にした。
音葉は困惑していた。望から離れようという思いがある一方、このまま、あるいはもう少し近づいてもいいという相反する二つの感情の間を揺れ動いていた。望がさらに音葉を抱きしめた事で、音葉の気持ちも一方に傾く。
「お兄さん」
だが音葉の唇が動いた瞬間、望の脳裏に昔の出来事がフラッシュバックした。噴火の直前、望は西山と、生徒会室の机の下でこんな距離になり、唇を重ねた。音葉の向こうに失った恋人を見てしまい、望の表情が曇る。それを見た音葉は不満気に口を窄めた。
「……今、誰かの事を考えていましたよね?」
「あ、いや、そんな事は無いよ」
「嘘。顔に書いてあります。それと、言いたくは無いんですけど、臭いです」
「えぅ?」
予想外のセリフに望は音葉の背中に回していた腕を緩める。その隙に、音葉は身体をよじって二人の距離を開けた。
「私たち、ここ二週間近くお風呂に入っていませんよね。身体は拭いていましたけど、それだけじゃどうしようもない事もあります」
「そっか、ごめん」
望も慌てて音葉から離れる。音葉は身体を起こしたが、倒れた時に乱れたのか浴衣の裾が乱れており、脚や胸元が大胆に月の光を浴びていた。望の目はその白い太腿に釘付けになったが、音葉に睨まれ慌てて顔をそらす。少女は立ち上がるとゆっくりと浴衣を直した。一度部屋の出口を見た後、姿勢を正して再びその場に座り込む。
「お兄さん、私が回復するまでもう少し時間がかかると思います。しばらくはこの家にいてもいいですか?」
「ああ、もちろん」
会話の内容が日常的な物に戻り望は安堵した。
「この家、防犯がしっかりしているし、周りの家からも離れているから安全なはずだよ。しばらくはここにいよう」
「よかったです。食料はどうしますか。一度調達に出ないといけないですね」
「台所に結構な量が残っていたよ。そうめんとかひじきとかあった。あ、卵はなさそうだったけど」
「そうですか」
音葉は少し不機嫌そうに望から顔を逸らし外の月を見上げていた。
「しばらくここにいるなら洗濯もできますね。あとお風呂に入りたいです」
「風呂? でも水道とか電気とか……あ、そうだ。この家井戸があった。だから、きっと風呂もいれられると思うよ。井戸水を焚火で温めて、バスタブに入れれば」
「そうなんですか。期待しています。私はこんな腕ですから力仕事はできないと思いますけど」
「もちろん俺がやるよ。音葉ちゃんはじっとしていて」
「ありがとうございます。他のことは明日決めましょう。夜風にも十分当たれましたから」
音葉は立ち上がろうとしたが、まだ体調が万全では無く、ふらっとバランスを崩す。望はすかさず立ち上がり音葉を抱きとめた。
「大丈夫?」
「さっきから私の身体を触り過ぎです」
「ごめん」
望は音葉を立ち上がらせようとしたが、何故か彼女は首を横に振った。
音葉は望の顔を見上げ、その瞳をじっと見つめながら何かを考えていた。
「どうすればいい? 俺にできる事ならなんでも言ってくれ」
「……知ってますか? 私、本当は我がままなんです」
「え、そうなの?」
「そうなんです。ピアノは好きなメーカーの物に買い替えてもらったし、本番用のドレスも値段を気にせず好きな物を選びました。学校の校歌の伴奏だって他にやりたい子がいるのを知ってましたけど敢えて立候補したんです。コンクールで何度も優勝している私が手を挙げれば自動的に選ばれるのはわかってましたから。自己中で思いやりの無い子なんです。私は」
「ええと、それが今の状況と関係あるのか?」
「あるんです」
そう言って奥山音葉は彼女を抱き抱える少年の腕にはまった水色の腕時計を見た。過去は過去。思い出になった人に遠慮する必要は無い。
「ゾンビになるって思った時、生きたいと思いました。人間の命さえあればそれでいいって。でも生き残ってみたら別の欲しいモノを見つけたんです」
音葉は右腕に力を入れてみた。神経の数が半分になったように反応が鈍い。もうピアノを弾くような繊細な動きは出来そうに無い。血流も少なくなったのかひんやりと冷たかった。だがその右腕にはいつの間にか望が手を重ねていた。白くなった右手だが、彼の体に触れている部分ではしっかりと暖かさを感じる事ができる。失った物は多い。だが、新しく見つけた物がある。それを自分の物にしたいと少しくらい欲張っても罰は当たらないだろう。そう考えた音葉は水色の腕時計に小さく頭を下げた。そして目を閉じるとそっと望に身体を預けた。
この時間は、そしてこれからの時間も、生者だけのものだ。




