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8月20日 丘の上の家(1)

 望は野瀬から借りた車を運転し、ホームセンターの駐車場から外に出た。助手席にはゾンビに噛まれた音葉がおり、苦しそうに呼吸をしながら傷の痛みや発熱に耐えていた。音葉の傷には車を出す前に応急処置をしていた。血で真っ赤に染まったハンカチを外し、傷口を消毒し、清潔なガーゼを当てて包帯を巻いた。白化の進行は早くは無かったが、最初に見た時は噛まれた部分がわずかに白くなっていただけだったのに、望がハンカチを外した時は既に歯形に添うように三日月型の白い痣のような物ができていた。この白化が全身に広がれば、音葉はゾンビになってしまう。残された時間は決して多くない。


 「どこに行こうか」


 ハンドルを握った望は、最初の交差点で一度ブレーキを踏む。信号機はとうの昔に動かなくなっていたが、直進するのか曲がるのか心が決まっていなかった。


 「いっそ長野に行ってみようか? 音葉ちゃんのお祖父さんの家があるんだよな。俺の妹の希美もいるかもしれないし」

 「……ここからだと遠すぎます。館山に向かってください。このまま野瀬さん達の車を追いかけましょう」


 出発前に飲んだ解熱剤が効いているのか、音葉の口調ははっきりとしていた。助手席のシートを限界まで倒し、ヘッドレストを枕代わりに休んでいるので運転する望から顔は見えない。


 「道路に野瀬さん達の車の跡はありますか?」

 「あるよ。でも、付いて行くのは良いけど、追い返されるんじゃないか」

 「合流しなければいいんです。館山の近くまで行って、どこか落ち着ける場所を探してください。私が回復するまでそこにいて、治ったら、改めて館山の自衛隊に行きましょう」

 「そうか、そうだな。何も全然違う所に行く必要はないか」


 望は交差点の中央を凝視し野瀬達の車列が残した跡を見つける。四台の車は交差点を左に曲がっていた。望はブレーキから足を離すとハンドルを切って野瀬達の後を追った。タイヤの跡は何度か交差点で曲がった後、高速道路に続くスロープに入っていった。望はスロープの手前で一度車を停車させる。そこには京葉道路と標識が出ており、様々な行先の中に館山の文字があった。


 「野瀬さん達はここから高速道路に入ったみたいだよ」

 「このまま、追いかけてみましょう。すみません、その前にお水をもらえませんか。喉が乾きました」

 「ちょっと待って」


 シフトレバーをパーキングに入れ、望はシートベルトを外して後部座席に置いたバックパックに手を伸ばす。水のペットボトルと、カバンの底にあった銀色の飴の袋を取り助手席をベッド代わりに休んでいる音葉に渡した。噛まれた右腕もまだ使えるらしい。音葉はしっかりとした手つきでペットボトルと飴の袋を受け取った。


 「ありがとうございます。これは何でしたっけ?」

 「ビタミン塩飴だよ。熱で汗をかいてるから塩分も取った方がいいと思って」

 「ああ、あの不味い飴ですね。ミルクキャンディーとかの方が好みなんですけど」


 文句を言いつつ、音葉は右手を使ってペットボトルの水を飲み、それから銀色無地の個包装を開き飴を口に入れた。


 「やっぱり、酸っぱいですね。でも、塩味が美味しいです。これ、もう少しもらっていいですか?」

 「もちろん。全部食べてよ」


 案外しっかりした様子の音葉を見て望はほっとしていた。ターミナル駅でゾンビになった女性、早見は、食べ物の味がわからないと言っていた。味覚がある間は、まだ大丈夫だ。


 望が運転する青い車はスロープを上る。しばらく進むと料金所があり、「高速道路封鎖中」の標識とカラーコーンが置かれていた。だが既に誰かが強引に突破した後らしく、カラーコーンの多くは倒れ、料金所のゲートも幾つかは破壊されていた。望も開いているゲートから中に入る。

 高速道路は片側三車線の広い道で、望は時速四十キロメートルほどで車を走らせた。慣れない車でスピードを出して事故に遭いたくなかったし、音葉の為にも出来るだけ安定した運転をしたかった。非常事態宣言のおかげか、道路上には通行を妨げる物は多く無かった。時々、事故にあった車、路上で亡くなった人の死体、頭部を破壊されたゾンビらしい死体も見かけたが、数は少なく車線も多いので簡単に回避する事ができた。運転がスムーズなので望は隣の音葉を気遣う余裕ができる。


 「調子はどう」

 「あんまり良くないです。全身が熱くて、だるくて、傷口がチクチクします。腕の中で針が飛び回っているみたいな感じです。ゾンビの細胞と私の細胞が戦っているんだと思います」


 音葉は左手と口を使ってビタミン塩飴の個包装を開き新しい飴を頬張っていた。文句を言っていたが気に入ったらしい。飴が音葉の歯にぶつかって軽い音を立てる。望はちらりと音葉の右腕の様子を伺った。ついさっきまで、普通にペットボトルの蓋や飴の個包装を開けていた右手は今はシートに横にしたまま動いていない。痛みが増しているのだろうか。


 「やっぱり不味いです。おじさんの会社、こんな飴を本気で売るつもりだったんでしょうか」

 「どうだろう。試作品、って言ってたからな」


 望は緩やかなカーブの手前で速度を落とした。中央分離帯の壁に何かが激しく擦った跡があり周囲に大量のゾンビの死体が転がっている。誰かがここでゾンビと戦ったらしい。路面に広がったゾンビの体液は乾き切っているので野瀬達ではない。この世界にはまだ多くの生存者がいるようだ。


 「そういえば、俺達まだ自衛隊の放送を聞いてなかったな」

 「放送ですか? ああ、確かにこの車にはラジオがありますね」

 「このスイッチかな?」


 カーブを抜けた所で望はカーラジオを起動させた。周波数が分からなかったので、自動選局を選択するとディスプレイに表示された数字がクルクルと変わっていき、やがてピタリと止まる。するとアップテッンポのBGMと妙にテンションの高い少女の声がスピーカーから流れて来た。


 『……だからみんな、最後まで諦めないでください! 希望は心の粗大ごみ。簡単には捨てられないし、リサイクルもできるんだぞっ!! 私は館山でみなさんを待ってまーす。いつかライブもする予定です。だから絶対に会いに来てくださいね。酸っぱい初恋みんなに届け、広島県のローカルアイドル、サンミーの美宇でした! ご清聴ありがとうございますっ』


 少女の言葉が終わるとBGMのボリュームが上がる。どこかのアイドルグループの歌らしい。やたらと高いテンションで愛や恋について歌っている。下手ではないが取り立てて上手くもない。いずれにせよ、日本中がゾンビで壊滅した状況にはまったく似つかわしくない曲調だった。予想外な放送内容に、望と音葉はしばらく反応に困った。


 「……なんだこれ? これが自衛隊の放送なのか? ずいぶんとふざけているな」

 「館山って、言っていたから、たぶんそうなんだとお思います。世の中が無茶苦茶になっているのに広島のラジオ放送が東京で流れる理由もないと思いますし。テレビとかで、難しい内容を放送する時に、多くの人に見てもらうためにタレントを使う事がありますよね。これも、そういう事だと思います」

 「まあ、真面目な自衛隊のおっさんの放送よりは聴きやすいかもしれないけどさ」

 「少なくとも、地下鉄で都庁の生き残りを殺すような人達ではなさそうですね。それだけで収穫です」

 「確かに。誰かに脅迫されて喋ってるって感じでも無かったもんな。そうか、生き残り同士で争う事もあるんだから、自衛隊がいるからって素直に館山に行くとは限らないもんな」

 「はい。でもこの放送なら、そういう心配は少なくなります」


 BGMが終わった。少しの間を置いて、再び同じ曲のイントロが流れ、そのボリュームが徐々に小さくなっていく。


 『みなさん、こんにちはー。生きてますかー!』


 再び能天気なアイドル声がラジオから流れる。よく聞けば、声はわずかに上擦っているようだった。


 『わたしは、広島県の三吉市を中心に活動しているローカルアイドル、サンミーの、美宇でーす。番組を間違えたかなって思ったそこのあなた、チャンネルはそのまま! これは海上自衛隊の護衛艦「いずも」から皆さんにお知らせです』


 やはり自衛隊の放送らしい。望は車の速度を落としながら放送に耳を傾けた。


 『私は海上自衛隊の護衛艦「いずも」に乗って広島からやって来ました。今は千葉県の房総半島の南にある海上自衛隊館山基地にいます。この放送を聞いている皆さん、世界はめちゃくちゃになってしまいました。広島市も呉市もゾンビで壊滅しています』


 少女はそこで息を呑んだ。


 『でも希望は捨てないでください。館山にはまだ自衛隊がいます。ここには皆さんを守れる武器、安全なシェルター、怪我を直せるお医者さんと薬、十分な食糧、寝る所、全部が揃っています』


 だんだんとテンションが上がってきたのか美宇と名乗った少女の声に弾みがついて来た。


 『食料だけじゃありません! 大きな調理室でカレーでもとんかつでも何でも作れるんです。ちなみにわたしたちサンミーは酸っぱさがアピールポイント! わたし美宇は初恋の甘酸っぱさ担当ですっ! ではここでサンミーのセカンドシングルから「初恋のストロベリーレモネード」を……えっ?』


 そこで微妙な間が流れる。どうも録音中の少女に外から指示が出ているようだ。


 『おほん。ええと、音楽は時間がないのでカットします。残念っ。でもでも、何と館山にはお風呂もあるんですよ。大き過ぎて入浴剤が足りないくらい。基地は広いです。百人でも、千人でも大丈夫です。どんどん来てください』


 それから美宇は館山への行き方を何パターンか説明していた。望達が走っている京葉道路もその中の一つだった。京葉道路から館山自動車道という道に入ればいいらしい。


 『みんな! どんなに辛い事があっても諦めないで!! 世界は終わっていません。館山にはたくさんの生存者がいます。だからみんな、最後まで諦めないでください! 希望は心の粗大ごみ。簡単には捨てられないし、リサイクルもできるんだぞっ!! 私は館山でみなさんを待ってまーす。あ、いつかライブもする予定です。だから絶対に会いに来てくださいね。酸っぱい初恋みんなに届け、広島県のローカルアイドル、サンミーの美宇でした! ご清聴ありがとうございますっ』


 再びBGMのボリュームが上がる。少し間を置いて、ラジオは、再び同じセリフを繰り返し始めた。望はもう一度放送を聞いた後、ラジオの電源を落とす。


 「この放送、録音みたいだけど録り直そうとは思わなかったのかな?」

 「ふざけた放送です。でも、ゾンビ相手に殺し合いをしているのがバカバカしくなりますね。アイドルですか……」


 音葉が左手を使ってペットボトルの水を一口飲む。


 「興味あるんだ?」

 「いえ。ありません。ただ、音楽ができるのは羨ましいって思ったんです。この子、自分の持ち歌を披露しようとして止められていましたよね」

 「それはそうだよ。歌なんて歌ってる場合じゃないだろ」

 「……きっとみんなそう言いますよね。音楽なんてしてる場合じゃないって。……私の名前、音葉じゃないですか」


 痛みを忘れるためか、あるいは薄れていく意識を保つためか、音葉が独り言を続けるように話続けた。


 「お母さんがつけてくれた名前なんです。音は音楽、葉はページって意味を込めたそうです。楽譜をイメージしてつけた名前って言っていました」

 「音葉ちゃんのお母さん、ピアノの先生だったんだもんな」

 「お兄さんも小学生の頃はうちの教室に来ていましたよね」

 「すぐに辞めちゃったけどな」


 望が初めて奥山音楽教室に行ったのは小学校に上がる前だった。思えばその時すでに小さな音葉を見かけた気もする。直接会話をする事は稀だったが、望と音葉の関係は時間にすると結構長い。


 「お母さんは、私をピアニストにしたかったんです。自分がプロになれなかったから。だから、私は中学で部活に入らずずっと家でピアノの練習をしていました」

 「もしかしてピアノ、嫌いだったのか?」

 「そうですね……好きと嫌いが半分くらいです。お母さんの夢を押し付けられるのは嫌でしたけど、音楽は好きです。ピアノを弾いていると、この宇宙の全部が音と自分だけに澄み切るような感じがするんです」


 それから音葉はゆっくりと自分の話を続けた。初めてピアノを触った日、練習をサボって母親に叱られた事、学校で校歌の伴奏に選ばれた事、コンクールで優勝した事、ハンガリー人の留学生と技術を競い合った事、それはまるで言葉の走馬灯のようだった。望は運転をしながら、時々相槌を打ち音葉の言葉を聞いていた。これを最後まで聞いてしまったら、もう音葉が帰って来ないような気がした。しかし望には音葉を止める事はできなかった。


 「……今年の夏休みは、ヨーロッパに行く予定だったんです。本当なら、今頃はオーストリアで、ホームステイしているはず、でした。有名な、ピアノの先生の家に三週間。でも、富士山が噴火して、飛行機は飛びませんでした」

 「ヨーロッパか。俺は海外に出た事ないから、羨ましいよ」

 「落ち着いたら、行きましょう。ウィーンなら案内できますよ……」


 喋り疲れたのか、音葉はそこで言葉を切った。カップホルダーに収まったペットボトルの水を取ろうとしていたが左腕がうまく動かなくなったらしい。指がペットボトルのキャップの辺りを滑っている。


 「大丈夫?」

 「少し、疲れて来ました」

 「そろそろ休める場所を探すよ。もう少しがんばって」

 「……お願いします」


 望は一度車を停めると、ペットボトルを手にとって音葉の口に運んだ。音葉は血の気の無い唇を開き何口か水を口にする。「飴はいる?」と聞いたが、音葉は億劫そうに首を小さく横に振るだけだった。望は唇を強く結び、車を走らせた。


 しばらくして、千葉北と書かれた出口が見えて来た。周囲は高い防音壁に囲まれていて外の様子が分からなかったが、望はここで高速を降りる事にした。


 「下の道に戻るよ」


 音葉は無言で頷く。解熱剤の効果が切れたのか、あるいは熱が上がったのか、額には大粒の汗が現れていた。


 高速道路から降りると小さな街があった。幸いなことに道路に大きな障害物は無く、ゾンビも走って車を追いかけてくる個体はいなかった。しばらく道なりに進むと、建物がまばらになり、畑と民家が点在する田園風景が現れる。大地には灰が薄らと積もっており、稲や作物の多くは枯れてしまっていた。だがそのおかげで視界は良い。


 「この辺りなら家が密集していないからゾンビも少なそうだよ。畑の中の民家を探すから」


 音葉は苦しげに息をしながら擦れる声で小さな返事をした。

 望はハンドルを切って畑の間を進む農道に入った。十分ほど進んだ所で一軒の家を見つけた。その家は小さな丘の上にあり、周りを木で囲まれていた。丘の周囲は全て畑で半径数百メートルの範囲に他の人家は無い。


 「あそこなら見晴らしもいいし、守りやすそうだ。音葉ちゃん、あそこの家にするよ。あともうすぐで着くからがんばって」

 「……うん」


 弱々しい声で音葉が呟いた。

 望はその丘の家に進路を決めると気持ち強めにアクセルを踏み込んだ。

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