8月20日 丘の上の家(2)
望は勢い良く、車で家に続く坂道を駆け上がった。道は二十メートルの長さで、その先には広い庭、というよりは小さな広場のような空間があった。正面に二階建ての和風家屋、右手には軽トラックや農機具が置かれた大きな納屋、左手には二台分の駐車スペースのある車庫があった。車庫の中は空だった。望は家の玄関前に車を停めると素早くシートベルトを外した。
「家の中の様子を見てくる。もう少しだけ待ってて」
「気をつけて、ください。中にゾンビがいるかもしれません」
「見たところ無人みたいだから大丈夫」
音葉の体調はさらに悪化しているようだった。だが首回りにはまだ血の気がある。噛まれてから四時間ほど経過していたが進行は緩やかに思えた。あるいは、このまま人間でいられるのかもしれない。わずかな希望を胸に、望は拳銃とナイフ、ヘッドライトと最低限の装備を手に取ると運転席の扉を開けた。
「すぐに戻る」
外に出た望は、まず地面を確認した。自分達以外の足跡やタイヤの跡を探したが、辺り一面に積もった火山灰は新雪のように均質に整っていた。
「よし、外から誰かが来た様子は無い。家の中はどうだ?」
望は小走りで玄関に向かう。扉は磨りガラスの入った引き戸だったが、最近リフォームをしたらしく格子部分は真新しい金属素材でできていた。ガラス自体も強化ガラスらしく、力を込めたサバイバルナイフで叩いてもヒビ一つ入らない。一度体当たりをしてみるが、壊れる気配は無かった。
「さすがに玄関のドアは簡単に壊せる作りにはなってないか……。拳銃を使えば鍵は壊せるかもしれないけど、確実じゃないな。別の入り口を探そう」
玄関から入る事を諦めた望は他に入り口が無いか家の周りを調べる事にした。だが、一階部分にある窓にはしっかりと防犯シャッターが閉まっている。シャッターも新品に近く、ちょっとやそっとでは壊せそうに無い。外側からシャッターを上げられないか試してみたが、やはりピクリとも動かなかった。この家の住人は噴火が起きた後、しっかり戸締りをして避難したらしい。
「くそっ、時間が無いのに」
望は焦る気持ちのまま家の裏手に回った。そこには小さな庭があり、植木の他に物干し台や蓋をされた井戸があった。家屋の裏庭に面した部分には台所があるらしく、勝手口のような扉があった。望はノブを回してみたが、やはり鍵が掛かっている。
「ダメか。一階から入れないのなら二階か?」
ちょうど台所の上に二階のベランダがあった。梯子さえあれば簡単に登れそうだ。望は一度納屋に戻り、そこからアルミ製の脚立とネールハンマーを手に取った。裏庭に戻る途中、心配そうに外を見ている音葉と目があった。安心させようとハンマーを振ってみたが、疲れが出て来たのか、遠心力で重くなったハンマーに身体が引きづられ、危うく転ぶところだった。
裏側に戻った望はベランダの手すり部分に脚立を立てかけ、二階に登った。ベランダと二階の部屋は分厚いガラスの引き戸で隔てられている。望はポケットからキッチンペーパーを取り出すと鍵のあたりに当て、その上からネールハンマーを思いっきり叩きつけた。一発目でガラスに蜘蛛の巣状の白いヒビが入る。
「よし、いける」
望はハンマーで窓を叩き続けた。五回目で手応えがあり、鈍い音と共にガラスの一部が家の内側に落ちる。望はガラスに空いた穴に手を突っ込み引き戸の鍵を外した。
「次は家の中のチェック、そして後は玄関を開けて音葉ちゃんを中に入れる。急がないと」
望は引き戸を開けると家の中に入った。そこは広めの洋室で、普段は使われていないのか家具の類は置かれていなかった。長い期間締め切られていたからか、屋内にはずいぶんと熱がこもっている。時刻はそろそろ夕方になる事で、窓からの明かりだけでは心許なかった。望はヘッドライトを点灯させ、ハンマーを手に奥に進む。
洋室を出ると正面に和室があった。そこも使われていないらしく家具は無い。二階にはその二部屋しかなかったので望は急いで階段を下った。一階は二階に比べてかなり広かった。その上、シャッターが下りているので既に夜のように暗い。
ヘッドライトの明かりを頼りに確認作業を続ける。元々は大きな農家の建物だったらしく、一階の中心には襖で二つに仕切られた二十畳近い広さの和室があり、それを囲むように廊下と各部屋が配置されていた。階段を降りてすぐの右側は風呂場や洗濯機置き場、左側にはダイニングキッチンがあった。どれもリフォームしたてで真新しい設備が置かれている。キッチンや風呂場以外にも、書斎らしい洋室や客室らしい小さな和室などがあった。望は手早く全ての部屋を巡り、ゾンビや生存者がいない事を確認した。
「よし、この家は安全だ!」
望はハンマーやナイフを玄関の脇の下足入れの上に置き、鍵を内側から解除し家の外に出た。急いで車に戻り、助手席の扉を開ける。
「音葉ちゃん!?」
音葉は先ほどと変わらない様子でシートに体を横たえていた。その様子を見て、望は一先ずほっとする。
「家の中にゾンビはいなかったよ」
「そうですか……よかったです」
「入って休もう。歩ける?」
「多分……」
音葉は左腕で身体を起こそうとした。だが力が入らず、背中がわずかにシートから浮き上がっただけだった。望はすかさずその隙間に自分の腕を差し込む。音葉の背中は汗でぐっしょりと濡れていた。
「俺が支えていくよ」
「ありがとうございます……でも、そろそろ、私に近づかない方が、いいかも、しれませんよ?」
「いいから、掴まって」
望は音葉の体を起こすと、少女は素直に身体を預けてきた。熱で水分を失ったからか、少女はひどく軽かった。そのまま肩を貸しゆっくりと車外に出る。太陽は家の裏側にある林の向こうに消えており、周囲は薄暗く、風も冷たくなっていた。
「ゆっくりでいいから」
望は音葉に負担をかけないよう一歩一歩、地面を踏みしめながら進んだ。車から玄関までは三メートルもなかったが、その短かな距離を進むのにたっぷり数十秒を要した。音葉は脚を引きずるように、なんとか玄関の中に入る。
望は音葉を玄関に座らせると彼女が履いている頑丈な登山用の靴の紐を解いた。靴から出てきたのは小ぶりな足だった。望よりも二回りは小さなその足には、慣れない登山靴を履いたからか、指やかかとの部分に血が滲んだ跡があった。平然とゾンビと戦っていたように見えた音葉だったが、そんなわけは無かったのだ。望は唇を強く噛み締める。
両方の靴を脱がせた後、望は玄関の引き戸を閉め鍵をかけた。それから、家の中心にある広い和室に音葉を運ぶ。
「すぐに布団を用意する」
おそらく、親戚が集まった時に使うのだろう。押し入れには旅館のように来客用の布団と浴衣のセットが何組もあった。まず望は布団を一組取り出して畳の上に敷く。そのまま音葉を寝かせようと、柱に寄りかかっている音葉の身体に触れた。汗で湿っていた音葉の上着やジーンズは、夜風を浴び為ひんやりと冷たくなっていた。このまま寝かすわけにはいかない。
「ごめん。服を脱がすよ」
「セクハラですか?」
「文句は元気になってからいくらでも聞くから」
時々、一つ下の妹の看病をしていた望は躊躇なく音葉の服を脱がしていった。音葉も必要な事だと理解して、あるいはもう抵抗する力と気力が無いからか、されるがままになっていた。上着を脱がした時、ゾンビ化の進行具合がはっきりと見えてしまった。音葉の右腕は上腕部分まで真っ白に変色している。後少しで肩、そして胴体に達しそうだ。噛まれてから数時間、進行は早くは無いが、止まる気配もない。望は押し入れから持ってきた浴衣を音葉に着せると、今度こそ畳の上に敷いた布団に音葉を寝かせた。
「音葉ちゃん、解熱剤を飲んで。それから新しい水と食べ物、枕元に置いておくよ」
「……ありがとうございます」
望は小笠原からもらった救急バックから解熱剤を出し、音葉に飲ませた。残っている鎮痛剤や解熱剤はペットボトルと一緒に枕元に置く。バックの中には睡眠薬とウイスキーの小瓶も入っていたが、望はそれらは手にとらずバックのファスナーを閉じた。
横になった音葉は少し楽になったのか、呼吸が落ち着いていた。
「お兄さん?」
「いるよ。ずっとここにいるから、音葉ちゃんはゆっくり休んで」
「ありがとう、ございます。少し、横になったら楽になりました。……この家に、内側から鍵をかけられる、部屋はありましたか」
「あったよ。一階と二階の洋室が鍵付きだ。そっちの部屋の方がいい?」
「私は、ここで、いいです。でも、お兄さんは、その部屋に行って、ください」
音葉の頼みを望は直ぐに否定する。
「俺はここにいるって。音葉ちゃんの看病をするよ。そうだ、飴食べる?」
「お兄さん、聞いてください」
音葉は枕の上で頭だけを動かし、じっと望を見た。
「私は、いつゾンビになってもおかしくないです。たぶん、今夜くらいが峠だと、思います。だから、お兄さんは、鍵のかかる部屋にいてください」
「馬鹿な事言うなよ。音葉ちゃんはゾンビにならない。大丈夫だから。弱気になるなって」
「もちろんです。私は、諦めていませんよ」
音葉は笑おうとした。だが頬の筋肉が強張るばかりでうまく笑顔にはならない。
「これから精神を集中させてゾンビ化しようとする細胞と戦います。でも、隣にお兄さんが、いたら、心配で集中できないんです。だから、お願いです。しばらく、一人にしてください」
「でも!」
「心配しないでください。大丈夫です。明日になれば、私は元気になっていますから」
「俺は、ここに……」
「お兄さん!」
躊躇している望を音葉がありったけの力を振り絞って怒鳴りつけた。
「私の為を思ってくれるなら、今すぐ部屋を出て行ってください。そうしないと一生恨みますよ!」
「嫌だ。俺はここにいる」
「お兄さんも体力が限界の筈です。たくさんのゾンビと戦って、慣れない車を何時間も運転したんです。いつ疲れで倒れてもおかしくない。そんな状態では、ゾンビになった私に……」
音葉はそこで言葉を切った。
「お兄さんが一緒に残ってくれて、私、嬉しかったんです。一人だったら恐怖に耐えられなかったと思います。だから、もう十分です。同じ部屋でなくても、すぐ近くに私を知っている人がいる、それだけで、安心できます」
「音葉ちゃん……」
「だからお願いです。私を、一人にしてください。これ以上ここにいると、怒りますよ?」
望は目を閉じて天井を見上げた。音葉の決意の強さは痛いほどわかった。これ以上、望が何を言っても彼女を困らせるだけだろう。ゾンビ化を止める術を持たない望が音葉にしてやれることはもうほとんど無い。
「わかった。出ていくよ……。その前に、そうだ、明日の朝御飯は何が良い? 台所にレトルトや缶詰があったから、音葉ちゃんの好きな物を用意しておくよ」
「……オムレツか、卵料理でお願いします」
音葉が微笑んだ。望は「わかった」と力強く返事をして畳から立ち上がる。
「俺は……近くの洋室にいるから。廊下を挟んですぐ隣の。何かあったら声をかけて」
望は両手を拳をぎゅっと握りしめ、音葉に背を向け、部屋の外に向かった。襖を開けたところで後ろから音葉の声がした。
「お兄さん、ありがとうございました」
「卵、探してみるよ……また、明日」
望は溢れそうな感情を抑えながら、静かに襖を閉じた。
それから、向かいにあった書斎へ行き、音葉に言われた通りに内側から鍵を閉めた。カチッと扉が施錠される。頑丈そうな扉なのでゾンビに破られる心配は無いし、万が一の時は窓から外に逃げる事もできる。安全な場所に来た、望は意識せずそう思ってしまった。
「何を考えているんだ。この家にゾンビはいないんだぞ……くそっ」
しかし一瞬でも安堵し、気が抜けたところに体力の限界が来てしまった。望は扉を背に、その場に崩れ落ちてしまった。立ち上がろうとしても足が動かない。特に、アクセルを踏み続けていた右足では筋肉痛が始まっていた。
「ちくしょう。俺はなんて無力なんだ。音葉ちゃんを助けるって、側にいるって、口だけで何も出来なかったじゃないか」
両方の目から涙が溢れ出した。一度堰を切ってしまった感情はもう抑えきれない。望はかろうじて手を伸ばし、部屋にあったクッションを取ると頭を埋め、必死に嗚咽を殺した。音葉は廊下を挟んで隣の部屋にいる。彼女を不安にさせたくなかった。望は泣き続け、ピークに達した疲労でやがて意識を失ってしまう。太陽はすっかり地平線の彼方に消え、人間を失った世界を暗闇が覆った。




